寝転がって気ままに想う事

 世の中ってこんなもんです・・
面白可笑しくお喋りをしましょうか ^^

御簾(みす)を上げました^^

2022年04月08日 08時24分52秒 | 笑い

  おはようございます。

春爛漫春の日和(ひより)が続いています。

今年のように桜が咲いて 日和続きですと散るのも早そうで、

花見の段取りをつけるのでしたら、どうかお早めになさって下さい。

さて、この時期は日中に睡魔に襲われる  という経験のある方‥‥

ほとんどじゃぁないでしょうか。

真冬、真夏ですと気温が、強烈すぎて眠気を誘うことなどありえません。

秋は‥‥どうかと思いますが、肌寒いことがありますし、プラタナスの散る音に

振り返る♪〜  寝てる場合じゃぁありません、じゃぁ一句 俳句でも、または

五言絶句の詩でも創ろうかとなってしまいます。

・・・ということで 今日は漢詩を味わってもらいましょう。

(ちょっと強引になって仕舞いましたね^^)

        春 眠 不 覚 暁 

        処 処 聞 啼 鳥   

        夜 来 風 雨  聲

        花 落 知 多 少

と昔の教科書に載っていましたが、ご記憶にあるでしょうか😚

中に レ点や読む順番を示す数字が入りますが、本来はこれ(なんもないのです)ですね。

しかし 単一の漢字だけでどこまで理解が出来るのか?

私は未だに理解できません。

解説は皆さん覚えていらっしゃると思うので省略をさせて頂きます。

ただこの一行目は 春眠暁を覚えず でしたが ややこしい文法は別にしまして

暁(あかつき)これと以前紹介をしました 春はあけぼの ようよう白くなりゆく山際すこし明かりて‥

清少納言の枕草子 の春の一節。あけぼの というのも あかつきとよく似た朝が早い早朝の意味のようですね。

私なら 春は早朝がいいですよ、とするでしょうが 趣考のある人は違います。早朝を暁(あけぼの)とする所に

教養がみえますね。だからみんなが挙(こぞ)って読むのでしょうね。

ところで孟浩然(もうこうねん、これを創ったひとです)は8世紀の人ですから11世紀の清少納言とは時代が違います。

 私が推察をするに孟浩然は早朝について 暁にするか、曙(あけぼの)にするか 考えたんじゃぁないかな^^

そして どう決めたか‥下駄でも放り投げて ヨシ、表が出たから暁にしよう、としたのかも知れません(笑)

他方 清少納言は 孟浩然の春眠暁を覚えずを知っていたのではないかと思うのです。

それはなぜかと言いますと、 冬の時期、雪が降り積もった宮中で清少納言は一条天皇から「香炉峰の雪いかならん」と問われて、

御簾(みす)を高く上げて「はい、この通りでございます」と示してみなを驚かせたという話があります。

恐らく清少納言は中国の漢詩などを読みまくっていたのでしょう。

そして自身の枕草子を書く 礎としたのではないでしょうか。

  因みに

香 炉 峰 下 新 卜 山 居 草 堂 初 成 偶 題 東 壁

日 高 睡 足 猶 慵 起
小 閣 重 衾 不 怕 寒
遺 愛 寺 鐘 欹 枕 聴
香 炉 峰 雪 撥 簾 看
匡 廬 便 是 逃 名 地
司 馬 仍 為 送 老 官
心 泰 身 寧 是 帰 処
故 郷 何 独 在 長 安

これが一条天皇が問い掛けた元の漢詩の原文です^^

白居易という9世紀の人が創りました。

確かに4行目に 香炉峰の雪は簾を撥ねて看る‥とありますね^^

平安時代にはこのように宮中仕える人は 教養の一部として漢詩を学んでいたようです。

私にはとても真似のできるものではありませんが ちょっと面白いところだけ紹介しました。

 

 

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クイズの回答・・

2022年04月07日 07時20分44秒 | 笑い

  おはようございます〜

最初にお詫びを申し上げます。

4月5日の「テレビの味方・・観かた」の最後に出しました

クイズの回答を 昨日 答え合わせをするのを すっかり 忘れていました。

戻って 問題ですが   

エッチになればなるほど硬くなる 黒い棒はなんですか?  でした。

出題が 下品極まりない‥‥とお叱りを頂きそうなのですが、

紳士淑女の皆様からは、気にせんでエエよ、と寛大な

お計らいを賜り誠に感謝感謝であります。

ですがそうは言いながらも一応は 回答を公開をせねばなりません。

それでは回答をいきます!

ハイ、知ってる人は知ってる知らない人は知らない‥という

馬鹿馬鹿しさがいいところで実は他から仕入れたネタでした。

‥おいおい何回セレモニーをやってるんじゃぁ、サッサと答えを言わんかい!   

‥  ハハ〜ァ (平伏)しながら  ハイ、お答えは・・

‥ちょっとマッタケ! 答えに お はいらんぞ。

‥はぁ‥‥左様でございます、ですが、あなた様の 威厳に圧(お)されて

つい遜り過ぎたようです。

‥おいおい、いまお前さんが喋った 漢字は どう読むのよ、

‥へっ、威厳(いげん)でござりますか?それとも その後の遜り

(へりくだ)り でおますか?‥‥

‥う〜む‥‥あとのやつは へりくだり と読むのか‥‥(汗)

‥いやぁ〜普通に打ったら この字が出てきただけですよ。

‥そうか‥へりくだり  ってなかなか思い浮かばんけどなぁ

‥いえいえ 偶々浮かんだだけで怪我の功名というヤツです(笑)

‥ん?また分からん漢字が出てきたぞ!

‥え、ああ、‥これもやっぱり 偶々出てきただけです。

‥ナヌ、そしたら ぐうぐう とでも読むんかい?

‥ハハッ ♪お戯れを   別にお腹が空いたわけじゃぁありませんから(笑)

‥それじゃ どう読むんじゃね、

‥ハイハイ、偶然の偶を重ねたら たまたまと読むらいしいです(笑)

‥ほう〜‥これで わしもちょっと賢くなったかも知れんな。

‥又々、ご謙遜を‥(汗汗)

‥ここのブログは為にはならんが面白いから愛読してるゾ(笑)

‥ありがとうございます。そう言えばクイズ 分かりましたか(笑顔)

‥ああ、あの評判の悪かった問題やな。

‥そんなに悪評でしたか。

‥そやなぁ‥このブログらしく 卑猥な感じがするしなぁ‥

‥でしょうね‥でもそれが出題者の狙いですから

‥そうなのか?

‥ハイ、答えは 鉛筆でした。

‥   鉛筆?  

‥ハイ、鉛筆って芯が硬いほどHが大きくなるでしょう(笑)

‥ほ〜     なるヘソ 鉛筆の硬さで来たのか、忘れていたけど思い出したよ。

‥ハイ、ちょっと考えオチですが、問題にした人エラい人ですねぇ(笑)

‥そんな事を感心していないで お前さんも次からは忘れるなよ!!

‥あ、ハイ、もう忘れません。

‥よろしい、 さて皆さん もう忘れない と誓いましたので

どうか許してやって下さいな。

‥ハイ、これに懲りず ブログを 見に来て下さいね(満面の笑み)

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定年延びる・・

2022年04月06日 07時11分22秒 | 笑い

    おはようございます〜

春爛漫の日が続きます。このまま夏に向かっている‥‥という予報も

ありますが、三寒四温 三寒四温と私は老婆心ながらこの四文字熟語を

念仏の如く唱え寒さがぶり返した時用の対策を練りながら 日々を

過ごしております(失笑)

さて 老婆心 と使いましたが、この単語は最近聞かなくなりつつある

ように思います。

先ず、老婆心というと 如何にもお婆ちゃん過ぎて 熟女の皆さんには

ご抵抗があるのじゃぁないですか。

ですが、老婆心 という言葉を、検索しますと 大方の予想から外れた

解説が出て来ました。

意味は お節介(せっかい)      心配が募(つの)る  忠告をする  などです。

そして私が気にしていたのは 男でも 使用可能か? でしたが、

これは めでたくお爺ちゃんでも 良いそうです。

老婆心とは  長い年月に色々な経験を、積んでその体験や知識から

つい大丈夫?と気になることを 口にしてしまう。これを老婆心と

呼ぶそうです。

まぁ逆に捉(とら)えると 有識者会議の参加者とも取れそうですが昭和から

こっちは1年ひと昔と言うように 世の中の流れが凄く速くなってき

ています。  ですから熟年者の経験が参考にならない事が多いのですね。

特にコンピュータ系やAIはお手上げ状態で、そのお陰で邪険にされて

しまい もう出る幕もない状態になっています。

その出る幕がないとなると定年後の雇用延長が余計に辛くなるようで

PCの操作は疎(うと)くなるわ、新しい情報は聞こえてこないでは   もう

一日何をしたら良いんでしょうか?  と悩みを聞いてくれ と

同年代のおっちゃんが泣いていました。

そのおっちゃん 曰(いわ)く 定年が65歳になるのは再来年。

ワシは今63歳で再来年はちょうど再雇用の契約期間の終了やから定年に

ならないんや‥‥とボヤくのです。

再来年に65歳の定年に延びるのなら 何とかならないの?

と訊くのですが、会社は冷たいもんや、そんな上告をいちいち聞いて

いたんでは、他に示しが付きませんから‥‥というのも最もなことですね。

それで 今はどんな仕事をしてるの?と聞くと ため息混じりに

大したことしてないと力なく首を振ります。

勤務時間だって60歳の再雇用時は週5日勤務だったのが、翌年は4日、

去年は3日で毎年勤務が減らされて早く辞めろ‥と言わんばかりです。

勤務時間が減らされたら給料もそれに比例して少なくなってしまいますが

仕事もなくブラブラ過ごすのってモチベーションを保つのが大変 らしいです。

今は定年延長の調整中らしくて それが出来上がる前に退社になるなんて

ワリが合わん、これなら60歳手前で退職勧告制度を受けて 割り増し

の退職金を貰って 心機一転 新しい職場を探してたほうが良かった。

とまぁ、そんな話は 後の祭りでしたね。

 

この定年延長については長寿になった為、公的年金の財源が枯渇しかけてきてる‥

などの理由がありますがいずれにしても 国策によって定年が延長されています。

確か60歳定年が段階的に上がっていて、今の話のようにもう数年も

したら立派に65歳定年になってしまうでしょう。

私の父は昭和の時代に定年を迎えましたが当時は55歳が定年でした。

これでは昭和の時代でもさすがに 隠居するには早すぎて毎日毎日暇で 仕方なかった

でしょうね。

その当時、私は25歳くらいで父の定年について 全く記憶にございません。

ただ、どこかでごはんを食べに行ったのを 微(かす)かに覚えているくらい

で口の卑(いや)しさだけは相変わらずです。

そんなわけで昔のことを全然覚えていない私ですから、経験や知識の

積み重ねなるものは 微々たるものでしょうから、自ら が老婆心ながら…などとは

笑止千万  誠に烏滸(おこ)がましい話ですよね。

 

 

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テレビの味方・・観かた

2022年04月05日 06時08分31秒 | 笑い

  おはようございます〜

4月の5日 火曜日です。

昨日は午前中が曇り のち晴れの予報でした。

ですが 、それを見ながら着替えているのに外はすでに雲が消えた

ようで 晴れ。

予報士は大阪からの放送ですから私の住まいと百キロほど離れている

からわからないようなので  「こっちは もう晴れてますけど」とテレビ

に声を掛けてみました。

ですが予報士は 素知らぬ顔‥‥聴こえてないのかなぁ‥‥と思い もう一度 

「 お〜い、こっちは、もう晴れてますよ〜」とテレビの音量を上げて

みましたが聞く耳持たずなのか平然としています。

 しかし 最近の子は 大人の意見を聞かなくて困ったモノです。

 昔に言われた名言に「 親の小言に百の偽りもなし」があります。

又 「老人の怠慢を笑うなかれ、いずれお前もなる姿」‥‥

どちらも年配者の意見をよく聴き、いたわり の心とねぎらいの気持ちを

持つことで皆が幸せになれる‥という有り難いお言葉なのですね。

  ですが  この予報士は 遥(はる)か 二十三里(一里とは約4キロ)離れた、

寓居(ぐうきょ)からの諫言(かんげん)なんて蚊が刺したほどもないの

でしょう。

おまけに予報士などと名乗る小娘は 馬耳東風、馬の耳に念仏、

蛙の面にション‥‥失言、水です(笑)ホント呆れてしまいます。

さて、 この先のお天気‥などと素面で「 昼前には晴れてくるでしょう」

とワシの忠告を無視して自説を宣(のたま)うのです。

  おいおい、アンタなぁ そんな事は さっきから ワシが言うてるやないか!

アンタは予報をするんやなくて、ワシの現地からの天気を聞いて そこに

少しだけ彩(あや)を付けて さぞ、自分の予言の如(ごと)く言ったら

エエじゃぁないの。

   おっ、今度は細い枝か? 何か指揮棒みたいなモノを取り出したな。

はは〜ん、そのおかしな 棒で 画面いっぱいに書かれている日本図を突いて

ごまかそうとしてるな。

しかし そんな事をしてなんになる、ええ歳の女子(おなご)が、

黒い棒を持って ニヤついてるなんて、父兄共々(ともども)ふしだらな事や

、嘆かわしいだけの世の中を精一杯生きているんじゃな‥‥

はぁ‥‥(ため息) 長生きなんかするもんじゃぁなかった。

こんな若い小娘が人生経験が豊かな誇り高き爺(じい)さんを

おちょくっとる(怒)

‥‥むむむ、何やて   ここで クイズやて?誤魔化すなぁ(怒)

(予報士) いえ、我々は決しておちょくってるわけじゃぁありません。 

私たちはゴジラの攻撃を受けて命からがら南海の孤島から逃げて来たのです。

  う~ 益々 ワシをバカにしてくさる、お前は ザ、ピーナツか(笑)

そんな絵空事のまやかしに騙されてなるものか、(ゴホンゴホン)

  ちよっと息が切れてますなぁ‥それじゃぁここで一息をつきましょうか^^

ん〜そんな途中下車みたいな決闘はないだろう

でも こちらの抗議を軽くいなすところは手練(てだれ)な悪女やなぁ‥‥

・・しばらくして・・

なになに クイズを始めますよ‥‥だって  おいおい、ちょっと待ってケロ。

 ナヌ、もう始まってます、だと。

まぁ、エエわ、どうせお前らの魂胆は見えてるぞ!

横文字の問題を出して 答えられなかったら  嘲笑う(わら)積もりやろ !

 そやけど こっちかて むざむざと負けへんぞ。

さぁ ワシは逃げも隠れもせん、どっからでもかかってこんかい!

 (予報士) ハイ、わかりました、お爺ちゃん それじゃぁ思いっきり

ぶつかりますから、 それでは、第一問ですよ~(笑)

 「エッチになればなるほど硬くなる 黒〜い棒は なに ?」

ん、それは何じゃい!のっけから大人を舐めくさって‥こんなくだらん

問題を公共電波を使って日本国中の家庭に流すのって  お前ら

 あほかいな・・・  

呆れ果てていたワシのところにちょうどネコがやって来て 私の顔を

見るなり「おじいちゃん死んでる~」と大声で叫びました。

ちゃうちゃう、お爺ちゃんは寝てはるんよ、そっとしときなさい(苦笑)

ワシはあまりの下らなさにあきれ果てて失神してしまったようです。

さて・・さて・・さて・・ ワシの容態は置いといて

ちょっと前の問題の答えはどうじゃろかい^^

  出来た人から帰ってヨシ! 

 

(注)  テレビに向かって返事をしたり小言を言うのは出来るだけ

避けて下さい。

このお話はフィクションです。登場者は全て架空の人物です。

当たり前か(笑)

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ロックダウン・・

2022年04月04日 06時59分46秒 | 笑い

  おはようございます^^

最近話題のニュースは ロシアのウクライナへの侵攻です。次は コロナ感染、物価の上昇などがあります。

海外では サッカーワールドカップの組み合わせが決まった事。それと 中国の上海のロックダウンがあります。

ワールドカップはいずれ俎板(まないた)に乗せようと思っていますが今日はロックダウンについてお話をさせて頂きます。

 コロナについては三年前の武漢の食料市場から始まったようですが、 最初は 地元の風土病ということで

大したニュースにもならなかったようです。それから 感染のスピードが速くて あっという間に武漢一円に拡がりました。

中国の政府は臨時の病院を建てたり医療従事者を全国から集結させ治療にあたりながら武漢市域一円をロックダウンにしました。

そのあとについては報道されている通りコロナは治まり終息宣言は出たのかどうか知りませんが北京でのオリンピックも無事

に終わったところを見ますと 都市封鎖は成功をしました。今回は封じ込めた手法 都市封鎖・ロックダウンについてヨーロッパの一部都市で

行われましたがあまり効果がなかったようですが中国の都市封鎖はかなり効果を上げました。今回の上海の都市封鎖についても

必ず効果が表れると私は思っています。

 それについて私の父の戦争体験(都市封鎖)を皆様にお話をさせて頂きます。

私の父は大正13年の生まれです。この年代の人は終戦間際に召集されていらっしゃる方が多くて 父も昭和19年12月10日に

召集されて九州博多→釜山→北京→南京→九江→漢口(武漢)。。 陸軍第七十五大隊 第二中隊(九江)に到着したのが翌20年1月10日。

ちょうどひと月かかって 着いたようで、博多から釜山まで船。釜山からはたぶん汽車でしょうが戦火で線路などが目茶目茶だったので

乗り継ぎを含めて南京まで二十日ほど掛ったでしょうか。そのあとは揚子江を北上するわけですが、当時の父の記録では

「当時点と線のみ占拠している状態で揚子江の遡江も朝夕しか利用することが出来ず・・」

とあります。要は占領していたのは部分部分だけで一歩外れたら もう簡単に出歩ける環境でなくて、昼間の船便は危なくて使えなかったようですね。

しかも揚子江を上ってゆくのですから 遅々として進まなかったのでしょう。

 父は武漢より手前の九江(現存しています)というところで高射砲の部隊に配属されたのですが、この周辺は日本軍が占領をしていて 

戦争をするよりも 食糧調達‥小川をせき止めて 魚の搔い取りをしたり野菜を栽培したりして日をつぶしていたそうです。

そのあと半年ほどして八月‥‥終戦のころに地元の風土病のアミーバ赤痢に罹りました。これはホントに怖い感染病で 当時の

父の記録には 周りの人が次々に亡くなっていったのを熱にうなされながら眺めていた… 高熱で見る気力も無かって次は ワシか‥

と観念していたようでした。アミーバー赤痢は熱が上がり下痢と腹痛の繰り返しでみるみるやせ細っていきます。

父も60キロ近くあった体重が35キロまで落ちたそうで死の一歩手前までいきました。

 それでも何とか持ちこたえていましたが 、ある日 父の出身地に近いところから来ていた看護婦さんから 

ここでは薬が無いからアカン、この先の漢口にある陸軍病院に行けば薬がある筈だから治るかもしれません、私から頼んで上げましょう。

と言われて父はその後漢口の陸軍病院に移され、そこでの治療が効いて九死に一生を得たのです。

それでも昭和20年8月から翌21年4月ごろまではほとんど記録がなかったのは生死を彷徨(さまよ)っていたからでしょう。

その後 4月の記録ではようやく元の身体に戻りつつある(45キロくらい)‥と記していました。まぁ若かった(23歳)ので回復も

早かったのかも知れませんが、(この状態で回復の兆しがあったとは余程ひどかったのですね)

 ようやく帰国が認められて5月始めに漢口の港(揚子江はこの中流地帯でも川幅が数キロありました)

この漢口市(商業の中心)とは当時の日本陸軍の本部があったところで(陸軍の大きな病院もありました)揚子江を挟んで

武昌市(政治の中心)、漢陽市(工業の中心)の3つの市が合併して出来たのが 武漢市でした。

ですから今でも 武漢三鎮と呼ぶのは この三つの市を指すのです。その漢口の港から揚子江を下る事300キロを五日間、

その時の記録です。

「漢口港を昼頃に乗船、二艘の船を大きな横木でくくりつけたお粗末なポンポン蒸気船がロープで引っ張って揚子江を下り始めた

頃は夕暮れになっていたようでした。途中何回も島陰に停泊。南京まで五日程かかったのではないでしょうか」

 急な流れがあるのと岩礁など障害物があるので視界の利かない夜は動けなかったのでしょうか。

そのあと南京から貨物列車に乗って上海の呉松港に着きました。

ここから記録です。

「‥‥上海の呉松港にたどり着きましたが、引き揚げ隊員の中から疑似コレラの患者が出て全員帽子に白帯を巻きバリケードに

とり囲まれて隔離されること一か月有余。毎日毎日聴こえてくる汽笛にやるせない望郷の思いに駆り立てられたがようやく許可

がおりて米軍の大型の上陸用フェリーで‥‥博多に到着」

漢口からようやく上海までたどり着いて あとは日本向けの船に乗ったら帰れる、 もうあとちょっとや、望郷に駆られていたら

疑似コレラの患者が出た、有無を言わせずさっそく、隔離、それも一か月以上。

 文筆者でもなかったし体力もまだまだ戻っていなかった父の日記ですから、望郷の無念さやひと月あまりの間の事がまるでありません。

察するところ いつまでここに居るのか…と絶望感に打ちひしがれていたのでしょう‥‥

 感染病について 中国は過去に何度となく絶滅に瀕(ひん)するくらいな目に遭ってきたのでしょう‥‥

だから昔からの経験則で一人でも感染者が出たらそれ以上拡がらないように 感染者を他の人達から離すことで感染病を蔓延をしないよう

にしていたのですね。

 今でも予防のワクチンとか 治療薬の経口薬が出ていますが、それでも一向に治まりません。欧米ではマスクはしないワクチンも打たない

強制したら訴えてやる! 一方アジアでは マスク、手洗い、うがい、隔離 と非常に厳しい処置が続いています。

結果 欧米の感染者数はアジアとは比較にならないくらいの数字になっています。幸いコレラみたいな致死率が高くないのが幸いをしています。   

他方 日本を見てみますと 都市封鎖については憲法があるから‥‥と否定的でした。ですから日本全国に蔓延してしまいましたが

欧米ほど非道(ひど)くなくてよかったですね。 しかし 考えるに日本は中途半端ではないでしょうか。

というのは マスク着用や体温の検温はほとんどが義務(協力)として行うようになっています。三蜜も未だにあります。ですが都市の封鎖はできません。

だから感染者率も欧米に比べて低いですが中国と比較すると雲泥の差があります。

 追伸としまして  父はひと月あまりの隔離のあと何とか無事に帰国することが叶いました。アミーバ赤痢の後遺症もなくもとの生活に戻りました。その後87歳の天寿を全うしましたが、戦地での記録として空いたところ(九江での入院生活やその後の漢口や上海での隔離も含めて)を埋めようとしましたがどうしても思い出せなかった‥‥又、書き綴ったノートは入院生活中に紛失したそうです。

身体ひとつで‥‥と言う言葉がありますが戦地からの引き揚げは正に身体ひとつで帰国したのでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

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