まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

平和の定言命法と平和実現のための仮言命法

2009-08-15 12:00:00 | グローバル・エシックス
今日は終戦記念日だったので、
故・加藤国彦先生の論集から勉強会の報告文を引用させていただきます。
私が以前に書いた論文「平和の定言命法と平和実現のための仮言命法」を
勉強会(公民科学習の研究会)で発表したあと、
その報告文を加藤先生がまとめてくださいました。
今日の日にふさわしい素晴らしい文章だと思います。
加藤先生、本当にありがとうございました。


第20回勉強会の若干の報告
レポーター 小野原 雅夫 氏(福島大学人間発達文化学類)
テーマ   「平和の定言命法と平和実現のための仮言命法」

 福島大学の小野原雅夫氏がカント倫理学を専門としているのは周知の通りだが、今回の問題提起は、氏も所属するカント学会で一度発表されたものに基づいている。
 「いかなる戦争もあるべからず」というこの無条件的な禁止命令を、十年以上も前に、小野原氏は「平和の定言命法」と名づけた。この名づけは、カント倫理学の世界のなかでは初めてのことらしい。むろん、定言命法というタームはカント特有のもので、「…すべし」と命ずる無条件の絶対的命令をいい、普遍妥当性をもつ道徳法則の形式である。これを法哲学のレベルで用いることは、学問の世界では当初認めがたかったようである。
 高校の現場では、たとえば《「正直であるべし」が定言命法で、「もし信用を失いたくなければ正直であるべし」が仮言命法である》などと教えることが多い。それゆえ次のような問題が派生する。《カントは「嘘も方便」などと結果に左右されるような半端なことは許さない。いついかなるときでもだれに対しても「嘘をついてはならない」のである。相手が末期ガンで死ぬとわかっていても、きみはガンだと正直に答えなければならない。義務への尊敬の念にもとづいて、なすべきがゆえになす。それがカントの道徳法則である。ゆえに、動機説に立つカントの倫理学は厳粛主義といわれる。》だいたいこのように説明すると、生徒はついていけなくなる(ついてこなくなる)。そもそもそんなカントに対し、当時からも、詩人シラーは「残念ながらぼくは好きで友人に尽くす、だからぼくは有徳ではないと思い悩む」と嘲笑的に揶揄している。カントの道徳論は同時代人からも変だと思われていたのである。それゆえ私は、そんなリゴリズムのカントを教えてどうするのかという疑問をいつの頃からか抱えていた。カントの真意を、そんな卑近な通俗モラルで捉えることはどこか間違っているのではないか、もっと違う方法でカント倫理学をつかまえるべきではないか、少なくとも生徒に伝えるカント像はもっとヴィヴィドであるべきで、それには別のアプローチがあるのではないかと模索していた。以前、そんな趣旨でトンチンカンな論文も書いたことがある。(小野原さんと連名だったためで、小野原さんは迷惑だったことと思う。)
 しかし、今回の勉強会で学んだことは、ここにこそ迫りやすい方法があったのではないかということである。「いかなる戦争もあるべからず」=「平和の定言命法」である。カントの道徳法則は、「汝の意志の格率が、つねに同時に普遍的な法則として妥当しうるように行為せよ」という定式で示されるが、これを個人間のみならず、国家間にも適用できるというのがカントの永遠平和論である。相手国が気に入らないから戦争する、ダメである。相手国が従わないから戦争する、ダメである。相手国が攻めてくるだろうから戦争する、ダメである。(もしそれを認めたら、攻めてくるという理由で先制攻撃も可能であるし、また実際そうしてきたからである。)では、相手国が現実に攻めてきたらどうする?――さすがに戦争するしかないじゃないか。抵抗もせずやられっぱなしというわけにはいかない。応戦する以外にないだろう。よって自衛戦争までは否定できない。――だとしたら「いかなる戦争もあるべからず」は普遍法則として妥当しないのではないか?
 カントの主張は間違っているのではないか? 私は、それは論点をはずした議論と考える。カントが言うのは、いかなる戦争も「仕掛ける」ことを禁ずるのであって、仕掛けられた戦争にどう対応するかという話ではない。戦争は確かに相互行為であるが、問題なのはそういう結果に至るような原因の種(侵略、暴力的干渉、脅迫など)を主体的に蒔いたりすることを禁じているということである。「いかなる戦争もあるべからず」とは、そういう意味で定言命法化しているのではないだろうか。国家意志としていかなる戦争もしないというのは、国家意志として戦争を仕掛けるような行為を一切しないということで、これが全ての国家間に妥当する普遍的な道徳法則であるということである。ここに例外を認めないということである。(違うでしょうか、小野原さん。)それゆえに、カントの平和論は定言命法として成立するのである。これだと、嘘をついてはならないなどというケーススタディよりも、力強く明快に理解できるような気がする。
 そういう意味で、日本国憲法第九条の位置づけは、小野原さんの指摘の通り、カントの「平和の定言命法」を国家意志としてまさに成文化し、体現したものにほかならない。しかし今回のテーマは、それとリンクして「平和実現のための仮言命法」を考察するところに力点がある。なぜなら、《お題目のように、「いかなる戦争もあるべからず」といつまでも唱え続けていても消極的平和(たんに戦争がない状態)すら実現できないだろうし、ここは一歩足を踏み出して、積極的平和を構築するための具体的手段=「平和実現のための仮言命法」を提示していく必要がある》からである。むろん、平和実現のために武力行使や戦争をしたのではカント倫理学に反する。平和は平和的な手段で達成する以外にない。目的は手段を正当化しないのである。では、具体的にどうしたら目的実現に資する許容可能な手段があるかということである。
 これはなかなか難しい問題であるが、私の考えではそのことは第二項で明記されていると思っている。すなわち、日本国憲法第九条は、第一項で「定言命法」(戦争放棄)を述べ、第二項で、「平和実現のための仮言命法」(それを実現するべく戦力不保持と交戦権の否認)を規定していると考えられる。ここには、非暴力不服従の必要条件が整っているだけでなく、いかなる戦争も仕掛けることを不可能にしている十分条件が備わっているように思える。国家意志として崇高な目的を達成するのに、崇高な手段で実行すると発信している点で、日本国憲法はまさにカントの永遠平和論を文字通り血肉化している。これを一国平和主義と騙るのは早計であって、国際平和を醸成するモデルを示していると理解すべきである。それゆえ、昨今論じられている九条改正の与党案では、第一項をそのままにして、第二項で国際貢献上、「戦力」の存在を明記するとなっているが、それはカントの定言的禁止を逸脱するものではないだろうか。改正論者は、軍隊も持たずして、ならず者国家や国際テロリストとどう応戦するのだ、丸裸で国民を守れると思うのか、世界の現実は常にパワー・ポリティクスだ、主権国家として自衛軍を保持するのは当然の権利ではないか……などと主張する。それに対しては、むしろそう主張すればするほど、永遠平和=カントから遠のいていくと答えたい。日本という国家が、一世紀以上戦争しない歴史をもったなら、一世紀以上、他国の人々を一人として殺さないでいたとしたなら、どれほど国家としての価値を高め、信頼を厚くすることか、はかりしれない。いや、ぼやぼやしていたら、その前に我が国民が攻め殺されてしまうという想像力は、半世紀以上生きても私には湧いてこない。貧困なる精神と言われればそれまでである。そんなことを思いめぐらした二時間半だった。


文中で「違うでしょうか、小野原さん。」と問いかけられていましたね。
その問いに直接お答えしていなかったかもしれません。
私自身は加藤さんが解するようにカントの「平和の定言命法」を解していませんでしたが、
加藤さんのような解釈は十分に成り立ちうると思いますし、
むしろ多くのカント研究者は、私の解釈よりも加藤解釈を選ぶでしょうね。
「読者は著者以上に理解する」というのはこういうことかもしれません。
良い読者を失ったことを今さらながらに思い知らされます。
最後の一段落は私の論文を離れて、加藤さんの平和論を語ってくださいましたが、
私も加藤さんの平和論に全面的に同意しております。
今後、日本がどういう選択をしていくのか、いつまでも見守っていてください。