まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

Q.人に教える時、緊張しませんか?

2012-06-11 23:58:58 | 教育のエチカ
さすがは看護教員養成講座の皆さんです。
教育関連の質問もたくさんいただきました。
前回お答えした 「Q.子どもの頃から話すのが得意だったんですか?」 とも関連する質問です。
ほとんどかぶっていますので、本当は一緒にお答えしてしまおうかと思ったのですが、
毎度のごとく、話が長くなってしまいましたので、分割させていただきました。
こちらの質問は正確には次のような質問でした。

「人に教える時、緊張しませんか? すごく緊張して、授業に不安を感じます。」

とてもよくわかります。
前回書いたように、人前で話すだけだって緊張してしまうわけですから、
さらにただ話すだけではなくて、何かを教えなければいけないとなったら緊張するのは当然です。
これに対しては以下のようにお答えすることにいたしましょう。

A.最初はものすごく不安で、ものすごく緊張していました。
  しかし、最近は慣れてきてあまり緊張しなくなりました。

けっきょく慣れの問題でしょうか。
ただし慣れるには相当、時間がかかるかもしれません。
私は学生時代に家庭教師をやり、院生時代に塾講師をやっていたのですが、
それでも教えるということに慣れることはなく、大学で教え始めたときはやはり緊張しました。
私は教員免許をもっていないので、教育実習に行ったことがありません。
皆さんは教育実習にも行くとうかがいましたが、
そりゃあ緊張するでしょうねぇ。
最初っから緊張しないで授業ができる人なんていないでしょう。
緊張するのが当たり前なのです。
教えるというのは高度な文化であって、本能によって行える行為ではありませんので、
それをしようと思ったら、生物学的、本能的に緊張して当たり前なんだろうと思います。
しかし、その文化に習熟してくればいずれ緊張しなくなるのです。
喩えて言うならば、初めて自転車に乗るとき、初めて自動車を運転したとき、
誰もがみんな緊張して、不安を覚えたはずです。
しかし、慣れてくるうちにいつしかその不安や緊張はなくなってきて、
もういちいち緊張したりはしなくなっているのではないですか。
教育という仕事もいずれはそうなります。
ただし、自転車や自動車の運転に比べて、人に教えるというのははるかに高度な文化ですから、
これに慣れるのには長い時間を要するのです。

とはいえ、時間の問題だと言ってしまうと、皆さんには何の救いもないかもしれません。
それでも時間の問題だとしか言えないのですが、
できるだけ不安や緊張を少なくするために、そして慣れる時間を短くするために、
先輩教育者としてアドバイスしてあげられることがあるとしたら、
以下のようなことになるでしょうか。

・緊張するのが当たり前だと自分に言い聞かせ、緊張することを怖がらない。
・上手くできないのが当たり前なのだから、最初から上手くやろうなどと思わない。
・学生たち全員を満足させられるような授業なんてできるわけないけれども、
 クラスの中には必ず数名は目をキラキラさせて聞いてくれる子がいるので、
 とりあえずその子たちだけに向けて話すようにする。
・自分がどう教えるかということに意識を向けるのではなく (自己意識)、
 学生たちがどう学んでいるかということに意識を向ける (対象意識)。
・しかも、学生たちに自分や自分の授業がどう思われるかではなく (自己意識)、
 まずは学生たち1人1人がどんな子であるのかに意識を向ける (対象意識)。
・ほかの人の授業と自分の授業を比べたりしない。
・ほかの人の授業のいいところ、使えそうなところはどんどんパクる。

最初の2つは、自らの欲求・欲望や精神状態をコントロールするという話です。
3番目は、私が教え始めたときに先輩教員の方からいただいたアドバイスです。
最初のうちこれは大変役立つと思います。
ただし、このキラキラお目々の学生たちというのは、授業をちゃんと理解してくれているとは限りません。
こういう子たちは先生受けはよく、贔屓してしまいたくなりますが、
本当の優等生は外見は全然人の話を聞いていなさそうに見えたりするものです。
4番目、5番目はコーチングの理論を応用しています。
自転車や自動車をフツーに上手く運転しているときって、意識は自分の手足ではなく、
道路や他の車や歩行者など自分の外の対象物に向けられていますよね。
自分に意識を向けてしまうと何事もぎこちなくなってしまうということです。
最後の2つは大学のFD (教育改善活動) に携わってきて思ったことです。
論文とかだと盗作は禁物ですが、授業の場合はいくら盗んでもいい。
というか、いくら盗んだってけっきょく、相手の授業をそのまま再現することはできず、
どうやったって自分流の授業になってしまうのです。
だから、いろんな人の授業実践を見せてもらってどんどんマネしてみたらいいと思います。
上手くいったらどんどん応用し、ダメならすぐにやめて別のを探せばいい。
カントは 「教育は実験である」 と言っています。
誰も正解は知らないので、いろいろやってみて試してみるしかありません。
その実験が落ち着いた頃には、自分なりの教育スタイルが確立して、
緊張することもなくなっているでしょう。

山形 旅館 安い

2012-06-10 12:53:34 | 人間文化論
今日は学生競技ダンスの夏大会で山形に来ています。
試合のときはたいてい前日に現地で主将会が開催されますから、
前日入りし1泊することになります。
いつもはビジネスホテルを取ってもらっているのですが、
今回はマラソン大会がどこかで開催されるとかでホテルはどこも満杯で、
駅からちょっと離れた小さな旅館に宿泊することになりました。

たいへん懐かしい感じです。
私が福島大学社交ダンス部の顧問を引き受けた頃は、
学生たちはみんなこういう旅館にタコ部屋状態で布団を敷き詰めて泊まっていたものでした。
私も福大の学生たちと一緒に同じ旅館に泊まり、私だけ別部屋を取ってもらったり、
場合によっては学生と同じ部屋で寝たこともありました。
それがいつ頃からでしょうか、学生たちもビジネスホテルに泊まるようになりました。
当然1人1部屋です。
東北も豊かになってきたということか、
今どきの学生たちがプライバシーの保障されない環境に耐えられなくなってきたということなのか、
変われば変わるものだなあと思っていました。
私も全東北学生競技ダンス連盟会長に就任して以降は、
毎回、福大生とは別にビジネスホテルを取ってもらえようになっていました。
というわけで久しぶりの旅館泊まりです。

昔、まだブログを始めていなかった2007年に、
京都で学会のかけもちがあって長期滞在しなければならず、
やはり宿が取れなくて、こんな感じの旅館に泊まったことがありました。
そのときミクシィに 「京都 旅館 安い」 という日記を書きました (その1その2その3)。
今回の旅館に入った瞬間にあのときの宿を思い出しました。
2階の部屋に案内される急な階段でさっそく写真を撮っておきました。



カギつきのふすまを開けて4畳半の和室に通されます。
京都のときと違って、スリッパを脱ぐためのスペースは部屋の中に確保されていました。
中には布団が敷いてあります。
私は1人での宿泊ですが、この部屋は3名まで対応可能なようです。



インターネット接続みたいなことを期待するのはムリですが、
WiMAX の電波が入りましたので、これはもうけものです。
言うまでもなくバス・トイレは部屋には付いておらず共同です。
今回はたった1泊ですし、浴場は利用しませんでした。
利用しないにしてもちょっと見学に行っておけばよかったですが、チェックを忘れてしまいました。
トイレのほうは予想通りこんな感じでした。



ウォシュレットの付いていない和式便所なんてもう久しく使ったことがありません。
朝ははたしてどんなことになるかと前日から戦々恐々としておりましたが、
紙による直接摩擦は出血を誘い、
久しぶりのスクワットは大腿筋に予想以上のダメージを与え、
事を終えた後もしばらく立ち上がることができませんでした。

その他、歯ブラシが部屋にも洗面所 (もちろん部屋の外) にも置いてなくて、
夜は歯も磨けないまま寝なくてはなりませんでしたが、
朝になって受付 (けっしてフロントではない) のところの鉛筆立てに、
使い捨て歯ブラシが挿してあって事なきを得たとか諸々ありましたが、
なんとか一宿一飯のお世話になることができました。
学生ダンスに関わり始めた最初の頃のことをいろいろと思い出して、
初心に戻って今日の夏大会に臨むことができました。
今日の試合、皆さんも初心を思い出しつつ全力で踊ってください。
今年も日本の、いや世界のトッププロによるデモと講習会まで開催されます。
1日ダンススポーツを楽しんできたいと思います。

Q.子どもの頃から話すのが得意だったんですか?

2012-06-09 17:55:54 | 幸せの倫理学
第1回目の授業を聞いて、私が話すのが得意そうだと思われたのでしょうか?
とっても意外です。
まあ、そんなふうに見えているのだとしたらたいへん有り難いことですが…。

A.子どもの頃は話すのがとても苦手でした。
  いまだに話すのは得意ではありませんが、そこそこには話せるようになってきました。

子どもの頃は、人前で話すというよりも、人と話すこと自体が苦手でした。
小学校に入学したばかりの頃は、休み時間も教室でひとりで絵を描いたりしていました。
だから授業中にみんなの前で発表するなんてもってのほかで、
心臓がバクバクしながらしどろもどろに話すような子どもでした。
今思うと、そうなったきっかけがあったように思います。
私は九州生まれで、育ちはほとんど横浜だったのですが、両親ともに九州出身であり、
それで家庭で話される言葉のイントネーションが間違っていることがありました。
小学校1年生のあるとき国語の授業で金太郎のお話を順番に朗読させられたのですが、
私が読んだとたんにクラス中にどっと笑われてしまいました。
「きんたろう」 というのを我が家では 「き」 にアクセントを置いて発音していて、
私はその通りに 「【き】 んたろう」 と読んだのです。
標準語ではおそらくどこにもアクセントはつけず、最近の子たちが言う 「彼氏」 みたいに、
平板に 「きんたろう」 と言わなければならないと思うのですが、
私はそういうふうに発音することができませんでした。
みんなに笑われて先生が 「【き】 んたろう、じゃなくて、きんたろう、だよ」 と教えてくれるのですが、
私はその違いを聞き分けることができず、「うん、【き】 んたろう」 と、
何度言い直しても同じように発音し、そのたびにみんなに笑われてしまいました。
この事件をきっかけとして私は人前で話すのが怖くなってしまったのです。

その後、長年横浜で暮らすうちに次第にイントネーションは直ったようです。
それとともに人と話すことはできるようになっていきましたが、
人前で話すのはあいかわらず苦手でした。
というか、未だに苦手なままです。
皆さんもうすでにお気づきのことと思いますが、
私はものすごく言葉を噛みがちです。
おそらく話すのが苦手だったので、頭の中のセリフを早く話し終わりたいと思っていて、
そのため早口になってしまうから、自分の口がそのスピードについていけずに噛んでしまう、
という悪循環に陥っているようです。
自分のその癖は家でよく妻に指摘されるのでわかってはいて、
ある程度は気をつけているつもりなのですが、ふと気づくとスピードアップしていて、
そして噛んでしまっているのです。

ただまあ最近は、あ、今噛んじゃった、と気づいて若干恥ずかしい思いをしながらも、
まいっか、たぶん意味はわかっただろう、それに自分はアナウンサーでも芸人でもないし、
と臆せず話し続けることができるようになってきました。
というわけで、未だにまったく得意ではありませんが、
下手っぴなりにそこそこ話すことができるようになってきました。
これは、ちょっとお話しした 「幸福になる方法 (=欲求・欲望を小さくする)」 の応用版です。
上手くカッコよく話そうなんていう高度な欲望は捨て去り、
下手でもいいから意味が伝わりさえすればいいやという、
身の丈に合った欲望だけをもつように自分を抑えることによって、
あまり自分に過剰な期待や要求をすることもなくなり、
気楽に話すことができるようになってきたのです。
そうやって気楽に話したほうが、聞く側にとっても安心して聞けるのではないでしょうか。
さらには、噛んでしまったり声が裏返ってしまったりしたときに、
「あ、噛んじゃった」 とか 「あ、今声裏返っちゃった」 とわざとみんなに言ったりもします。
ダメなところも含めてさらけ出してしまうと、
聴衆はこの人はこういう人なんだなと受け容れてくれるように思います。
カッコつけようとかいいところを見せようなんていう邪心を捨て去ることによって、
聞いてる方に 「話すのが得意」 と勘違いしてもらえるほどになったのではないでしょうか。

Q.いろんな学問がある中で、なぜ哲学を選んだのか?

2012-06-08 12:55:08 | 哲学・倫理学ファック
こういう聞かれ方をしたのは初めてだったので意表をつかれました。
これに対してはどうやってお答えすればいいんでしょうか?
とりあえず次のようにお答えしておくことにいたしましょう。

A.いろいろな学問を比べてみてその中から哲学を選んだ、というわけではありません。

あいかわらずはぐらかしたような答えですね。
例の 「Q.なぜ哲学の先生になろうと思ったのですか?」 に対する答えと同タイプです。
しかしまあ、これが一番正直なお答えなんだろうと思います。
大学に入ってから何をやろうかなあと選択をした人の場合は、
いろいろな学問をかじってみて、その中からどれか1つを選ぶということをすることもありうるでしょう。
実際、私が勤めている福島大学人間発達文化学類は、元教育学部ですので、
学校で習う9教科を支える諸学問や、さらには教育に関わる諸学問の専門家がいて、
ものすごくたくさんの学問の授業が開講されています。
社会科の先生を目指しているという場合だって、彼らが学ばなければならない学問は、
教育学、心理学、歴史学、地理学、政治学、経済学、社会学、哲学、倫理学、社会科教育学、等々、
さらにそれらが日本史学、西洋史学、東洋史学といった具合に細かく分かれていたりするのですから、
それこそ無数にあるわけです。
そして、ちょうど今ごろ大学3年生はそれらのうちから、
どの学問で卒論を書こうかと選択している最中です。
これだと思って決めてみても、先生と面談しているうちに、
自分がやりたかったのは別の学問だったと判明したりする場合もあります。
そうやっていろんな学問を比べてみながら、そのうちの1つを選択していくわけです。

しかしながら私の場合は、大学に入ってからそういう選択をしたわけではありませんでした。
これに関しては、きっかけシリーズ (その1その2その3その4) に書きましたが、
カントかマルクスをやりたいということはすでに高校時代に決定してしまっていて、
私の勘違いにより東京外国語大学のロシヤ語学科に進むという遠回りをしてしまいましたが、
けっきょく卒論は哲学の先生の下で書きましたし、
大学院の哲学専攻に進むということに関してもまったく迷いはありませんでした。
というわけで、私の場合は大学入学後にいろいろな学問の中から哲学を選んだわけではないのです。

では、大学に入ってからではなく高校時代に選んでいたということになるのでしょうか?
それもちょっと違うような気がします。
そもそも高校までの教科や科目と、大学でやっている学問はまったく別物と言っていいと思います。
先ほども言ったように、ひとつの教科はさまざまな学問を寄せ集めることによってできあがっています。
私は高校まで社会科という教科はまったく好きではありませんでした。
大学院時代に塾で講師をしていたときも、社会科関係は一度も教えたことはなく、
私が教えていたのは数学 (算数も含む) と英語でした。
といって数学や英語が好きかというとそれほど好きでもなく、数学は得意ですらありませんでした。
むしろ好きだったのは国語だったような気がします。
高校に入ってから社会科 (現在の公民科) の中に倫理・社会 (現在の倫理) という科目が入ってきて、
これは大変気に入ったわけですが、 私にとっては社会よりも国語に似ていたからだろうと思います。
しかし、倫理・社会の中にも、哲学、倫理学、心理学、社会学などの雑多な内容が入っていて、
けっしてそれら全部に興味を抱いていたわけではないのです。

それよりも重要なのは、以下のような違いです。
小学校から高校までの各教科というのは、
どんな問題にせよ正解があるということを前提として組み立てられていますが、
大学以降の学問は、今のところ正解といわれている通説をいったん疑ってかかるところから出発します。
高校までのお勉強と大学以降の学問が根本的に違うゆえんです。
ですので、高校時代まではそもそも私たちは学問に出会っていないのです。
好きな教科や科目があったとしても、それはまだ学問と呼べるような代物ではないのです。

というわけで、いろいろな学問の中から哲学を選んだという実感はありません。
あまり哲学以外の学問に接したことがないのです。
もちろん大学では1年生のときに一般教養科目として幅広い学問に触れさせられますが、
それぞれの学問の入口にも到達しないうちにドロップアウトして、
授業には行かないで、ただ単位だけ、友だちの助けを借りて取っていたように思います。
東京外国語大学に進学してしまったために、ロシヤ語学やロシヤ文学に触れる機会を得ましたが、
こちらも1年生のうちにドロップアウトしてしまい、得られたのは疎外感だけでした。
したがって、哲学や倫理学に関して言うならば、以前にちらっと書いたことがありますが、
「選んだ」 というよりは 「出会った」 と言ったほうがいいのではないでしょうか。
「たまたま出会った恋人」 という表現が一番ピッタリ来るような気がします。
今日もこんなに長々と書くつもりはなかったのですが、また長くなってしまいました。
最後までご静聴、ではなくご静読いただきありがとうございました。

ざるそば VS 冷麺

2012-06-06 17:30:07 | がんばらないダイエット
だいぶ暖かくなってきて、福大の生協食堂も冷たい麺のレパートリーが増えてきました。

「石原式ダイエット」 を実践中 (あまり厳格に守ってはいませんが…) の私としては、

昼のざるそばがまた始まってくれて大変ありがたいかぎりです。

ところで、昨年からなんとなく気がついていたのですが、

今年になって自覚的にきちんと情報を収集してみてはっきりしたことがありました。

私はそれを 「福大生協食堂の怪」 と呼んでいます。

タイトルにある通り、ざるそばと冷麺の比較なんですが、

皆さんはどちらがカロリーが高いと思いますか?

こちらがざるそば。



こちらが冷麺です。



どちらも、まさおさま特別仕様で、ざるそばはネギ抜きですし、冷麺はキュウリ抜きです。

それらを抜いた数値はわからないのですが、生協食堂ではレシートにカロリーが表示されますので、

ネギやキュウリを抜いていない元の数値が書いてあります。

それによると、ざるそばは 480 キロカロリー、冷麺は 423 キロカロリーなのです。

ちょっと驚くような数字ではありませんか?

麺の上に刻み海苔がふりかけられているだけで、汁も少量のざるそばが、

鶏肉やキムチ、半熟卵まで乗っかっていて、

真っ赤な出汁にどっぷり浸かっている冷麺よりもカロリーが高いなんて!

ダイエットのことを考えてどちらか1つを選べと言われたら、

フツー、ざるそばのほうを選んじゃいますよね。

正解は冷麺なんですねぇ。

しかも 60 キロカロリー近くもカロリーダウンしています。

食べごたえもあるし、味の変化もあるし、石原先生オススメの唐辛子も使われているし、

その上 12 %もカロリーダウンですから、これはもう冷麺さまさまではないですか。

というわけで夏の 「がんばらないダイエット」 には、

「昼のざるそば」 に代えて 「昼の冷麺」 を推奨したいと思います。

それにしても、なぜ冷麺のほうがカロリーが低いんだろう?

不思議だっ!

Q.今までで一番ウケた回文は何ですか?

2012-06-05 19:32:59 | 人間文化論
哲学とは何の関係もない質問ですが、答えやすそうなのでお答えしておきましょう。
いろいろとあるんですが、私をこんなに回文好きにさせた原点ということで、
まだ小学校くらいの頃に、なにかの雑誌で読んだ以下の回文を挙げておきたいと思います。


A.「宇津井健氏は神経痛」 (ウツイケンシハシンケイツウ) です。


当時まだ回文といえば 「新聞紙」 とか 「トマト」 くらいしか知らなかった頃に、
この回文に出会った衝撃は忘れられないですね。
宇津井健といえば、TBSドラマ 『ザ・ガードマン』 のキャップ役を演じていた俳優で、
テレビでこの人を見ない週はないというくらいの有名人でしたが、
その人の名前を使ってこんな珍妙な回文ができてしまうなんて、と驚いたものです。
これがキッカケでその後、回文のなかでも人名回文に惹かれるようになったんだと思います。

他には、これもどこで仕入れたんだか忘れましたが、
どこかのホームページかなにかで見たんだと思う人名回文にこんなのがあります。


「弱虫のタモリが、信濃での梨がりも楽しむわよ」
 (ヨワムシノタモリガシナノデノナシガリモタノシムワヨ)


「勃った掛布、夜更け語った」
 (タッタカケフヨフケカタッタ)


「寄るな! 踊る岩鬼! ワイルド! オナるよ!」
 (ヨルナオドルイワキワイルドオナルヨ)


このうちの下2つは人名回文であると同時にエロ回文でもあります。
人名とは関係ないただのエロ回文も好きですね。
これも同じところで見つけたんだったような気がしますが、人の作品です。


「わしの股のタマの皺」
 (ワシノマタノタマノシワ)


「酢で食べた弁慶の陰茎。権威の意見 『ベタベタです。』 」
 (スデタベタベンケイノインケイケンイノイケンベタベタデス)


「弱虫のタモリ」 や 「弁慶の陰茎」 のようにけっこう長い回文はインパクトありますが、
長すぎて覚えていられず、飲み会の席とかで披露することができません。
それに比べて 「勃った掛布」 や 「タマの皺」 のようにスキッとまとまっているものは、
回文文化を伝導していくにあたって重要な役割を果たしてくれるものと思います。
こういうのを事あるごとに紹介していけば、
英語でも回文というのは作れますので、日本ばかりでなく世界中に回文文化が広まり、
人類が最も愛する文化として回文が優勝を遂げる日がいつか来るのではないでしょうか?


「回文、Vか?」 (カイブンブイカ)

福島市街地ストリートビュー

2012-06-05 12:18:32 | 飲んで幸せ・食べて幸せ
これすっごく面白いっっっ!

昨晩、酔っ払って帰ってきてブログ書いてたみたいだけど (書いた記憶ない)、

今日から 「福興ラリー de Night 2012」 です。

そのホームページのなかに 「ストリートビューでお店を探そう!」 というバナーがあって、

そのページに行くと、地図とストリートビューの写真が並んでいて、

街の実際の映像を見ながらモニタ上で福島市街地のお散歩ができてしまいます。

どうやらこれは Google Map の機能を使ってるようです。

こんなことまでできるようになってるなんて知りませんでした。

うちのマンションもしっかり確認することができました。

ここまでできちゃうなんて若干危ない気もするけど、

とにかくこれを使って、どこのお店に行くか決めることにしよう。

どうせならお店の中にまで入れたらいいのに…。

第1回福興ラリー de Night 2012

2012-06-05 03:15:48 | 性愛の倫理学
明日は (いや、もう今日ですね) 第1回福島 「福興ラリー de Night 2012」 ですっ!

いわゆるスナックというんでしょうか、女性が接客してくれる飲み屋さんを、

それぞれ30分間、3軒まわることができるというイベントです。

うーん、まさおさま向きだっ!

開催は明日、明後日 (今日、明日?) の6月5日、6日の2日間です。

参加店舗は50店あまり。

そのうち私の知っている店は3軒だけです。

知ってる店を回って前売り券を使い果たすのか、

それともまったく知らない店を開拓するのに使うのか?

男としての判断力、決断力、決定力を試されるところです。

学生にはいつも、ほんの少し自分に負荷をかけて、今までできなかったことにも挑戦してみよう!

なんてハッパをかけている以上、私としてもこのチャンスを有効活用しない手はありません。

少なくとも1軒くらいは初めてのお店に挑戦してみたいものです。

とはいえ、当日になったら知らないお店のドアを開けられるかなあ?

自分がどれだけチキンかチキンでないのか、ちょっと調べてこようと思います。

今回はキャバクラとかの出店はないようですが、

その手の店の大好きなK先生、S先生、ぜひ参加してみてご感想をお知らせください。

カフカ 「断食芸人」

2012-06-03 08:49:55 | 哲学・倫理学ファック
2月に続いて第2回目となる 「本 de てつがくカフェ」 が開催されます。
第1回のときは課題図書はあっさり決まった、というか、
取り上げたい本ありきで 「本 de てつがくカフェ」 の開催を決めたと言ってもいいくらいでしたが、
今回は課題図書の選定に世話人一同、相当苦しみました。
「本 de てつがくカフェ」 はあらかじめ皆さんに本を読んできてもらい、
それについて2時間ほど語り合うわけですが、
したがってあんまり分厚い本ではダメですし、ムチャクチャ難解な哲学書でもダメです。
わりと薄めの、サクッと読めそうな小説で、かつ様々な読みを可能とし、
哲学的議論を誘発するような深い作品であることが求められます。

私たち世話人にとっては、仙台で行われた 「第1回書評カフェ」 が原点となっています。
そのときは雨宮処凛の 『ともだち刑』 が課題図書でした。
文庫本で176ページしかない薄い本なんですが、この本自体が非常におもしろかったですし、
書評カフェでの議論も盛り上がり、たいへん刺激的な会となりました。
あれに匹敵するような最適な本が何かないだろうか?
それをずーっと考え続けていたわけです。
6月に 「本 de てつがくカフェ」 を開催することは、すでに3月の時点で決定していたのですが、
課題図書がなかなか決まらず、けっきょく5月のてつカフェの時にも発表できずじまいでした。

そうやって苦しんだあげくやっとカフカの 「断食芸人」 に決定いたしました。
短編集のなかに収められているほんの20ページ余りの小品ですが、
「本 de カフェ」 の課題図書としてなかなかいいんではないでしょうか。
カフカだけど 「変身」 にいかないところも 「@ふくしま」 らしさを醸し出しています。
いろいろな翻訳が出ています。
どの版でもかまいませんので、お好きな訳をおもちになってご参加ください。

ところでウィキペディアで 「断食芸人」 を調べてみると、
「作品中で描かれている断食芸はカフカの創造したものではなく、
 ヨーロッパでは19世紀後半から20世紀前半にかけて実際に断食芸の興行が行なわれていた。」
と書かれていました。
私は基本的にウィキペディアは信じていないので、
この説明にもホンマかいなと疑問を抱いてしまいました。
実際、ウィキペディアの 「断食芸人」 の項目のなかでも、
上述したような、いろいろな日本語訳が紹介されており、
そのなかに 「池内紀訳 『カフカ短編集』 岩波文庫、1987年」 が挙げられていますが、これはウソです。
『カフカ短編集』 のなかに 「断食芸人」 は収められていません。
「断食芸人」 が入っているのは同じ訳者の 『カフカ寓話集』(岩波文庫) のほうなのです。
こういう間違いがちょいちょい見受けられるのでウィキペディアは信じられないわけですが、
断食芸に関する記述ははたしてどうなんでしょうか。
残念ながらウィキペディアには 「断食芸」 という項目はありませんでした。
ウィキペディアを離れていろいろとググってみるしかありません。
いくら調べてもカフカのこの作品のことしか出てきませんでしたが、
やっと手がかりを見つけました。
『拒食の文化史』 という本が出版されていて、そのなかに断食芸のことが書かれているらしいのです。

実際に読んでみました。
するとたしかに 「Ⅴ 空腹芸人と生ける骸骨」 という章で断食芸のことが詳しく叙述されていました。
珍しくウィキペディアの記述は正しかったようです。
「断食芸人」 という作品はたんなる荒唐無稽な創作物ではなく、
歴史的事実に依拠して書かれた作品のようなのです。
同書ではカフカの 「断食芸人」、ならびにカフカ本人についても論じられていました。
「本 de てつがくカフェ」 の議論をある方向に誘導してしまうのは避けたいので、
参加希望者の全員にオススメするわけではありませんが、
どこまでがノンフィクションでどこからがフィクションなのかがわからないと、
この作品のことを理解することも、哲学的テーマを見出すこともできないという (私みたいな) 人には、
『拒食の文化史』 を参考文献としてオススメしておきたいと思います。

「本 de てつがくカフェ」 は事前申し込み制です。
関心のある方はカフカの 「断食芸人」 を読み、
私もしくは fukushimacafe@mail.goo.ne.jp まで参加の意思表明をお伝えいただいた上で、
ご参加くださいますようお願い申しあげます。
15名程度で締め切らせていただく予定ですので、残席あと5名分ほどです。
お早めにご連絡ください。


第2回 「本 de てつがくカフェ」

課題図書 : カフカ 「断食芸人」

日 時 : 2012年6月23日 (土) 16:00~18:00

場 所 : サイトウ洋食店

        福島市栄町9-5 栄町 清水ビル2階・JR福島駅から徒歩4分
        電 話 024-521-2342

費 用 : ドリンク代 300円 

参加申し込み : fukushimacafe@mail.goo.ne.jp



ちなみに打ち上げも 「サイトウ洋食店」 さんでやらせていただくことに決まっております。
できれば懇親会への出欠も一緒にお知らせいただければと思います。

Q.最初から意味がわかって哲学の本を読めましたか?

2012-06-02 15:54:34 | 哲学・倫理学ファック
皆さんに哲学のイメージを書いてもらうと、ほぼ9割の人が必ず 「難しそう」 と書いてくれますので、
哲学やってる人間に対する疑問として、これは率直な問いなんだろうと思います。
哲学のどこが難しいかに関しては以前に書いたことがあるので、そこをご参照ください。
この問いに対する答えは簡単です。

A.最初はまったく意味わからなかったし、本も全然読めませんでした。

哲学やってる人は誰でもそうというわけではなく、
これはあくまでも私のみに関する話ですので、その点はご了承ください。
きっかけシリーズ (その1その2) に書いたように、
中学校時代に哲学・倫理学のテーマになんとなく関心をもち、
高校時代に 「倫理」 の教科書を通してごくごく基本的な知識は手に入れていた私ですが、
実際に哲学・倫理学の本を手に取ってちゃんと読んでみようとしたのは、
大学3年目のときでした (3年目だけど2年生)。

ひとつは、東京外国語大学にたった1人いらっしゃった哲学教授、宮川透先生の演習授業で、
ヘーゲルの 『小論理学』 という本をテキストにしていました。
もちろんドイツ語なんて読めませんから、日本語訳 (岩波文庫) での講読です。
その演習は、宮川先生の弟子の1人 (上級生) がその本を精読してきて一文一文解説していき、
それに対して宮川先生が質問したり、間違いを指摘したり、板書しながら詳しく解説したりしながら、
日によっては数ページ、難解な箇所だとほんの数行しか進まないというような授業でした。
したがって、私たちは基本的に黙ってそのやりとりを聞いていればいいのですが、
その講読は何年も前から始まっていて、私たちは本の途中から参加したことになり、
前のほうの話を聞いていないので、彼らが何を語り合っているのかほとんどわからないという状態でした。
もちろん、最初の時間にその先輩がこれまでの話をざっとレジュメにまとめて報告してくださり、
それにさらに宮川先生による解説も加えてくださったので、話の大枠は理解していたつもりなのですが、
実際にヘーゲルの文章を読んでみると、
その大枠とこの文章がどう繋がるのか皆目わからない感じです。
ヘーゲルの哲学は特に難解で有名ですので、
素人にわからなかったとしてもしかたなかったのかもしれませんが、
1個1個の単語の意味からしてまったく見当がつかず、途方に暮れたものでした。

同じ年だったか翌年だったか、社会思想史や経済思想史を担当していた山之内靖先生の演習授業で、
自分が読んだ本をレジュメにまとめていくという課題を課されました。
先ほどの演習はただお客さんになっていればよかったので、
自分で積極的・主体的に読んだという感じではありませんでしたが、
今回は自分でまとめて発表しなければなりませんので、本気で読まなくてはなりません。
山之内先生は哲学の先生ではなかったのですが、
なぜか私はこの授業でカントを発表しようと決めてしまいました。
ヘーゲルの演習で相当ストレスがたまっていて、
ヘーゲルに比べたらカントの文章のほうがまだ理解できるという自負があったのかもしれません。
読んだのは 『人倫の形而上学の基礎づけ』 という、カント倫理学の出発点となる本でした。
これは、中央公論社から出されていた 『世界の名著』 シリーズのカントの巻に入っていて、
この本自体は高校の頃に買って持っていて、パラパラとあちこち開いたりはしていましたが、
きちんと読んだことはまだなかったのでした。
この本にはカントの著作がいくつか収められていて、そのうちの一番短いものを選んでまとめました。
が、本来、どんなに短いものであろうと、
哲学書を1冊丸ごとレジュメにまとめていくなんてありえないことで、
先の宮川ゼミのように、1回に数ページずつ、
一文一文を丁寧に読解しながら読み進めていくのが哲学書の正しい読み方です。
残念ながら、当時の私にはとてもそんな芸当はできませんでした。
で、1冊全体のなかから何とか理解できたっぽいところだけ、
つまみ食いのようにざっくりとまとめていったのでした。
山之内先生にとってもまったく専門外の本ですし、
まとめた私もほとんど内容を理解できていないのですから、
ゼミでの発表が悲惨なものだったのは言うまでもありません。
何はともあれ、あれが自分で本気で哲学書を読んだ最初と言っていいでしょう。
あのときのレジュメはもうまったく残っていませんが、
あとから振り返っても、あのとき私はまったく何にも理解できていなかったのは間違いありません。
『人倫の形而上学の基礎づけ』 は、カントが 「定言命法」 という、
カント独自の概念を初めて提示し展開した書なのですが、
具体的に定言命法がどこに書いてあるのかすら私はきちんと理解できていませんでした。
3章構成の本ですが、それぞれの章が何を主題としているのか、
もちろんそれぞれにタイトルはつけられているのですが、
その意味もまったくわかっていませんでした。
カント自身がどんな意図でその本を書いたのかということよりも、
いろいろ書いてあるなかでかろうじて自分なりに理解できたところだけ、
読んだつもりになっていたというのが正直なところだったでしょう。

という具合で、最初のうちは本当に手も足も出ませんでした。
数年かけて宮川先生のゼミで哲学書の読み方を手ほどきされるなかで、
やっと少しずつ読み方のイロハがわかってきて、
大学院に進学してからドイツ語の原書を読み解いていく手法を正式に学んで、
それで何とか今に至るという感じです。
したがって、こと私に関して言うならば、
最初から意味をわかって読んでいたなんてことはまったくありません。
岩波文庫とかをパラッと開いてみてもなんにも意味わからなくても悲観する必要はないでしょう。
すべては訓練と教育の賜です。
そして、そんな訓練や教育を受けてまでも哲学書を読んでみたいと思うかという、
主体的な意欲の問題です。
よく、哲学書を簡単に読めるようになる方法はありませんかと聞かれることがありますが、
それに対してはこの言い古された答えを繰り返しておくことにいたします。

「学問に王道なし」。