看護学校「哲学」の第5回目・第6回目の授業では、
「死んだらどうなるのか?」を考えていただきました。
つまり、死んだ後のことから考え始めてもらったわけです。
第7回目・第8回目のテーマは、「人の死とは何か?」です。
今回は、どこからが死なのか、どうなったら死んだことになるのか、
ということを考えてもらいたいと思います。
これはひじょうに新しいテーマです。
前回の「死んだらどうなるのか?」というテーマについては、
人類はもうずっと長いあいだ考え続けてきました。
たぶん有史以前の時代(文字がなかった時代)からずっと考えています。
それに対して「人の死とは何か」なんて、あまりにも当たり前すぎて、
わざわざ悩んで考えるような問題ではありませんでした。
人が生きているか死んでいるかなんて素人にもはっきりわかることで、
ホモ・サピエンスが地球に誕生して以来20万年の間、
(ひょっとするとそれ以前の原人や旧人の頃からずっと)
何が死かについては人類は明確な答えをもっていたのです。
それが揺らいできて「人の死とは何か」が問われるようになったのは、
ほんの50年ほど前のことです。
従来の「人の死」は簡単に見分けることができました。
人は死ねば動かなくなります、話さなくなります。
そしてすぐに白くなり、冷たくなっていきます。
そのまま放っておくと腐敗していき、いずれ白骨だけが残ります。
これらは誰の目にも明らかです。
どの時点で死んだのかということに関しては、
専門家である医師のみが診断できることになっていて、
医師は死の三徴候をもって死の診断を下します。
1.心停止
2.呼吸停止
3.対光反射の消失(瞳孔散大)
これらは専門家ではない人間にとっても常識となっており、
正式な診断は下せないものの、
生きているか死んでいるかを確かめるためには、
素人である私たちもこれらを確認しようとするでしょう。
これが従来の死の概念であり、
これをもって人の死とすることに誰も疑問を感じていませんでした。
しかし、今からほんの52年前の1968年に「脳死」という概念が誕生しました。
それ以前の20万年間まったく必要とされていなかった新しい概念が、
突如として現れてきたのです。
そして、「脳死」と区別するために、
従来の死の概念に対しても新しい名前が与えられることになりました。
「心臓死」という言葉です。
「脳死」の大きな特徴のひとつは、上記の死の三徴候のうち、
1番目が満たされておらず、心停止していません。
つまり、心臓がまだ動いているのです。
心臓が動いていて血流があるために白くもならず、冷たくもなりません。
従来の死とはまったくかけ離れた状態ですが、
これも「脳死」という名の新しい死であるということになり、
それとの違いを強調して、従来の死のことを「心臓死」と呼ぶようになったのです。
こうして「死」は「心臓死」と「脳死」の2種類に分けられることになりました。
ここから人類はそれまでまったく考える必要のなかった新しい問い、
人の死とは何か?
従来通り「心臓死」のみが人の死なのか?
それとも、新たに誕生してきた「脳死」も人の死として認めるべきなのか?
という問いに直面させられることになりました。
今回はこの問題について考えを深めてもらおうと思います。
「脳死」という概念が新たに生み出された背景には、
臓器移植の問題があります。
特に心臓移植を行うためには、動いている心臓を移植する必要があります。
つまり、「心臓死」の人の心臓は移植に利用することができませんが、
「脳死」の人の心臓であれば移植することができるのです。
他の臓器に関しても、「心臓死」の場合に比べて「脳死」のほうが、
血流があるので移植に適した状態が保たれています。
こうして「脳死」と「臓器移植」はセットで論じられるようになりました。
というわけで、まずは脳死臓器移植の問題から考えてもらうことにします。
第1段階としては、臓器移植と切り離して、
脳死を「死」として受け入れ、延命治療を停止してもいいかどうか。
第2段階としては、脳死を「死」として受け入れた上で、
さらに誰かの脳死臓器移植のために、自分ないしは家族の臓器を提供してもよいかどうか。
この2つについて考えてみてください。
「死んだらどうなるのか?」を考えていただきました。
つまり、死んだ後のことから考え始めてもらったわけです。
第7回目・第8回目のテーマは、「人の死とは何か?」です。
今回は、どこからが死なのか、どうなったら死んだことになるのか、
ということを考えてもらいたいと思います。
これはひじょうに新しいテーマです。
前回の「死んだらどうなるのか?」というテーマについては、
人類はもうずっと長いあいだ考え続けてきました。
たぶん有史以前の時代(文字がなかった時代)からずっと考えています。
それに対して「人の死とは何か」なんて、あまりにも当たり前すぎて、
わざわざ悩んで考えるような問題ではありませんでした。
人が生きているか死んでいるかなんて素人にもはっきりわかることで、
ホモ・サピエンスが地球に誕生して以来20万年の間、
(ひょっとするとそれ以前の原人や旧人の頃からずっと)
何が死かについては人類は明確な答えをもっていたのです。
それが揺らいできて「人の死とは何か」が問われるようになったのは、
ほんの50年ほど前のことです。
従来の「人の死」は簡単に見分けることができました。
人は死ねば動かなくなります、話さなくなります。
そしてすぐに白くなり、冷たくなっていきます。
そのまま放っておくと腐敗していき、いずれ白骨だけが残ります。
これらは誰の目にも明らかです。
どの時点で死んだのかということに関しては、
専門家である医師のみが診断できることになっていて、
医師は死の三徴候をもって死の診断を下します。
1.心停止
2.呼吸停止
3.対光反射の消失(瞳孔散大)
これらは専門家ではない人間にとっても常識となっており、
正式な診断は下せないものの、
生きているか死んでいるかを確かめるためには、
素人である私たちもこれらを確認しようとするでしょう。
これが従来の死の概念であり、
これをもって人の死とすることに誰も疑問を感じていませんでした。
しかし、今からほんの52年前の1968年に「脳死」という概念が誕生しました。
それ以前の20万年間まったく必要とされていなかった新しい概念が、
突如として現れてきたのです。
そして、「脳死」と区別するために、
従来の死の概念に対しても新しい名前が与えられることになりました。
「心臓死」という言葉です。
「脳死」の大きな特徴のひとつは、上記の死の三徴候のうち、
1番目が満たされておらず、心停止していません。
つまり、心臓がまだ動いているのです。
心臓が動いていて血流があるために白くもならず、冷たくもなりません。
従来の死とはまったくかけ離れた状態ですが、
これも「脳死」という名の新しい死であるということになり、
それとの違いを強調して、従来の死のことを「心臓死」と呼ぶようになったのです。
こうして「死」は「心臓死」と「脳死」の2種類に分けられることになりました。
ここから人類はそれまでまったく考える必要のなかった新しい問い、
人の死とは何か?
従来通り「心臓死」のみが人の死なのか?
それとも、新たに誕生してきた「脳死」も人の死として認めるべきなのか?
という問いに直面させられることになりました。
今回はこの問題について考えを深めてもらおうと思います。
「脳死」という概念が新たに生み出された背景には、
臓器移植の問題があります。
特に心臓移植を行うためには、動いている心臓を移植する必要があります。
つまり、「心臓死」の人の心臓は移植に利用することができませんが、
「脳死」の人の心臓であれば移植することができるのです。
他の臓器に関しても、「心臓死」の場合に比べて「脳死」のほうが、
血流があるので移植に適した状態が保たれています。
こうして「脳死」と「臓器移植」はセットで論じられるようになりました。
というわけで、まずは脳死臓器移植の問題から考えてもらうことにします。
第1段階としては、臓器移植と切り離して、
脳死を「死」として受け入れ、延命治療を停止してもいいかどうか。
第2段階としては、脳死を「死」として受け入れた上で、
さらに誰かの脳死臓器移植のために、自分ないしは家族の臓器を提供してもよいかどうか。
この2つについて考えてみてください。
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