まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

看護学校 「倫理学」 FAQインデックス (2015年版)

2015-09-06 15:05:38 | 哲学・倫理学ファック
一昨日から郡山と白河の看護学校で 「倫理学」 の授業が始まりました。
全部で7回、2ヶ月足らずのお付き合いですがなにとぞよろしくお願い申し上げます。
それからこちらのブログ 「まさおさまの倫理学」 もたまにご覧いただければと思います。
授業中のワークシートのなかに書いてもらった質問にこちらでお答えすることがありますので、
見逃さないように注意してください。

また第1回目の授業では、皆さんに 「倫理学の先生に聞きたいこと」 を出してもらい、
授業内でその代表質問にお答えしました。
今年もヘンな質問満載でしたね。
郡山では 「Q.彼女を作るにはどうしたらいいですか?」 と聞かれましたし、
白河では12問中、倫理学に関わる質問はたぶんたった1問のみで、
「Q.なんでそんなに早口なんですか?」 とか私の盲点の窓に関わる質問も若干ありましたが、
基本的には私のプライバシーに関わるような質問とか、
あとは 「Q.一生のパートナーを見つけるにはどうしたらいいんですか?」 みたいな、
人生相談的な質問のオンパレードでした。
どんな質問が飛び出すかまったく予想不可能なのでヒヤヒヤしながらお答えしましたが、
うまくお答えできていたでしょうか?

さて、皆さんから出していただいた質問のなかで、
代表質問に選ばれなかったものに関してはこのブログで少しずつお答えしていきます。
とはいえとても答えにくい質問もたくさんありましたので、
授業が終わるまでに全部お答えすることはできないだろうと思います。
質問は全部書き留めてあるので、遠い先のいつかお答えできるかもしれませんから、
授業が終わってからもたまにブログを覗いてみてください。
とはいっても歴代の先輩たちからいただいた質問にもまだ全部お答えし切れていないのですが…。

皆さんからいただいた質問の多くはすでに先輩からも出されていたので、
すでにブログのなかに書いたことがあります。
ですのでまずは過去ログを参照していただければと思います。
どこを見たらいいか、インデックスというか目次的なものを作っておきますので、
こちらからあちこちへ飛んでみてください。
そして、インデックスもすでに何度も作ったことがありますので、
まずは下記のインデックスを順番に見てみてください。
そのなかに自分の質問と同じか似たものが見つかるはずです。
もちろん自分がした質問でなくても興味があったらぜひ読んでみてください。
なお、私にとって 「倫理学」 と 「哲学」 は同義語ですので、
「哲学」 と書いてあるところは全部 「倫理学」 に置き換え可能ですので、
そのつもりで読みたい記事を探してみてください。
(哲学と倫理学の関係についてはこちらをご覧ください。)


以前のインデックス
  「倫理学の先生に聞きたいこと (インデックス版)」
  「哲学の先生に聞きたいこと (インデックス版2012)」
  「看護学校教員養成講座・インデックス2012」
  「倫理学FAQインデックス (2012年白河編)」
  「哲学FAQインデックス (2014年相馬編)」
  「看護学校 「倫理学」 FAQインデックス (2014年版)」
  「哲学FAQインデックス (2015年相馬編)」


自分の質問と同じもの、似ているものは見つかったでしょうか?
これらのインデックスに載っていなくてすでに書いたことのあるものや、
載ってはいるけれど問い方が違っているから見つけにくいと思われるものは以下です。

Q.好きな物は先に食べますか?
  「Q.好きなものは最初、最後どちらですか?」

Q.誕生日はいつですか?
Q.12月何日生まれですか?
  「○○○にやさしいバースデイプレゼント」

Q.好きな芸能人はいますか?
  「Q.福山雅治好きですか?」
  「Q.好きなアイドルはいますか?」
  「Dancing’s All About the Line.」

Q.好きな色はなに色ですか?
  「Q.先生の好きな色は何ですか?」

Q.好きな国はどこですか?
  「Q.外国でどこが好きか?」

Q.スポーツは好きですか、苦手ですか?
  「Q.好きなスポーツは何ですか?」

Q.おすすめのおつまみは?
  「Q.お酒のおつまみは何が好きですか?」

Q.服や靴がおしゃれですね。(これは質問なのか?)
  「ファッション哲学」
  「Q.毎日の服装は何を基準に決めているんですか?」

Q.人間が好きですか?
Q.ペット飼ってますか?
  「Q.先生は人間は好きですか、ペットは何を飼いたいですか?」

Q.自分を動物にたとえるとしたら何ですか?
  「Q.自分のことを一言でいうとどんなですか?」

Q.今までどんなことを研究してきたのか?
  私のウェブサイトの 「プロフィール」 や 「学術論文」 のところをご覧ください。

Q.様々な説や考えがある倫理の中で自分の ”もと” にしているものは何ですか?
Q.信じている人はいるか?
  「Q.一番好きな哲学者は誰ですか?」

Q.先生は倫理についてどう思っているのか?
Q.先生にとって倫理学とはどういうものですか?
  「Q.先生にとって倫理とは何ですか?」

Q.倫理学の他に興味をもったものはあったのか?
  「Q.哲学以外に好きな分野はありますか?」

Q.先生の今の生きがいは何か?
Q.先生の一番の理想を教えてください?
  「Q.先生の目標は何ですか?」

Q.信じている言葉はあるか?
  「Q.先生の好きな言葉は?」

Q.人から言われて盲点の窓だと気づいたことは?
  「Q-2.先生はどんな盲点の窓を指摘されたことがありますか?」

Q.倫理学の先生になって良かったと思う事は何ですか?
Q.倫理学の先生になって楽しいと思った出来事は?
Q.倫理学の先生になってわかったことは?
Q.学生の考え方に気付かされることはありますか?
  「Q.教えていて自分に何かよい影響を受けましたか?」

Q.倫理学の先生になって辛いと思った出来事は?
  「Q.倫理学を教える上で難しいと感じることは何ですか?」

Q.問いを問い直すとは例えばどんなことですか?
  「Q.倫理学を学んでよかったことは何ですか?」

Q.倫理の研究はどういうことをするのか?
  「Q.哲学・倫理学に関する研究はどのようにしていますか?」

Q.倫理学の学問に終わりはあるのか?
Q.これは正しい、これは違うとかはあるのか?
(これらの質問には直接お答えしていることにならないかもしれないけど、以下をご覧ください。)
  「Q.倫理学者は倫理的な人ばかりですか?」
  「Q.哲学を学んでよかったことは何ですか?」
  「Q.哲学の何が難しいですか?」

Q.恋愛と倫理は関係がありますか?
(これもちょっと遠いかもしれないけどいちおう)
  「Q.哲学と恋愛は関係あると思いますか?」

Q.本当の自分を見つけるにはどうすればいいですか?
Q.自分自身をかえりみたら、新しい自分や何か新しい発見ができますか?
  具体的にどう反省すればいいんでしょうか?
  「300人自己分析 ・ 90分一本勝負」
  「強みを活かして生きる」
  「Q.指摘された盲点の窓をどうとらえたらいいんですか?」

Q.他人にあまり興味がない。看護師には致命的なんですかね?
  「Q.人の気持ちをわかってあげるのが下手なんですがどうしたらいいでしょうか?」

以上です。
今度お返しするワークシートの質問のところに 「ブログ参照」 と書いてあったら、
以上のどこかを見れば答えが載っているはずです。
代表質問として取り上げられたものは 「スミ」 と記しておきました。
解答済みという意味です。
代表質問にはならず、ブログ上ですでに答えてもいない質問に対しては、
「そのうちブログに書くかも」 と書いておきました。
先にもお断りしておいたようにいつになるかわかりませんが、
そのうちブログに書くかもしれませんのでときどきチェックしてみてください。
読んだらコメントも書いていただけるとうれしいです。

大人とは何か?

2015-09-05 07:12:33 | 人間文化論
前回のてつカフェでは 「〈おとな〉 とは何か?」 というテーマで対話しました。
ご案内にも書いてあった通り、私と純ちゃんは7月に、
「ネオ・ソクラティック・ダイアローグ」 の研修を受けてきたばかりなので、
今回は、いつものように多様な意見が出されてそれでおしまいではなくて、
テーマに関して何とか一定の合意に至れるような議論を目指してみることにしました。
純ちゃんがファシリテーターと記録役 (ホワイトボードではなくただのパソコン打ち込み)という、
たいへんな二役を自ら買って出てくれましたので、
私は対話参加者のひとりとして合意形成に寄与できるような発言をしていくつもりでした。
結果としてはその意図はまったく果たされないまま、
私の発言はただひたすら議論を迷走させる方向に働いてしまいました。
誠に申しわけありませんでした。
詳しくは当日の記録を見ていただければと思いますが、
いちおう言い訳というか、なぜあの時私があのような発言をしたのかという、
私の意図だけ補足しておきたいと思います。

当日の議論は、合意を目指そうという私たちの意図をあざ笑うかのように、
いつも通りの自由奔放な展開を見せて進んでいきました。
一番最初に指摘された、「成人」 と 「大人」 の概念は区別すべきだという説には大賛成で、
「大人とは何か」 に関してはいろいろと自由に哲学的議論を深めることができると思いますが、
現実の社会としては法によって 「成人とは何か」 をはっきりと定めて、
これはもう、何歳であれ、とにかく年齢で区切るしかないと思うのですが、
ある一定の年齢を過ぎたら成人とみなし、成人たる資格・能力を有しているものとみなす、
(現実にそういう資格とか能力を有しているかどうかということとは関係なく)
というふうに決めるしかないだろうと思っています。
本当にその資格や能力を持っているのかどうかということを厳密に測定しようとし始めると、
この世には本物の大人 (成人) なんて1人もいないということになりかねません。
どなたかが 「成人とは自立して責任ある行動を取って社会に貢献することが求められる人。
大人は求められるのではなく、能力がある人ということになります」 と発言されていました。
その方と私が同じことを言っているのかどうか疑問な部分もありますが、
私としてはその方の意見に全面的に賛同いたしました。
大人というのがある一定の能力や資格を実際に持っている人のことを指す概念だとすると、
成人というのは、そうした能力や資格を現実に有しているかどうかとは関わりなく、
ある年齢を超えたら、法律上そうした能力・資格を有しているものとみなされる (=求められる)、
そういう人々のことを指す概念なんだろうと思います。
法的には厳密な能力主義に立つことはできず、けっきょく年齢で区切るしかないのだと思うのです。
そうでもしないと私や純ちゃんはいつまでも少年法でしか裁けないことになってしまうでしょう。

残念ながら当日の議論では、この成人と大人の区別が共有・合意されることなく、
その後一瞬、生殖能力の話が出たあと、そこからはどんどん文学的な方向に話が流れていき、
とてもじゃないけど合意に至れる雰囲気ではなくなっていきました。
そこで私は議論を整理するために、小浜逸郎 『 正しい大人化計画』 の冒頭に出てくる、
大人とは何かに関する定義というか、整理・分類を紹介することにしました。



小浜氏はこの本のなかで、大人を大きく3つ、さらに細分化して全部で7つに分類しています。

A 生理的大人
 (1) 年齢を経て身体が大きくなり運動能力が強くなっている
 (2) 生殖能力がある

B 社会的大人
 (3) 親から経済的に自立している
 (4) 仕事や家庭で責任を果たせる

C 心理的大人
 (5) 落ち着いていて、小さなことで騒がない
 (6) 場面に応じて態度を使い分けられる
 (7) いろいろな知恵・知識があってそれを伝えられる

私は7つの下位区分にまで同意しているわけではないのですが、
生理的大人、社会的大人、心理的大人という3分類はけっこう使えるのではないかと思っています。
このうちの3番目の心理的大人に関しては、人それぞれ大人の条件とみなすことが異なり、
このレベルでお互いの意見をいくら出し合っても合意が得られるとは思えませんでした。
今回のてつカフェで出されたほとんどの意見はこの心理的大人に関する各自の捉え方であり、
それはそれでいつものてつカフェの形式であれば十分面白く拝聴することができましたが、
今回に限ってはこのレベルで意見のやり取りをすることはある意味で控えて、
みんなの合意が得られそうなレベルに議論を集中するべきなのでは、
というのが私が言いたかったことです。

また、逆に第1レベルの生理的大人の話に関して言うと、
これはけっきょく別の言い方をすると動物レベルの大人 (成獣?) の話と同じであり、
それはもちろん人間の大人にとっての必要条件ではあるけれども、
十分条件にはなりえないように私には思えました。
てつカフェのなかで生殖能力に言及してくれた方も、
人間の場合は生殖能力を身に付けたからといってただちに大人だとは言えない、
と主張しておられましたし、私もその意見には賛成でした。
とするとけっきょく、今回の議論で問題にすべきは第2レベルの社会的大人概念であり、
もちろんこれに関してもいろいろな意見がありえるだろうとは思いますが、
時代や社会の変動条件を捨象して、もしも普遍的に大人とは何かを定められるとするならば、
それはこの社会的大人の概念に関してだけだろうと私は考え、
そこに議論を絞って哲学的対話を展開していくべきではなかろうかと提案したかったわけです。

残念ながらこの提案は受け入れられることはありませんでした。
それには私の論の進め方の杜撰さも関係してきています。
私は、ただ生殖能力を持っている生理的大人と、今回問題にすべき社会的大人とを区別するために、
人間の場合は他の生物と異なって、ただ子どもを産めばいいのではなく、
産んだあとに育てる (養育する=扶養+教育) ことができなければならない、
つまり親として子どもを養育する能力・資格があるかないかが社会的大人の基準だと思いました。
これはあちこちの中学校高校で話している、
人間とは 「本能の壊れた動物」 であって、そのために本能の代替物として
「文化を産みだし、文化を用い、文化を学んで、文化を伝えていく動物」 なのである、
という話と密接に関わってくる問題です。

ここで言う文化というのは、文化系/体育会系という対立軸での文化ではなく、
文化系/理数系という対立軸での文化でもなく、
文化/文明を対置させて理解しようとした場合の文化でもありません。
ここで言う文化は、文化人類学で言うところの 「文化」 であり、
これは言い換えると 「非遺伝的適応能力」 ということになります。
つまり、遺伝によって親から伝えられるのではない、
人類が生み出したものすべては 「文化」 であるということになります。
机や鉛筆や衣服など私たちの身の回りにある有形のモノはすべて文化であり、
言語や貨幣制度や一夫一婦制や学校制度などの無形の制度もすべて文化です。
人間はこれらの、遺伝によって受け継いだわけではない文化を使いこなさないと生きていけません。
これらはセミの生殖能力などとは異なり、遺伝によって親から子へと与えられてはいないので、
産まれたあとに後天的に習得 (親の側からすると伝達) しなければならないのです。
その点を表現するために、いわゆる生殖を表す 「再生産 (リプロダクト)」 という語を用いて、
「文化の再生産」 という言い方で表現してみました。
つまり、動物のようにたんに自分の遺伝子を受け継ぐものを再生産すればよいのではなく、
人間の場合は産んだあとに文化も伝達して文化の再生産もしなければならない、
したがって大人 (=社会的大人) とは、文化の再生産ができる者のことである、と論じたのです。

この 「文化の再生産」 という表現が皆さんの誤解を招いてしまいました。
今も、文化の再生産を説明するために2段落ほど費やさなければなりませんでしたが、
当日はそういう丁寧な説明をすっ飛ばして、安易に 「文化の再生産」 と言ってしまったために、
その後の議論は、上流階級の徳目の教育とか、アニメのリメイクとか、
革命と改革の違いとかの話に流れていってしまいました。
哲学カフェの精神に背いて、下手に専門用語 (しかも人口に膾炙していない新造語) を用いてしまったために、
てつカフェの議論をあらぬ方向にミスリードしてしまいました。
これは本当に反省すべき点だったと思います。
ふだんだったらこんな軽はずみな発言はしないのですが、
皆さんの合意を目指すというこの日のミッションに焦ったあまりに、
何とか助け船を出そうとしたつもりが、完全に裏目に出てしまいました。
本当に申しわけありませんでした。

けっきょくこの日の議論は合意に至ることはなく、
いつも以上に混乱したまま終了してしまいました。
もしも合意を形成することができたとしたら、はたしてどのような合意になったのでしょうか。
私の予想としては以下のようなことを想定していました。

どなたかも発言されていたように、
「大人」 という概念は 「子ども」 という概念と対になっている相対的概念です。
しかし私は、相対的概念だから定義できないというのは間違っていると思います。
てつカフェではさらに 「大人っぽい」、「子どもっぽい」 という概念対が話題に上りましたが、
これはもうたしかに定義や合意不能であり、大人であれ子どもであれどんな人間にも、
大人っぽい部分と子どもっぽい部分が共存しているということになってしまうでしょう。
「大人っぽい」 という語を定義しようとすると、
先ほどの第3レベルの心理的大人に関する各人各様の思いが無限に出てくるだけですし、
それよりも、そもそも 「大人っぽい」 とか 「子どもっぽい」 というのは比喩表現なのです。
私は授業ではよく、言葉の定義を考えるときに、
比喩表現を混入させてしまうと定義不能になるので注意するようにと話しています。
例えば、「戦争」 概念を定義しようとするときに、
受験戦争や冷戦のことまで含めた定義を考えようとするとドツボにはまってしまうのです。
これはもともと戦争とは全然関係ない受験や東西対立構造を、
戦争に譬えることによってその激しさを表現しようとした比喩表現です。
だから、戦争を定義する際には受験戦争や冷戦のことは考えなくていいのです。
テロリストの定義を考えるときにインリン・オブ・ジョイトイのことを考えなくていいのと同じことです。

というわけで 「大人っぽい」、「子どもっぽい」 という概念対で考えるのはやめて、
「大人」 と 「子ども」 という概念対で考えることにすると、
ヒントになるのは、「子ども」 という概念と対になるのは 「大人」 という語だけではなく、
「親」 という概念もあるということではないでしょうか。
もちろん親と大人は同じ概念ではありません。
親と子どもは血縁関係または法的関係で結ばれています。
大人と子どもの場合にはそうした関係は (あってもいいけど) 不可欠ではありません。
しかし、根幹には親と子どもの関係性と類似した関係が存在しているように思うのです。
そこから、時代とか社会とかの可変性、相対性を超えて、普遍的に大人を定義しようとするならば、
大人とは、「親になることのできる者」、
「子どもを養育する可能性を有する者」 と定義できるのではないでしょうか。
どういう能力や資格を備えたら親になることができるのかということに関しては、
時代や社会によってその内容は変わってくるでしょう。
が、できるかぎりこれも普遍的に言える条件だけに絞って挙げてみるならば、

(1) 親から自立している (親の養育を必要としない)
(2) 子どもが大人になるまで扶養できる
(3) 子どもや他人に文化を伝達できる (=文化の再生産)

てつカフェのときには小浜さんにつられて 「経済的自立」 という語を使いましたが、
石器時代にも通用することを考えると 「経済的」 という限定は外してもよいかと思いました。
逆に現代では血縁関係がなくとも親になることはできますので、生殖能力は入れませんでした。
また、議論のなかで私が経済的自立に言及したときに、
病気で入院している人は大人ではないのかという質問が出ましたが、
その他、要介護老人やニートといったケースに関しては、
最初に述べた、大人ではなく成人という概念ですくいあげればいいのではないかと考えます。

さて、どうでしょうか?
「大人とは、親になることのできる者である」。
ここらあたりで合意できないものでしょうか?
合意できるかな?
できないだろうなあ。
なんだかすでに一斉砲火の音が聞こえてきそうな気がします。
コメント欄でご意見、ご質問、お待ち申し上げます。

生協食堂でプレゼンテーション演習

2015-09-02 20:58:09 | 教育のエチカ
活字中毒の私は食事中も活字に触れていたいので、生協食堂とかで食事をする場合は、

テーブルに、何と言ったらいいんでしょう、ちっちゃな広告というか広報紙というか、

アクリルのカードスタンドの中に、

バランスのよい栄養のとり方みたいなことが書いてある紙が入っているやつ、

ああいうの何て言うんですか (POPじゃないだろうし、正解募集中!)、

それが置いてある席に座り、食事をしながらボーッと読んでいたりするわけです。

で、最近の福大生協食堂のテーブルにはこんなものが置かれています。



両面ディスプレイになっていて、裏には続きがあります。



ちょっと前までは 「夏バテ予防」 みたいな話でしたが、最近はもう全然暑くなくなったからか、

「貧血予防! 効果的な鉄分のとり方」 のレクチャーになっていました。

これを読むともなく読んでいて、まあ内容的には読みごたえがあったからそれはそれでいいんですが、

どうも納得いかない点がありました。

今言ったように 「貧血予防! 効果的な鉄分のとり方」 というタイトルの下で、

「最近顔色が優れない、やる気が出ない、すぐ疲れてしまう、めまい、たちくらみがする、
 そんな症状はありませんか? もしかしたら貧血かも。
 以下女性に多い貧血を予防する効果的な鉄分のとり方、8つのポイントです。」

というリード文があってその後にコラム形式で8つのポイントが挙げられています。

順番に書き記しておきましょう。

「1.1日に必要な鉄分量

 2.鉄分補給のポイント

 3.ヘム鉄と非ヘム鉄

 4.鉄分不足で息切れ

 5.こわい鉄欠乏性貧血

 6.食物繊維は鉄吸収の邪魔者?

 7.鉄分たっぷりおかずとご飯

 8.鉄分を多く含むメニュー (例)」

(本当は①マルイチ、②マルニを使いたいところですが、
 スマホで見ると文字化けしてしまうのでフツーの数字で表記しておきます。)

ひとつひとつの内容までは書き起こしませんが、

可能でしたら上記の画像を拡大して文章も読んでみてください。

これって何だかおかしくありませんか?

話があっち行ったりこっち行ったりしていますよね。

表 (おもて) 面を見ている段階ですでに違和感を感じていました。

ヘム鉄と非ヘム鉄というものすごいトリビアな話のあとに、

鉄分不足によって生じる症状の話が出て来たりするのです。

裏面にいってさらに違和感は確信に変わりました。

5に来てやっと、貧血の正体は鉄欠乏によるものなのです、という原因分析の話が出てくるのです。

この8つのコラムをそれぞれパワーポイントの1枚のシートと考えた場合に、

こんな順番でプレゼンしている学生がいたら間違いなく、

「プレゼンテーション演習」 の単位はFかDをつけてやるところでしょう。

論理的な筋道がまったく立てられていません。

後期から始まる 「卒論研究基礎演習」 や 「プレゼンテーション演習」 では、

ぜひこの教材を使って、これを正しい順番に並べ替えて、

聴衆にわかりやすいプレゼンテーションに改善せよ、という課題を与えてみたいと思います。

せっかくですから皆さんも考えて、正しい順番に並べ替えてみてください。

それではシンキングタイム、スタート!































いかがでしょう。

うまく並べ替えられたでしょうか?

もちろん正解がひとつだけとは限りませんが、

だいたいの正しい流れというのは見えてこないといけません。

私だったらこの順番にするという解答例を示しておきましょう。

まずは何と言ってもこれです。

1.「5.こわい鉄欠乏性貧血」

これなんて言わずもがなと言えば言わずもがなで、

すでにタイトルでこの話は先取ってしまっていますので、なければなくてもいいぐらいの話ですが、

どうしても入れるとしたらやはり一番最初に言うべきことでしょう。

続いてこれです。

2.「4.鉄分不足で息切れ」

鉄分が欠乏するとどういうことが起こるかを第5シートよりも少し詳しく解説しています。

また、次のシートの内容も若干先取りしているというか、重複しているところもあるので、

1番めから3番めまでは内容を精査して2枚にまとめることも可能かもしれません。

5と4を承けてやっと出てくるべきがこれです。

3.「1.1日に必要な鉄分量」

もともとのバージョンではここが出発点になっていましたが、

先に貧血の原因が鉄分不足であるということを説明しておいた上で、

じゃあ鉄分は1日にどれくらい必要なのかという話をし、

そこからどのように鉄分をとっていったらいいかという本題に入っていくというのが正攻法でしょう。

この次にどれをもってくるかというのは意見が分かれるところかもしれません。

3つの候補があります。

「2.鉄分補給のポイント」、「7.鉄分たっぷりおかずとご飯」、「8.鉄分を多く含むメニュー」 です。

タイトルだけから判断すると 「2.鉄分補給のポイント」 が最有力候補ですが、

中身を読んでみると、今ひとつ 「鉄分補給のポイント」 と銘打つほどのインパクトに欠けています。

「7.鉄分たっぷりおかずとご飯」 は 「2.鉄分補給のポイント」 の後半で言われていたことを、

より詳しく敷衍する形になっています。

今回のテーマでご飯を食べることをなぜここまで押すのか今イチ論理的繋がりがよくわかりませんが、

今回に限らずバランスの取れた食事を摂ろうというのは生協の大きなテーマなのでしょう。

とすると、「2.鉄分補給のポイント」 のあとに 「7.鉄分たっぷりおかずとご飯」 という流れでしょうか。

したがって一般的な流れとしては最後に例示を持ってきて、2 → 7 → 8 になるのかもしれません。

ただ私としては、今回のテーマに即した情報を提供することを重視するのであれば、

こういう順番を推したいと思います。

4.「8.鉄分を多く含むメニュー (例)」

ここで何に鉄分が多く含まれているかを先に示しておいて、その後に、

5.「2.鉄分補給のポイント」

6.「7.鉄分たっぷりおかずとご飯」

と続けて、トータルな食事スタイルの提言に繋げていくという方法をとりたいです。

2や7の本文には鉄分を多く含む副菜 (おかず) が何かという情報が少ないので、

先に8を見せておけば何を食べればよいのかもわかりやすくなるでしょう。

残った3と6は補足的なトリビアな知識です。

これらは一番後回しでいいでしょう。

ヘム鉄と非ヘム鉄なんていう細かい話が3番めに出てきちゃうなんてまったく理解不能です。

3と6の2つはどちらが後でも先でもかまわないと思いますが、

いちおう鉄そのものの話がされているということを重視して、こう並べておきます。

7.「3.ヘム鉄と非ヘム鉄」

8.「6.食物繊維は鉄吸収の邪魔者?」

いかがでしょうか。

これですっきりしたのではないでしょうか。

なお、生協食堂の卓上カード (?) だったらこの順番でいいと思いますが、

実際にプレゼンをやるんだったら、一番最後に締め括りがほしいところですので、

「7.鉄分たっぷりおかずとご飯」 を最後に持ってきて全体の結論にするということも考えられます。

いずれにせよ、順番を入れ替えるのに伴って本文の内容も若干書き改める必要があるでしょう。

以上、プレゼン構成、論文構成に関するレクチャーでした。

物事を説明するにはそれなりの論理的流れというものがありますので、

そのことを意識してプレゼンや卒論を作成していくよう気をつけてください。