今年の復活の金曜日は、ちょうど初金曜日になりました。 聖週間の受難の主日(枝の主日)と聖木曜日《主の晩餐の夕べのミサ》には、とても立派なお花が供えられました。 幸せなことに信徒さんの中にお花屋さんがいらして、予算以上の素敵な花を出してくださるんです。(神様に感謝)
気温が低かったこともあって、前日にいけばな当番にいったら、祭壇にお花が溢れていました。 しかし、枝の~、聖木から1週間たっているので、少し花が傷みかかっていたのでそのままにしておくわけにいかないので、生け替えが必要になりました。 自分の当番の花だけなら楽だったんだけれど・・・。 その作業時間を考えるとちょっと溜息が出ました。 事務受付当番の人に話したら、手伝って下さると・・・・・ラッキー!(神様に感謝)
花全てを外して傷んだのとそうでないのを選り分け、どんな風に生け直そうか・・・としばし思案・・・・・。 バスケット2台に入っていたのを1台にして、枝の主日の枝を利用して、2杯生けました。 そのうちの1杯:左写真のテレジア様横。 マリア様の前は聖木曜日の花をそのまま、傷んだ花だけ少しはずして・・・。
初金ミサの花を生けるのはわずか20分ほど(右写真)。 予算1000円で胡蝶蘭2本を購入。 我が家の庭のドウダンツツジが今年は満開だったので一枝葉っぱが出かかってきたところ。 そして、たいして世話もしないのに、毎年けなげに花をつけるデンドロビウムを足元にささやかに5本。枝の主日に生けられていたハランを利用してみたら、結構、素敵になりました。
才能っていったいなんだろうか?
多くの人は、みんながあっと驚くような、天才的に何か目立つことが出来る事が才能だって思っているようだ。 よく「天才は1%の才能と99%の努力でなる」っていうけれど、どうも話を聞いてると「99%の才能と1%の努力」だと思い込んでいる人の方が多いみたい。 報道されるような大きなイベントや発表会、展示会が出来るくらいでないと、「才能」とは呼べないと・・・・・・・で、結局「努力」をしない。 何もしなくても急に「あっと驚くようなこと」なんてできるわけがない。
才能はそれぞれ内容や段階も違っていいんじゃないの? それぞれの段階でできたことが、皆を喜ばせることが出来るなら・・・。 上の段階でないと何もできないと尻込みしてたら、いつまでたっても何もできないまま。 他の人の批評を気にして何もしないより、何かをして少しずつ学び、批評は学びの為の肥料だと思えばいい。 他の人に比べて才能がないからと悲観してあきらめることもない。 たいして何もしないうちから、「自分には才能がないから」と言ってあきらめちゃっている人が多すぎる。
特別な才能を持っているからと言って、特別な場でしか発揮しないという人もいる。 折角(神様から)与えられた才能をあらゆるところで生かして多くの人を喜ばせるのに、いつも対価が必要かしら? 確かにお金をもらうとその分気概が生まれ、より良いものとして与えることも一つの方法だけれども、一番必要としているところで才能を生かさなければ意味がないのでは? 自分の為だけに使っているのはもっと無意味だし、自己満足で終わるのでは?
タレント(才能)って言葉は、聖書の中に「タラントン=タラント」という古代ギリシャ・ローマの通貨・質量名からきているらしい。 聖書の中のたとえ話[マタイによる福音書:25章14-28節]に、神様から与えられた能力(タラント)をそれぞれに応じて生かしていく話がある。 人間らしいところで、”目に見えるお金”が報酬として与えられているので、才能を生かすことは目に見える対価を伴うことのように思いがち。 でも、イエス・キリスト(=神様)が言いたかったのは、目に見えない対価もあるっていうことだったんじゃないかしら?
神様の為にその才能を戻してはいかが?
ということで、神様の家である教会の為にも、もっと才能(神様から与えられたもの)を発揮してもらえたらいいなって常々思う。 実は、あらゆる部分で中堅層の人が教会に関わらない現実がある。 きっと、才能をお仕事で発揮されているのだと思う。 でも、ほんのちょっとだけ、神様にお返しするつもりで、その才能の一部を時々使うのは、大切なことではないかしら?
その世界では、大した能力ではなくても、何も出来ない人にすれば、ものすごい才能に思える。 一番重要なことは、その才能を使うことによって、他の人に「やってあげたんだ」と思うことでなく、「一緒にやって、一緒に喜びを分かち合った」ってこと。 そして「神様、ありがとう」って感謝すること。
勿論、仕事も忙しくて一番油が乗っている時。 親の介護もあるだろう。 だけど、数か月に1回でも他の人が出来ないことが少しでも出来るなら、ちょっと力を使っても、神様の家の為なら決して罰は当たらないと思う。 却って、神様がさらに力を下さると思う。
「目に見える宝をこの世に積むより、目に見えない宝を天の国に積む方が良い」っていう聖書の言葉もある。 才能を使った(生かした)ことを目に見える形で感謝されたり、褒められることだけを求めて、人間は生き甲斐や遣り甲斐を感じてしまいがち。 でも、目や耳に見えたり聞こえたりする形で感謝されることに執着すると、その才能の本質が品位を欠いたものになりはしないだろうか?
才能は、自分にたまたま与えられた物だととらえるべきではないだろうか? そして、それを育てる機会、環境をたまたま与えられたと思う方が本当ではないだろうか? その才能は、必ず誰かを助け、支え、喜びを与えるために無償で使った結果、この世で生きるために神様が有償の形で与えて下さったのだととらえるほうが良いように思う。
出し惜しみしないで、遠慮もしないで、在るがままの力と方法と機会で、ひたすら懸命に神様に捧げて祈って奉仕することを、教会の為にほんの少しだけ分けてもらいたいと・・・。
レベルの低い段階の私でも、これだけ出来るし役に立っているのだから、きっと、もっとレベルの高い人たちならば、もっと楽々と出来るだろうし、皆から感謝されるのではないだろうか? さらに、神様から大きな力をもらい、新たな活躍の場(きっかけ)もあるのではないだろうか?
実は、私にもどういうわけか、いろいろなところからオファーが来る。不思議なことに? 無償でするつもりでしたことが有償になって・・・。 東日本大震災被災者をはじめ、もろもろの支援募金になってますけど・・・。 募金の為に稼ごうと、プロ(オルガニスト)でやろうと半年研修に通ってみたけれど、体調が良くなくてあきらめざるを得なくなってガッカリしたけれど、プロの条件よりも良い結果。 研修したことは、バッチリ生かされているし、奉仕への態度も前向きになったし。