よく授業中に話す小ネタの中でも、一番評判のよいというか、
わりとみんなが覚えていてくれる話が、この「ありがたい話」なので、
それを披露しましょう。
①人間は「本能の壊れた動物」である。
他の動物に比して人間の赤ちゃんはまったくの無能状態で生まれてきます。
魚の赤ちゃんは孵化した瞬間に泳ぎ始めますし、
馬の赤ちゃんも生まれた瞬間に立ち上がります。
それに比べて人間の赤ちゃんはまったく何もできず、
親が面倒をみてくれなかったらほんの数日も生き延びることができないでしょう。
人間は基本的な本能が壊れています。
生存本能すら壊れているので、人間は自殺してしまうこともできるし、
種の保存本能も壊れてしまっているので、
性行動(セクシャリティ)と生殖活動(子どもをつくる)が分離してしまっています。
②人間にとって当たり前なことは何もない。
本能が壊れているということは、つまり自然によって決定されていないということです。
あたかも自然法則によって定められたことであるかのように思えることも、
実は人間にとってぜんぜん当たり前のことではないのです。
「人間なんだから○○して当然」とふつう思われていることも、
実は、文化として人々がそう決めたというだけの話であって、
自然によって決定されているわけではないのです。
ただ生きていくということですら、人間にとって当たり前ではありません。
むしろ日本人は百年ちょっと前には、
「(場合によっては)自殺することが当たり前」という切腹文化を作りあげていましたし、
60年ぐらい前には、神風特攻隊という文化も作り出しました。
自分の命を守るということですら、
人間にとっては自然によって定められた当たり前のことではなく、
文化によっていくらでも変更可能なことなのです。
③人間が他人のためにしてあげることで当たり前のことは何もない。
自分が生きていくということですら人間にとって当たり前ではないのですから、
ましてや、人間が他人のためにしてあげることで当たり前のことなんて何ひとつありません。
もしもある人が誰かに何かをしてあげたのだとしたら、
それは自然法則に従って当たり前のこととして行ったのではなくて、
意志の力でやってあげようと思って自発的に意図的にしてあげたことです。
母性本能とか父性本能という言葉がありますが、
人間の場合、親に子どもの面倒をみるという本能が備わっているわけではありません。
ですから、たいていの親は子どもの世話をしますが(それはひとえに文化のおかげ)、
中には子どもを捨ててしまったり、育児を放棄してしまったり、
さらには自分の子どもに虐待を加えたり、
そして殺してしまったりする親も存在するのです。
親が子どもの面倒をみることすら本能的にやっていることではないのですから、
人間が他人のためにすることで自然な当たり前のことなんて何もありません。
④他人のために何かをしてあげるというのは有ることが難しいこと。
したがって、誰かが他の人のために何かをしてあげたとするならば、
それはよくある当たり前のことなんかではまったくなく、
めったに起こることのない、「有ることが難しいこと」、
すなわち、「有り難い(ありがたい)こと」なのです。
⑤「有り難い」から「ありがとう」
だからそれに対して私たちは「ありがとう」と言うのです。
誰かが何かをしてくれたら、やってくれて当然じゃん、ではなく、
それはとても「有り難い」ことなのだということは知っておいたほうがいいでしょう。
ご両親がお金を稼いできてご飯を作ってくれ学費を払ってくれたとしたら、
それはとても有り難いことですし、
友だちが朝あいさつしてくれたり、自分の話ににっこり笑ってくれたりしたら、
それはとても有り難いことなのです。
コンビニの店員さんがマニュアル通りに「いらっしゃいませ」と言ってくれることですら、
それはやはり自然本能でやっていることではなくて、有ることが難しいことなのです。
そう思えば、日々のほんの小さなすべてのことに対して、
感謝の気持ちが湧き上がってくるのではないでしょうか。
「ありがとう」という言葉はそういう気持ちが込められた、
とてもいい日本語だと思います。
だから私は、毎日できるだけたくさん「ありがとう」と言うようにしています。
人との関係において、
やってくれて当たり前、ああしてくれて当たり前、こうしてくれて当たり前、
という感覚を少しずつ減らしていき、
むしろ、やってくれないのが当たり前、思い通りにやってくれなくても当たり前、
もしも自分のためにちょっとでも何かやってくれたら「ありがとう」、
こんなことまで、あんなことまでやってくれたら「本当にありがとう」、
そういう気持ちで生きていけると、とっても幸せな気分になれますよ。
以上です。
どうです?「ありがたい話」だったでしょ。
わりとみんなが覚えていてくれる話が、この「ありがたい話」なので、
それを披露しましょう。
①人間は「本能の壊れた動物」である。
他の動物に比して人間の赤ちゃんはまったくの無能状態で生まれてきます。
魚の赤ちゃんは孵化した瞬間に泳ぎ始めますし、
馬の赤ちゃんも生まれた瞬間に立ち上がります。
それに比べて人間の赤ちゃんはまったく何もできず、
親が面倒をみてくれなかったらほんの数日も生き延びることができないでしょう。
人間は基本的な本能が壊れています。
生存本能すら壊れているので、人間は自殺してしまうこともできるし、
種の保存本能も壊れてしまっているので、
性行動(セクシャリティ)と生殖活動(子どもをつくる)が分離してしまっています。
②人間にとって当たり前なことは何もない。
本能が壊れているということは、つまり自然によって決定されていないということです。
あたかも自然法則によって定められたことであるかのように思えることも、
実は人間にとってぜんぜん当たり前のことではないのです。
「人間なんだから○○して当然」とふつう思われていることも、
実は、文化として人々がそう決めたというだけの話であって、
自然によって決定されているわけではないのです。
ただ生きていくということですら、人間にとって当たり前ではありません。
むしろ日本人は百年ちょっと前には、
「(場合によっては)自殺することが当たり前」という切腹文化を作りあげていましたし、
60年ぐらい前には、神風特攻隊という文化も作り出しました。
自分の命を守るということですら、
人間にとっては自然によって定められた当たり前のことではなく、
文化によっていくらでも変更可能なことなのです。
③人間が他人のためにしてあげることで当たり前のことは何もない。
自分が生きていくということですら人間にとって当たり前ではないのですから、
ましてや、人間が他人のためにしてあげることで当たり前のことなんて何ひとつありません。
もしもある人が誰かに何かをしてあげたのだとしたら、
それは自然法則に従って当たり前のこととして行ったのではなくて、
意志の力でやってあげようと思って自発的に意図的にしてあげたことです。
母性本能とか父性本能という言葉がありますが、
人間の場合、親に子どもの面倒をみるという本能が備わっているわけではありません。
ですから、たいていの親は子どもの世話をしますが(それはひとえに文化のおかげ)、
中には子どもを捨ててしまったり、育児を放棄してしまったり、
さらには自分の子どもに虐待を加えたり、
そして殺してしまったりする親も存在するのです。
親が子どもの面倒をみることすら本能的にやっていることではないのですから、
人間が他人のためにすることで自然な当たり前のことなんて何もありません。
④他人のために何かをしてあげるというのは有ることが難しいこと。
したがって、誰かが他の人のために何かをしてあげたとするならば、
それはよくある当たり前のことなんかではまったくなく、
めったに起こることのない、「有ることが難しいこと」、
すなわち、「有り難い(ありがたい)こと」なのです。
⑤「有り難い」から「ありがとう」
だからそれに対して私たちは「ありがとう」と言うのです。
誰かが何かをしてくれたら、やってくれて当然じゃん、ではなく、
それはとても「有り難い」ことなのだということは知っておいたほうがいいでしょう。
ご両親がお金を稼いできてご飯を作ってくれ学費を払ってくれたとしたら、
それはとても有り難いことですし、
友だちが朝あいさつしてくれたり、自分の話ににっこり笑ってくれたりしたら、
それはとても有り難いことなのです。
コンビニの店員さんがマニュアル通りに「いらっしゃいませ」と言ってくれることですら、
それはやはり自然本能でやっていることではなくて、有ることが難しいことなのです。
そう思えば、日々のほんの小さなすべてのことに対して、
感謝の気持ちが湧き上がってくるのではないでしょうか。
「ありがとう」という言葉はそういう気持ちが込められた、
とてもいい日本語だと思います。
だから私は、毎日できるだけたくさん「ありがとう」と言うようにしています。
人との関係において、
やってくれて当たり前、ああしてくれて当たり前、こうしてくれて当たり前、
という感覚を少しずつ減らしていき、
むしろ、やってくれないのが当たり前、思い通りにやってくれなくても当たり前、
もしも自分のためにちょっとでも何かやってくれたら「ありがとう」、
こんなことまで、あんなことまでやってくれたら「本当にありがとう」、
そういう気持ちで生きていけると、とっても幸せな気分になれますよ。
以上です。
どうです?「ありがたい話」だったでしょ。