また、大学に泊まっております。
もう日が替わって10日の木曜日になってしまいましたから、
日本カント協会第41回学会は2日後ということになります。
昨日の夜にやっとはかどりネコさんがやってきてくれて、
なんと一気にシンポジウム発表用のパワーポイントが完成してしまいましたっ
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内容的にはちょっと荒すぎるというか薄すぎるというか、
けっして満足のいくような代物ではないのですが、
まあ今回はとても研究一筋に打ち込めるような環境ではありませんでしたので、
先日恐れていたように、シンポジウムに発表原稿が間に合わないとか、
1人開催校の人間が当日まさかの失踪をしてしまうといったことがなくてすみ、
もうそれだけで拍手喝采、万々歳だと言えるでしょう。
実を言うとパワーポイントが完成したのは日が替わる前のことで、
あと10分早ければ終電に間に合ったのにというくらいの時間でした。
まあ終電の時間を忘れてしまうくらい集中していたからこそ完成させることができたのでしょう。
その後は学会当日用の張り紙を作成したり、
バイト学生に渡す前日と当日の仕事のフローチャートを作成したりと、
はかどりネコさんのパワーはとどまるところを知りません。
明日、じゃなくてもう今日か、今日は2限に授業があるっていうのに、
こんなに一睡もしてなくて大丈夫なんでしょうか、私?
さて、今回私が提題者までやらされるシンポジウムのテーマは、
「3.11後の 『公共』 とカント ―Kant in Fukushima―」 となっております。
自分が提題者でさえなければぜひ聞いてみたくなるようなとても刺激的なテーマです。
今年のシンポジウムは公開シンポジウムということになっております。
学会員だけではなくて、一般市民の方にも公開されるのですね。
日本カント協会のシンポジウムはいつも公開されているわけではなくて、
例えば去年なんて学会創設40周年という記念すべき大会だったのに、
公開シンポではありせんでした。
牧野先生がシンポジストに呼ばれた一昨年も公開ではなく、
私が提題者を初めて務めた3年前は公開シンポジウムでした。
なんか私が公開されやすい体質なんですかね?
ぶっちゃけ体質だから?
まあ今年はテーマが公共性ですから、公開シンポジウムになるのもわからないではありません。
ドイツ語だと 「公共性」 と 「公開性」 は同じ言葉 (Öffentlichkeit) ですからね。
というわけでカントとは縁もゆかりもない皆さまにも公開されていますので、
興味がある方もない方もぜひご来場くださいませ。
公開シンポジウムは11月12日 (土) の15時40分から、
福島大学のL-1教室で開催されます。
本大会の予稿集はウェブ上で入手することができます (こちらをクリック!)。
せっかくですので私が書いた予稿もここに掲載しておきましょう。
これを読んで聞きに来たくなる方がいらっしゃるかどうかはまったく定かではありませんが、
ふなちょはふなちょ節が炸裂だし、
日本カント協会会長である大橋さんも 「ケア」 概念を打ち出してカントと真っ向対決モードだし、
私のにぎやかし発表はさておいても楽しいシンポジウムになるだろうこと請け合いです。
ぜひ老若男女お誘い合わせの上、初めての福島大学でのカント学会にお越しください
〈3.11〉後の「公共」とカント的公共性の闘い
小野原雅夫(福島大学)
〈3.11〉という未曾有の複合災害は、日本に「公共」のインフレをもたらしたかのように見える。さまざまな立場の人々がさまざまな観点から公共性や公共的精神、公共への奉仕を強調するようになった。あれほどの被害を生み、5年経った今も未だに回避されない危機にさらされ続けているのであるから、私や個よりも公共が優先されるのは仕方のないことなのかもしれない。問題はその場合の公共が何を意味しているかである。齋藤純一によれば「公共性」にはofficial、common、openという3つの含意があると言う(『公共性』岩波書店、2000)。このうちとりわけ喧しいのは第1の含意、国家的公共への忠誠を要求する声である。このような危機の時代だからこそ公共性を重んじ、各人が果たすべき義務を遂行し、全体のために尽くせと言うのである。このような風潮のなかで権利の回復や生活の救済、人権の擁護を求める者は、あたかもフリーライダーであるかのように国家からも世論からも攻撃にさらされ続けている。
実は〈3.11〉の発生するずっと以前から、国家的公共の押し付けは進んでいた。高橋哲哉はそれを「犠牲のシステム」と名付けたが(『犠牲のシステム 福島・沖縄』集英社新書、2012)、〈3.11〉以前はこの犠牲のシステムは「安全神話」等によって巧妙に隠蔽されていた。〈3.11〉によって現実に大量の犠牲者が発生した時、国家的公共は犠牲者を救済する方向にではなく、それまでの隠蔽をかなぐり捨ててあからさまに犠牲を強要する方向へと舵を切った。国家的公共とは一線を画すべき公共放送も、「政治的中立」を騙る言論統制に屈して大政翼賛体制の片棒を担ぐに至っている。
このような状況を目の当たりにしてカントは何を思うであろうか。理性の私的使用と公的使用という対概念を用いて国家的公共をいち早く批判、相対化したのがカントであった。公共性の残り2つの含意に即して言うならば、みんなに共通(common)であるべき公共とは、その時々の多数派や支配的政権や単一の国家のことではなく、少数派も反対派も含んで普遍化可能な国民全体であり、さらには一国家を超えて普遍化可能な世界市民社会でなければならない。また、みんなに開かれて(open)あるべき公共は、隠蔽されたり情報操作されたりすることがあってはならず、すべてが公開の討論の場で批判に服さなければならない。しかしながら、このような世界市民的・公開的公共性は〈3.11〉後の「公共」の前で絶滅の危機に瀕している。その絶望的な闘いについて報告したい。
もう日が替わって10日の木曜日になってしまいましたから、
日本カント協会第41回学会は2日後ということになります。
昨日の夜にやっとはかどりネコさんがやってきてくれて、
なんと一気にシンポジウム発表用のパワーポイントが完成してしまいましたっ
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内容的にはちょっと荒すぎるというか薄すぎるというか、
けっして満足のいくような代物ではないのですが、
まあ今回はとても研究一筋に打ち込めるような環境ではありませんでしたので、
先日恐れていたように、シンポジウムに発表原稿が間に合わないとか、
1人開催校の人間が当日まさかの失踪をしてしまうといったことがなくてすみ、
もうそれだけで拍手喝采、万々歳だと言えるでしょう。
実を言うとパワーポイントが完成したのは日が替わる前のことで、
あと10分早ければ終電に間に合ったのにというくらいの時間でした。
まあ終電の時間を忘れてしまうくらい集中していたからこそ完成させることができたのでしょう。
その後は学会当日用の張り紙を作成したり、
バイト学生に渡す前日と当日の仕事のフローチャートを作成したりと、
はかどりネコさんのパワーはとどまるところを知りません。
明日、じゃなくてもう今日か、今日は2限に授業があるっていうのに、
こんなに一睡もしてなくて大丈夫なんでしょうか、私?
さて、今回私が提題者までやらされるシンポジウムのテーマは、
「3.11後の 『公共』 とカント ―Kant in Fukushima―」 となっております。
自分が提題者でさえなければぜひ聞いてみたくなるようなとても刺激的なテーマです。
今年のシンポジウムは公開シンポジウムということになっております。
学会員だけではなくて、一般市民の方にも公開されるのですね。
日本カント協会のシンポジウムはいつも公開されているわけではなくて、
例えば去年なんて学会創設40周年という記念すべき大会だったのに、
公開シンポではありせんでした。
牧野先生がシンポジストに呼ばれた一昨年も公開ではなく、
私が提題者を初めて務めた3年前は公開シンポジウムでした。
なんか私が公開されやすい体質なんですかね?
ぶっちゃけ体質だから?
まあ今年はテーマが公共性ですから、公開シンポジウムになるのもわからないではありません。
ドイツ語だと 「公共性」 と 「公開性」 は同じ言葉 (Öffentlichkeit) ですからね。
というわけでカントとは縁もゆかりもない皆さまにも公開されていますので、
興味がある方もない方もぜひご来場くださいませ。
公開シンポジウムは11月12日 (土) の15時40分から、
福島大学のL-1教室で開催されます。
本大会の予稿集はウェブ上で入手することができます (こちらをクリック!)。
せっかくですので私が書いた予稿もここに掲載しておきましょう。
これを読んで聞きに来たくなる方がいらっしゃるかどうかはまったく定かではありませんが、
ふなちょはふなちょ節が炸裂だし、
日本カント協会会長である大橋さんも 「ケア」 概念を打ち出してカントと真っ向対決モードだし、
私のにぎやかし発表はさておいても楽しいシンポジウムになるだろうこと請け合いです。
ぜひ老若男女お誘い合わせの上、初めての福島大学でのカント学会にお越しください
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〈3.11〉後の「公共」とカント的公共性の闘い
小野原雅夫(福島大学)
〈3.11〉という未曾有の複合災害は、日本に「公共」のインフレをもたらしたかのように見える。さまざまな立場の人々がさまざまな観点から公共性や公共的精神、公共への奉仕を強調するようになった。あれほどの被害を生み、5年経った今も未だに回避されない危機にさらされ続けているのであるから、私や個よりも公共が優先されるのは仕方のないことなのかもしれない。問題はその場合の公共が何を意味しているかである。齋藤純一によれば「公共性」にはofficial、common、openという3つの含意があると言う(『公共性』岩波書店、2000)。このうちとりわけ喧しいのは第1の含意、国家的公共への忠誠を要求する声である。このような危機の時代だからこそ公共性を重んじ、各人が果たすべき義務を遂行し、全体のために尽くせと言うのである。このような風潮のなかで権利の回復や生活の救済、人権の擁護を求める者は、あたかもフリーライダーであるかのように国家からも世論からも攻撃にさらされ続けている。
実は〈3.11〉の発生するずっと以前から、国家的公共の押し付けは進んでいた。高橋哲哉はそれを「犠牲のシステム」と名付けたが(『犠牲のシステム 福島・沖縄』集英社新書、2012)、〈3.11〉以前はこの犠牲のシステムは「安全神話」等によって巧妙に隠蔽されていた。〈3.11〉によって現実に大量の犠牲者が発生した時、国家的公共は犠牲者を救済する方向にではなく、それまでの隠蔽をかなぐり捨ててあからさまに犠牲を強要する方向へと舵を切った。国家的公共とは一線を画すべき公共放送も、「政治的中立」を騙る言論統制に屈して大政翼賛体制の片棒を担ぐに至っている。
このような状況を目の当たりにしてカントは何を思うであろうか。理性の私的使用と公的使用という対概念を用いて国家的公共をいち早く批判、相対化したのがカントであった。公共性の残り2つの含意に即して言うならば、みんなに共通(common)であるべき公共とは、その時々の多数派や支配的政権や単一の国家のことではなく、少数派も反対派も含んで普遍化可能な国民全体であり、さらには一国家を超えて普遍化可能な世界市民社会でなければならない。また、みんなに開かれて(open)あるべき公共は、隠蔽されたり情報操作されたりすることがあってはならず、すべてが公開の討論の場で批判に服さなければならない。しかしながら、このような世界市民的・公開的公共性は〈3.11〉後の「公共」の前で絶滅の危機に瀕している。その絶望的な闘いについて報告したい。