論理学の初歩的・基本的知見として 「早まった一般化の誤謬」 というものがあります。
少ない例から一般的な結論を導き出してしまうこと、
もう少し詳しくいうと、自分の知り得たわずかな事例に共通する特徴や性質、行動等を、
十分な量のデータを集めないまま早急に、
それらが属するグループやカテゴリー全体に当てはめてしまう誤りのことです。
「類推の危険」 とも呼ばれています。
例えば、次のような推論。
「1、2、3、4、5、6はいずれも120の約数である。
したがってすべての整数は120の約数である」。
これがどんなに愚かな論理であるかは素人でもわかりますね。
たしかに1から6までの整数はすべて120の約数かもしれませんが、
すぐ次の7を調べれば、すべての整数が120の約数とはいえないことは簡単に判明します。
このような 「早まった一般化」 という論理学的誤謬は、
哲学・倫理学を学んだり研究したりする者にとってのみ常識であるばかりでなく、
そもそも学問というものは一般化・普遍化するのが仕事でありますので、
学問を志す者はすべからく 「早まった一般化」 に陥らないよう心がけているものです。
(今の 「そもそも学問というものは・・・」 という物言いは、
「早まった一般化」 に陥っている可能性の高い表現形式ですが、
この文に限っては内容的にたぶん大丈夫なんじゃないかなと判断しました。)
しかしながら、こうした訓練を受けていない人々は 「早まった一般化」 にとらわれやすく、
それによってステレオタイプや偏見が形成され、差別の温床となっていきます。
例えば、実際に被災地で窃盗していた外国人 (ここではA国人としておきましょう) が捕まったとして、
その1つないし2つくらいのニュースから、
「A国人が大挙して火事場泥棒のために被災地に入り込んでるらしいよ」 とか、
「被災地で盗みをしているのはみんなA国人だよね」 という情報に置き換えてしまうのが、
「早まった一般化」 であり、こうして偏見は流布していきます。
逆に、秩序正しい避難所や被災地の光景だけを見て、
「日本人は大災害のときもけっして略奪など行わない礼節を重んじる民族だ」
などと結論づけてしまうのも 「早まった一般化」 であり、論理的には間違っています。
皆さんもふだんわりと気楽に 「男性は……」、「女性は……」 とか、
「福島県民は……」、「学校の先生は……」 などと 「早まった一般化」 を行ってしまっていませんか?
さて、子育てをしている際にも、この 「早まった一般化」 というのは首をもたげてきます。
今どきそれほど子だくさんの大家族という家庭もないでしょうから、
自分の赤ちゃんや子どもというのはせいぜい数人、
場合によっては1人だけしか知らないという場合が多いでしょう。
核家族だとすると甥っ子や姪っ子に接する機会も少ないでしょうし、
地域の子どもといっても、ママ友のお子さんもそんなに大勢いるわけではないでしょう。
その限られた数の情報をもとに 「赤ちゃんってこうだよね」、
「子どもってああだよね」 と結論づけてしまうと、
「早まった一般化」 の誤謬に陥ることになってしまうのです。
私が以前書いた 「新生児の子育て中は両親は寝不足になる」 という話は、
自分の子育て経験にのみ基づいての感想でしたが、
2時間おきの授乳のために父親も寝不足になる、というのは完全に 「早まった一般化」 で、
それは粉ミルクを与えている家庭だからこそ生じえた話であって、
母乳だけで育てている家庭では父親が授乳に関わらず、
したがって寝不足になったりもしないということもありえるのでした。
(このあたり 「生じえた」 とか 「ありえる」 という表現によって、
慎重に 「早まった一般化」 を回避しています。)
基本、親は自分のとこの子どものことや子育ての仕方しか知りませんが、
それはあまりにも強烈な体験であるがゆえに、
つい一般化・普遍化して、子どもとはこういうもの、子育てとはこういうものと、
考えてしまう、考えたくなってしまうのではないでしょうか。
そのへんのメカニズムをきちんと理解した上で、
子育てにおける 「早まった一般化」 の危険性を回避しながら、
このブログを書いていきたいと思います。
ところで、子育てにおいては 「早まった一般化」 の逆のケースというものも
あるのではないかということに思い至りました。
そんな論理学用語はないのでテキトーに命名するなら、
「早まった特殊化」 とか 「早まった個別化」 とでも呼べばいいのでしょうか。
個別事例を一般化・普遍化してしまう 「早まった一般化」 とは反対に、
一般的現象、数多く見られる現象であるにもかかわらず、
そうであることを知らないために、
あたかも自分の子どもにのみ当てはまる特徴・性質・行動であるかのように思い込む、
という過ちのことです。
つまり、赤ちゃんなら誰でも (あるいはすべてとは言わずともけっこう多くの子が) することを、
うちの子だけ (あるいはごく少数の子だけ) ができることだと勘違いしてしまうことです。
これは推論ではないので誤謬という表現は当てはまらないかもしれませんが、
これも間違いであることにかわりはないでしょう。
新生児の頃というか、今でもけっこうそうなんですが、
うちの子は身体がめちゃくちゃ柔らかいんです。
よく自分の足を食っています。
私は身体が硬くて柔軟が苦手で、座って前屈してみても 「ヒ」 の字みたいにしかなりません。
立って前屈して床に手がつくなんて夢のまた夢です。
そんな私の子どもだというのに、うちの子は身体全体をいくらでも曲げられるのです。
それを見て私は驚喜して、「この子はスゴイ、身体柔らかい、天職は体操選手か中国雑技団だっ」
と叫んだら、妻から 「そんなの赤ちゃんなら誰でもできるよ」 と一笑に付されました。
誰でもできるようなことをこの子だけの特殊才能だと思い込む、
これが 「早まった特殊化」 です。
また、まだ立ち上がることも這うこともできなかった頃、
やっと寝返りが打てるようになってしばらくした頃です。
オムツを替えようとするとものすごい速さでクルッと回転し、
けっしてオムツを替えさせまいとしてきます。
何とか押さえつけてオムツを替えたいのですが、
急に身につけたスピードと、以前からの持ち前の身体の柔らかさを駆使して、
クルッと寝返りを打ち、私にフォールされないよう手からすり抜けていくのです。
「これはレスリング選手にするしかない。霊長類最強女子だっ!」
と興奮して言ったら、やはり妻からは 「誰でもそうだよ」 と冷笑されました。
そして昨日のブログ。
初語が 「アンパン」 だったという話を書かせていただいたわけですが、
Facebook のほうに次のようなコメントを書き込んでくれた方がいらっしゃいました。
「初めての言葉が 『アンパン』 って子、意外にたくさんいます。
もしかして、有史以来、アンパンマン出現以前にも、
『アンパン』 てはじめて言った子がいたかもしれません。」
なんだよ。
「ママ」 や 「パパ」 ではなくて初語が 「アンパン」 だったなんていう子ども、
うちの子だけだろうと思って、勇んで9ヶ月ぶりにブログ記事を書いたのに、
なんてことはない、有史以来、アンパンマンが誕生する以前から、
「アンパン」 はオーソドックスな初語だったんだ。
ああ、恥ずかしい。
とんだ 「早まった特殊化」 でした。
子育てにおいては、「早まった一般化」 とともに、
「早まった特殊化」 にも気をつけなければいけない、というお話でした。
少ない例から一般的な結論を導き出してしまうこと、
もう少し詳しくいうと、自分の知り得たわずかな事例に共通する特徴や性質、行動等を、
十分な量のデータを集めないまま早急に、
それらが属するグループやカテゴリー全体に当てはめてしまう誤りのことです。
「類推の危険」 とも呼ばれています。
例えば、次のような推論。
「1、2、3、4、5、6はいずれも120の約数である。
したがってすべての整数は120の約数である」。
これがどんなに愚かな論理であるかは素人でもわかりますね。
たしかに1から6までの整数はすべて120の約数かもしれませんが、
すぐ次の7を調べれば、すべての整数が120の約数とはいえないことは簡単に判明します。
このような 「早まった一般化」 という論理学的誤謬は、
哲学・倫理学を学んだり研究したりする者にとってのみ常識であるばかりでなく、
そもそも学問というものは一般化・普遍化するのが仕事でありますので、
学問を志す者はすべからく 「早まった一般化」 に陥らないよう心がけているものです。
(今の 「そもそも学問というものは・・・」 という物言いは、
「早まった一般化」 に陥っている可能性の高い表現形式ですが、
この文に限っては内容的にたぶん大丈夫なんじゃないかなと判断しました。)
しかしながら、こうした訓練を受けていない人々は 「早まった一般化」 にとらわれやすく、
それによってステレオタイプや偏見が形成され、差別の温床となっていきます。
例えば、実際に被災地で窃盗していた外国人 (ここではA国人としておきましょう) が捕まったとして、
その1つないし2つくらいのニュースから、
「A国人が大挙して火事場泥棒のために被災地に入り込んでるらしいよ」 とか、
「被災地で盗みをしているのはみんなA国人だよね」 という情報に置き換えてしまうのが、
「早まった一般化」 であり、こうして偏見は流布していきます。
逆に、秩序正しい避難所や被災地の光景だけを見て、
「日本人は大災害のときもけっして略奪など行わない礼節を重んじる民族だ」
などと結論づけてしまうのも 「早まった一般化」 であり、論理的には間違っています。
皆さんもふだんわりと気楽に 「男性は……」、「女性は……」 とか、
「福島県民は……」、「学校の先生は……」 などと 「早まった一般化」 を行ってしまっていませんか?
さて、子育てをしている際にも、この 「早まった一般化」 というのは首をもたげてきます。
今どきそれほど子だくさんの大家族という家庭もないでしょうから、
自分の赤ちゃんや子どもというのはせいぜい数人、
場合によっては1人だけしか知らないという場合が多いでしょう。
核家族だとすると甥っ子や姪っ子に接する機会も少ないでしょうし、
地域の子どもといっても、ママ友のお子さんもそんなに大勢いるわけではないでしょう。
その限られた数の情報をもとに 「赤ちゃんってこうだよね」、
「子どもってああだよね」 と結論づけてしまうと、
「早まった一般化」 の誤謬に陥ることになってしまうのです。
私が以前書いた 「新生児の子育て中は両親は寝不足になる」 という話は、
自分の子育て経験にのみ基づいての感想でしたが、
2時間おきの授乳のために父親も寝不足になる、というのは完全に 「早まった一般化」 で、
それは粉ミルクを与えている家庭だからこそ生じえた話であって、
母乳だけで育てている家庭では父親が授乳に関わらず、
したがって寝不足になったりもしないということもありえるのでした。
(このあたり 「生じえた」 とか 「ありえる」 という表現によって、
慎重に 「早まった一般化」 を回避しています。)
基本、親は自分のとこの子どものことや子育ての仕方しか知りませんが、
それはあまりにも強烈な体験であるがゆえに、
つい一般化・普遍化して、子どもとはこういうもの、子育てとはこういうものと、
考えてしまう、考えたくなってしまうのではないでしょうか。
そのへんのメカニズムをきちんと理解した上で、
子育てにおける 「早まった一般化」 の危険性を回避しながら、
このブログを書いていきたいと思います。
ところで、子育てにおいては 「早まった一般化」 の逆のケースというものも
あるのではないかということに思い至りました。
そんな論理学用語はないのでテキトーに命名するなら、
「早まった特殊化」 とか 「早まった個別化」 とでも呼べばいいのでしょうか。
個別事例を一般化・普遍化してしまう 「早まった一般化」 とは反対に、
一般的現象、数多く見られる現象であるにもかかわらず、
そうであることを知らないために、
あたかも自分の子どもにのみ当てはまる特徴・性質・行動であるかのように思い込む、
という過ちのことです。
つまり、赤ちゃんなら誰でも (あるいはすべてとは言わずともけっこう多くの子が) することを、
うちの子だけ (あるいはごく少数の子だけ) ができることだと勘違いしてしまうことです。
これは推論ではないので誤謬という表現は当てはまらないかもしれませんが、
これも間違いであることにかわりはないでしょう。
新生児の頃というか、今でもけっこうそうなんですが、
うちの子は身体がめちゃくちゃ柔らかいんです。
よく自分の足を食っています。
私は身体が硬くて柔軟が苦手で、座って前屈してみても 「ヒ」 の字みたいにしかなりません。
立って前屈して床に手がつくなんて夢のまた夢です。
そんな私の子どもだというのに、うちの子は身体全体をいくらでも曲げられるのです。
それを見て私は驚喜して、「この子はスゴイ、身体柔らかい、天職は体操選手か中国雑技団だっ」
と叫んだら、妻から 「そんなの赤ちゃんなら誰でもできるよ」 と一笑に付されました。
誰でもできるようなことをこの子だけの特殊才能だと思い込む、
これが 「早まった特殊化」 です。
また、まだ立ち上がることも這うこともできなかった頃、
やっと寝返りが打てるようになってしばらくした頃です。
オムツを替えようとするとものすごい速さでクルッと回転し、
けっしてオムツを替えさせまいとしてきます。
何とか押さえつけてオムツを替えたいのですが、
急に身につけたスピードと、以前からの持ち前の身体の柔らかさを駆使して、
クルッと寝返りを打ち、私にフォールされないよう手からすり抜けていくのです。
「これはレスリング選手にするしかない。霊長類最強女子だっ!」
と興奮して言ったら、やはり妻からは 「誰でもそうだよ」 と冷笑されました。
そして昨日のブログ。
初語が 「アンパン」 だったという話を書かせていただいたわけですが、
Facebook のほうに次のようなコメントを書き込んでくれた方がいらっしゃいました。
「初めての言葉が 『アンパン』 って子、意外にたくさんいます。
もしかして、有史以来、アンパンマン出現以前にも、
『アンパン』 てはじめて言った子がいたかもしれません。」
なんだよ。
「ママ」 や 「パパ」 ではなくて初語が 「アンパン」 だったなんていう子ども、
うちの子だけだろうと思って、勇んで9ヶ月ぶりにブログ記事を書いたのに、
なんてことはない、有史以来、アンパンマンが誕生する以前から、
「アンパン」 はオーソドックスな初語だったんだ。
ああ、恥ずかしい。
とんだ 「早まった特殊化」 でした。
子育てにおいては、「早まった一般化」 とともに、
「早まった特殊化」 にも気をつけなければいけない、というお話でした。
早まった一般化、特殊化、自分の生活経験の中に思い当たることはいくつもあります。真っ先に思い付いたのは、善悪の判断の根拠が人そのものになる場合です。「○○さんの言うことは正しい(間違っている)」という判断です。○○さんの考えが正しいと感じた、という経験を複数回重ねることで、○○さんの主張の根拠が、語られる論理ではなく経験に刷り変わっているように思います。この判断の在り方は、きっと、道徳的善とは言えないのかもしれません。でも、現実的な場面で、私たちは一律に同等なやり方で判断することは難しいでしょう。場や状況に応じて、適切(ごまかせる言葉ですね)に対処していく必要があると思います。
とは言え、こういった誤謬を解消するには、先入観といった無自覚の深層領域に、自らあるいは自分達の力で必要に応じてどれだけ潜り込めるか、潜り込もうとするかという能力や姿勢が必要のように思います。そのために教育が必要です。
抽象表現ばかり並べてしまいました。子育てもお忙しいでしょうが、ぜひまた倫理学の話をしましょう。お会いしていなかった10年間の経験を根拠にした具体の話が楽しみです。
ずいぶんご無沙汰していますね。
お元気ですか?
もう中堅としていろいろな役職を任されているのでしょうか?
お子さんたちも大きくなったことでしょうね。
私の教え子らしく、あいかわらずいろいろ小難しく考えているようで、
とても心強く思いました。
ブログ再開を機にぜひ再会して、倫理学の話や、
子育ての先輩の話を聞かせていただきたいです。