おはようございます^^
最近話題のニュースは ロシアのウクライナへの侵攻です。次は コロナ感染、物価の上昇などがあります。
海外では サッカーワールドカップの組み合わせが決まった事。それと 中国の上海のロックダウンがあります。
ワールドカップはいずれ俎板(まないた)に乗せようと思っていますが今日はロックダウンについてお話をさせて頂きます。
コロナについては三年前の武漢の食料市場から始まったようですが、 最初は 地元の風土病ということで
大したニュースにもならなかったようです。それから 感染のスピードが速くて あっという間に武漢一円に拡がりました。
中国の政府は臨時の病院を建てたり医療従事者を全国から集結させ治療にあたりながら武漢市域一円をロックダウンにしました。
そのあとについては報道されている通りコロナは治まり終息宣言は出たのかどうか知りませんが北京でのオリンピックも無事
に終わったところを見ますと 都市封鎖は成功をしました。今回は封じ込めた手法 都市封鎖・ロックダウンについてヨーロッパの一部都市で
行われましたがあまり効果がなかったようですが中国の都市封鎖はかなり効果を上げました。今回の上海の都市封鎖についても
必ず効果が表れると私は思っています。
それについて私の父の戦争体験(都市封鎖)を皆様にお話をさせて頂きます。
私の父は大正13年の生まれです。この年代の人は終戦間際に召集されていらっしゃる方が多くて 父も昭和19年12月10日に
召集されて九州博多→釜山→北京→南京→九江→漢口(武漢)。。 陸軍第七十五大隊 第二中隊(九江)に到着したのが翌20年1月10日。
ちょうどひと月かかって 着いたようで、博多から釜山まで船。釜山からはたぶん汽車でしょうが戦火で線路などが目茶目茶だったので
乗り継ぎを含めて南京まで二十日ほど掛ったでしょうか。そのあとは揚子江を北上するわけですが、当時の父の記録では
「当時点と線のみ占拠している状態で揚子江の遡江も朝夕しか利用することが出来ず・・」
とあります。要は占領していたのは部分部分だけで一歩外れたら もう簡単に出歩ける環境でなくて、昼間の船便は危なくて使えなかったようですね。
しかも揚子江を上ってゆくのですから 遅々として進まなかったのでしょう。
父は武漢より手前の九江(現存しています)というところで高射砲の部隊に配属されたのですが、この周辺は日本軍が占領をしていて
戦争をするよりも 食糧調達‥小川をせき止めて 魚の搔い取りをしたり野菜を栽培したりして日をつぶしていたそうです。
そのあと半年ほどして八月‥‥終戦のころに地元の風土病のアミーバ赤痢に罹りました。これはホントに怖い感染病で 当時の
父の記録には 周りの人が次々に亡くなっていったのを熱にうなされながら眺めていた… 高熱で見る気力も無かって次は ワシか‥
と観念していたようでした。アミーバー赤痢は熱が上がり下痢と腹痛の繰り返しでみるみるやせ細っていきます。
父も60キロ近くあった体重が35キロまで落ちたそうで死の一歩手前までいきました。
それでも何とか持ちこたえていましたが 、ある日 父の出身地に近いところから来ていた看護婦さんから
ここでは薬が無いからアカン、この先の漢口にある陸軍病院に行けば薬がある筈だから治るかもしれません、私から頼んで上げましょう。
と言われて父はその後漢口の陸軍病院に移され、そこでの治療が効いて九死に一生を得たのです。
それでも昭和20年8月から翌21年4月ごろまではほとんど記録がなかったのは生死を彷徨(さまよ)っていたからでしょう。
その後 4月の記録ではようやく元の身体に戻りつつある(45キロくらい)‥と記していました。まぁ若かった(23歳)ので回復も
早かったのかも知れませんが、(この状態で回復の兆しがあったとは余程ひどかったのですね)
ようやく帰国が認められて5月始めに漢口の港(揚子江はこの中流地帯でも川幅が数キロありました)
この漢口市(商業の中心)とは当時の日本陸軍の本部があったところで(陸軍の大きな病院もありました)揚子江を挟んで
武昌市(政治の中心)、漢陽市(工業の中心)の3つの市が合併して出来たのが 武漢市でした。
ですから今でも 武漢三鎮と呼ぶのは この三つの市を指すのです。その漢口の港から揚子江を下る事300キロを五日間、
その時の記録です。
「漢口港を昼頃に乗船、二艘の船を大きな横木でくくりつけたお粗末なポンポン蒸気船がロープで引っ張って揚子江を下り始めた
頃は夕暮れになっていたようでした。途中何回も島陰に停泊。南京まで五日程かかったのではないでしょうか」
急な流れがあるのと岩礁など障害物があるので視界の利かない夜は動けなかったのでしょうか。
そのあと南京から貨物列車に乗って上海の呉松港に着きました。
ここから記録です。
「‥‥上海の呉松港にたどり着きましたが、引き揚げ隊員の中から疑似コレラの患者が出て全員帽子に白帯を巻きバリケードに
とり囲まれて隔離されること一か月有余。毎日毎日聴こえてくる汽笛にやるせない望郷の思いに駆り立てられたがようやく許可
がおりて米軍の大型の上陸用フェリーで‥‥博多に到着」
漢口からようやく上海までたどり着いて あとは日本向けの船に乗ったら帰れる、 もうあとちょっとや、望郷に駆られていたら
疑似コレラの患者が出た、有無を言わせずさっそく、隔離、それも一か月以上。
文筆者でもなかったし体力もまだまだ戻っていなかった父の日記ですから、望郷の無念さやひと月あまりの間の事がまるでありません。
察するところ いつまでここに居るのか…と絶望感に打ちひしがれていたのでしょう‥‥
感染病について 中国は過去に何度となく絶滅に瀕(ひん)するくらいな目に遭ってきたのでしょう‥‥
だから昔からの経験則で一人でも感染者が出たらそれ以上拡がらないように 感染者を他の人達から離すことで感染病を蔓延をしないよう
にしていたのですね。
今でも予防のワクチンとか 治療薬の経口薬が出ていますが、それでも一向に治まりません。欧米ではマスクはしないワクチンも打たない
強制したら訴えてやる! 一方アジアでは マスク、手洗い、うがい、隔離 と非常に厳しい処置が続いています。
結果 欧米の感染者数はアジアとは比較にならないくらいの数字になっています。幸いコレラみたいな致死率が高くないのが幸いをしています。
他方 日本を見てみますと 都市封鎖については憲法があるから‥‥と否定的でした。ですから日本全国に蔓延してしまいましたが
欧米ほど非道(ひど)くなくてよかったですね。 しかし 考えるに日本は中途半端ではないでしょうか。
というのは マスク着用や体温の検温はほとんどが義務(協力)として行うようになっています。三蜜も未だにあります。ですが都市の封鎖はできません。
だから感染者率も欧米に比べて低いですが中国と比較すると雲泥の差があります。
追伸としまして 父はひと月あまりの隔離のあと何とか無事に帰国することが叶いました。アミーバ赤痢の後遺症もなくもとの生活に戻りました。その後87歳の天寿を全うしましたが、戦地での記録として空いたところ(九江での入院生活やその後の漢口や上海での隔離も含めて)を埋めようとしましたがどうしても思い出せなかった‥‥又、書き綴ったノートは入院生活中に紛失したそうです。
身体ひとつで‥‥と言う言葉がありますが戦地からの引き揚げは正に身体ひとつで帰国したのでした。