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社会人になってからの勉強 (その5)

2020-08-15 10:18:35 | 勉強
 今年の6月27日以来、「私がどんなにして勉強して来たか?」、長々と書きました。今回が最終稿です。

【有機農業用の機械を開発した経緯】
 私が有機農業に取り組んだ経緯は、2019年8月17日のブログ『紙の話し (その2-1)』に書きました。少し補足説明をしておきます。

 水を使わないで古紙を解(ほぐ)して綿状にする『エコパルパー』と言う機械を開発していた時、大きくて丈夫な布製の袋が必要になり、業者を探していました。 「袋を作らせて欲しい」と言って、少し胡散臭い老人(HK氏)と、私と同年の女性(KY女史)が来社されました。 二、三日して、私が勤務していたK社の秘書室から「KY女史に是非とも仕事を出して、面倒を見て欲しい!」と電話が有りました。

 調べて見ると、「KY女史は、昔・神戸の花隈に有った高級料亭の娘さんでした。その料亭は、K社の最大派閥の重役達が密談する場所だった」のです。 (料亭での密談の内容は、『島田文六著・”失権”・幻冬舎』に生々しく書かれています。) 私はHK氏の工場(?)に行ってみました。KY女史が一人で袋を縫ったりして、働いていました。HK氏は、KY女史が親から貰った遺産を少しずつ出させて、何とかやっている様な状態でした。HK氏は”嘘”と”真実”の模様を巧妙に散りばめた”大風呂敷を広げる”タイプの人間で、私の一番嫌いな人種でした。 私から見ると、「女性から金を貢がせる紐(ひも)」の様に見えました。

 ある日、HK氏とKY女史が来社されて、「大手製鉄会社(K社)が開発している機械を見て、アドバイスして欲しい」と私に懇願しました。 これが、雑草を堆肥化する『植繊機』の開発を始めた切っ掛けです。植繊機に付いては、2019年8月24日のブログ『紙の話し (その2-2)』を参照願います。

 HK氏は誤解していましたが、上司の部長と私にとっては「HK氏は”どうでも良い存在”で、KY女史を助けたかった」のです。 HK氏は、殆ど利益の出そうにない仕事を細々とやっていたので、商売が成り立つ様にして、KY女史の持ち出しをなくして遣りたかったのです。 部長の許可を得て、私は植繊機の開発を始めました。

 植繊機の開発は4カ月程で完了しました。KY女史にBK社を設立してもらい、私が3台程のロッドで植繊機を製作し、BK社で販売した事にして、マージンが取れる様にしました。

【有機農業の勉強】
 植繊機を、(株)クボタが全国で開催する農機具の展示即売会に出展させてもらいました。HK氏は植繊機を売るよりも、『HK有機農法』を売り込むのに熱心でした。 私は半農の様な家で育ったので、HK有機農法に”嘘”が散りばめられている事が分かりました。

 私は、「K社と一緒に事業をやっているのだから、非科学的な農法を話さないように!」と、HK氏にお願いしました。 『HK有機農法』の”嘘”を見抜くために、私は200冊ほど農業関係の本を買って、勉強しました。島根大学の教授が趣味で有機農業に取り組まれていたので、二回教えてもらいに行きました。

 HK氏が、「有機農業を始めたのは、A.G.ハワードの『農業聖典』に感銘を受けたからだ!」と言われるので、苦労して養賢堂が戦後直ぐに出版した『農業聖典』を入手しました。 (養賢堂版の入手は難しいですが、日本経済評論社や日本有機農業研究会が出版した翻訳本は、現在でも入手出来ます。)

 HK氏経由で田圃の一部を借り、HK氏の指導で(減農薬)有機農業をやってみました。田圃の所有者が畝違い(隣の畝)で同じ作物を化学肥料を使って育てたので、比較実験が出来ました。 HK氏が、「肥料過多が一番悪い!」、「土が濁らない様に水を撒け!・・・と細かく指導してくれました。 隣の畝に病気が発生しても、私達の作物は大丈夫でした。 数種類の作物を育てて見ましたが、スイカは甘く、大根とホウレン草は姿形(すがたかたち)が違いました。大根は水分が少なく、私の子供の頃の大根の様でした。

(余談) 植繊機を持って長野県、熊本県など数県の農家にPRに行った時、農家の奥さん達に「有機農業をやっているか?」と聞いてみました。 皆さん異口同音に「孫達に送る野菜は有機農業で、販売するのは化学肥料で育てている」と言いました。

【武者修行に出る事にしました!】
 1995年に阪神・淡路大震災が発生し、K社は大きな被害を受けて、研究・開発費を大幅に削減する事になりました。 私達の開発も中止する事になり、私は「子会社に出向する様に」と言われました。 子会社の数社が、「私を遣せ」と取り合いをしてくれたのです。 人事部が困って、「私に出向先を決めろ!」と言ってきました。私は、「全ての子会社の社長を、よく存じ上げているので、決める分けにはいかない。当社と無関係な会社に出向したい!」と答えました。

 私は機械技術者として自信が有りましたが、「自惚れかも知れない?」とも思いました。 それで、宮本武蔵の様に武者修行に出る事にしたのです。

 子会社3社は、破格の条件を提示してくれていました。その会社に出向して、期待に沿える仕事が出来たら給料も地位も少し上がる可能性が有ったのですが、「経験の無い分野で、技術を磨く」ことの方が私にとって魅力的でした。 K社と無関係の会社に出向すると、定年まで給料をK社が出してくれますが、昇給も昇格も無いのです。

(余談) 結局、K社の身勝手な都合で、私は数社に出向しました。社長が認めてくれて重役待遇にしてくれた会社も有りました。グリーン車を使って良い。「月30万円の限度内で個人的な買い物をして良い」と言ってクレジットカードを渡されたりしました。 結局、クレジットカードは使いませんでしたが、席を取るのが難しい時は、グリーン車に乗りました。「自惚れでは無い!」事が証明出来て、素晴らしい人生が送れました。

【製紙機械】
 1996年に最初に出向した会社(N社)は製紙機械の設計/製造をする小さな会社でした。自転車で10分程の所に大きな製紙工場(SA工場)が有ったので、毎週の様に工場を見学させて貰いました。SA工場には規模が異なる3ラインがあり、分工場に原始的な小規模のラインが有ったので、製紙博物館で勉強するに等しかったのです。 前述の様にFFT(高速フーリエ変換器)を買って貰って、この工場で振動が問題になっている装置の設備診断をし、幾つか提案して好評を得ました。その後、沢山の工場で設備診断をして、本業の仕事を頂きました。

 当時・各製紙工場が、生産量アップ、省力化、品質向上などに積極的に取り組んでいました。製紙工場ではシーケンサー制御やタッチパネルが殆ど採用されていませんでした。 N社は社運を賭けて、技術革新に取り組もうとしている所でした。私は先ず、SA工場の一番大きなラインのワインダーと言う機械の大改造案を作成して、担当者達を説得する役をしました。

 製紙は24時間操業で、問題のワインダーは4人×4直=16人で運転していました。私達の提案は「自動化して2人×4直=8人にし、運転速度を50%程アップ→生産量をアップ、更に品質を向上させる」と言う素晴らしいものでした。SA工場では作業員を一名減らすと年間経費が1,000万円の削減になりました。私が製造コストを積算すると6,000万円程になりました。顧客には「2年間の経費削減分で買って欲しい!」と交渉していました。「本当に君の言う性能が出るのなら、16,000万円で良い」と言って頂いていたのですが、N社の社長が8,000万円で良いと強く言うので、その金額になりました。

 私達の提案は”良いとこ尽くめ”ですから、”眉唾物”と思われがちです。性能が出ても”いちゃもんが付く”と予想したので、ビデオカメラを買って貰って、改造前の運転状況を撮影して置くことにしました。(大阪の)日本橋の電気店に行くと、SONYが新発売のビデオカメラのキャンペーンをしていました。薄暗い所でも鮮明な画像が得られる優れ物でした。かなり高価でしたが買って帰ると、社長以下・全社員に怒られました。二、三日するとSONYの社員が来社して、「不具合が有るから、ビデオカメラを返して欲しい、代品は一週間以内に持ってくる」と言うのです。次の日に社長が「ビデオカメラを貸してくれ」と言い出しました。「赤外線の機能が優れているので、薄着の女性を撮影すると素晴らしい映像が撮れたのに!」と残念がっていました。 (日頃・超真面目な社長が、結構・助兵衛だと分かって”ほっと”しました!)

 改造工事が完了して運転すると、私達の提案以上の性能が出ましたが、予想通りに「速度アップにはなっていない」と言い出したので、改造前後の映像を見せて納得してもらいました。

 私は2回、N社に勤務して足掛け8年ほど製紙機械に携わりました。製紙工場は3Kの職場と言って良い様な環境で、改造/据付工事が皆さんがお休みの正月、ゴールデンウイーク、お盆休みに行われる等々、厳しい面も有りましたが、やりがいの有る仕事が沢山出来ました。

【電磁誘導加熱】
 電磁調理器(IH調理器)を使用している家庭が増えて来ています。金属には永久磁石が”くっつく”物(磁性金属)が有ります。磁性金属の内部には、小さな!小さな!永久磁石が点在しています。 一方、磁性金属の周りにコイルを巻いて、電流を流すと『電磁石』が出来ます。

 電力会社から供給される交流電力は、東日本は50Hzで、西日本は60Hzです。電磁石に流すと、磁石の極が1秒間に50回又は60回変化します。この電磁石の近くに磁性金属製の物を置いておくと、内部の小さな磁石が”あっち向いたり”、”こっち向いたり”しようとして、金属の内部で発熱します。これが、IH調理器の原理です。

 私は、大手重電(ME社)の協力会社(TS社)に出向して、電磁誘導加熱とヒートパイプの技術を用いた『ヒートパイプ式均熱ロール』に携わりました。TS社には設計担当者は一人もいなくて、ME社から入手した図面で、細々とヒートパイプ式均熱ロールを作っていました。ヒートパイプに関する参考書は明倫館書店から沢山購入出来ました。 電磁誘導加熱に関する資料は殆ど入手出来無かったので、シミュレーションプログラムを作成して、実機の運転データーを入れて見て、試行錯誤で修正→完成させました。

 大手フィルム・メーカー(FF社)から、TD社が製作した均熱ロールを修理する仕事を沢山頂きました。 FF社は同一の仕様でTD社に作らせた200本以上のロールを所有していました。一つの製造ラインに、そのロールを20本(?)ほど使用していた様です。FF社は全てのロールの温度分布を測定した記録を所有していました。 右端の温度が高いのをAタイプ、中央部が高いのをBタイプ、左端はCタイプとしていました。FF社では試行錯誤して、3種類のロールを有る配置にすると素晴らしいフィルムが出来る事を発見していたのです。

 FF社から、「BタイプのロールをAタイプに改造出来ないか研究して欲しい!」と依頼があり、典型的な3種類のロールを送って来ました。分解して、コイルも全て解いて調べました。コイルを不均一に巻いた状態の発熱分布を予想するプログラムを作りました。 (『均熱』が売りですから、邪道ですが)顧客が希望する『不均一温度分布のロール』が製作出来る様になりました。

 ヒートパイプ式均熱ロールの断面模式図は『 http://www.hidec-kyoto.jp/heat_roll/shr.html 』で検索すると見れます。(ハイデック株式会社のホームページ)

【その他、色々】
 K社には子会社以外の会社に出向した社員の面倒を見る係が有り、私の最初の担当者は入社以来の知人でした。 3年ほど経って、悪評の高い担当者に代わりました。 彼は、私が最初に出向した会社(N社)から、悪辣な手段で私を別の会社に出向させました。私は、その後・経験した事が無い分野の仕事を次々とする事になりました。

 彼は、吉岡一門や佐々木小次郎・・・剣客を次々と見付けてきてくれたのです。 図面や書類を全て英語で作成する輸出プラントの仕事では、「私がギブアップして早期退職する」と彼は期待したと思われます。『その手は桑名の焼き蛤』で、武者修行中の私にとっては『願っても無いこと』でした。

 話が長くなりすぎるので詳細は省略しますが、出向してから、食品、清涼飲料水、製薬、フィルム等の業界向けの仕事をして、熱交換器の設計もやりました。15年間ほどの武者修行でしたが、新しい知識が必要になったので、専門書や論文を沢山読みました。

 K社では開発に1年間ほどの時間を与えてくれましたが、中小企業での開発は『受注開発』が殆どで、6ヶ月とか3ヶ月以内の開発が要求されました。 特許が取れる内容の案件が多々有りましたが、明細書を書く時間が有りませんでした。

 リタイアを決断した時、「もう十分やった!」、「武者修行に出て良かった!」と”つくづく”思いました。 「技術屋として悔いの無い人生を送れた!」と今でも思っています。

《アドバイス :ストレス発散》 私は、K社で仕事をしていた時も、出向してからも職場を転々としました。 普通は職場を変わるとストレスが溜まるそうですから、私の様な生き方は推奨しません。 何回も移動を命じられる様な事になったら、仕事よりも趣味を楽しんだりして、ストレス発散を最優先にすべきだと思います。

 「今・大学生の諸君は、多分75歳くらいまで働かなければならない」と思いますが、逆に、「75歳まで働ける!」と考えて、就職した後も努力を続けてスキルアップを図って下さい。 入社した時の仕事が無くなるかも知れません。 その仕事の価値が下がってしまう可能性も有ります。 1970年にキャドオペレータだった方と2000年に同じ職場で働いた事が有ります。 彼は当時もキャドオペレータでした。 「若い時は、旅客機のパイロット並みの給料だったのに!」とぼやいていました。

《アドバイス :趣味と雑談》 『芸は身を助く』と言いますが、趣味が有ったら、他人が趣味に夢中になっているのが理解出来ます。そして、趣味の雑談が出来ます。 「私が、仕事一筋の人間だ」と誤解した人が多かったですが、私の趣味は絵画・陶磁器・クラシック音楽や渓流での毛ばり釣り、野球やラグビーの観戦、若い頃はスキーなど、結構多彩です。

 前稿で少し触れました大手重電のHT社のFS氏と、満開の桜の話しをした事が有ったのですが、「朝一からの打合せに来て欲しい!前夜の宿泊はHT社の寮を取っておく」と電話が有りました。夕方、寮に着くとFS氏が来られて、「打ち合わせは嘘で、明日はHT社が所有する神社などの桜を楽しんで下さい」と言って帰られました。 夕食は超豪華で、どこの桜も満開でした。

 本格的な趣味を持っている方達とも親しくなれました。盆栽が趣味の明光商会の故・高木禮二氏、ヨーロッパのアルプス登山を趣味にしている方、海外でスキューバダイビングを楽しむ方・・・皆さんの話しを聞いていると、私も楽しくなりました。 趣味を持つ事と、気楽に雑談出来る様になる事は、人生にとって勉強と同じくらい大切です。

【学問のすゝめ】
 私は高校生や大学生諸君に福沢諭吉の『学問のすゝめ』を推奨します。原文は文語体ですが、口語体の本も入手出来ます。冒頭の一節が余りにも有名な為に、「人間は平等だ」と言う内容だと誤解している方が多いいですが、タイトルの通りに「諸君、勉強しましょう!」と教えている本です。

 私は、次の一節が重要だと考えます。
『人は生まれながらにして貴賤・貧富の別なし。
ただ学問を勤めて、物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人(げにん)となるなり。』

 1872年(明治5年)にこの本は出版されました。当時は社会が大きく変化して、有能な人材を要求する、ある意味では幸せな時代だったと思います。 福沢諭吉は「年功序列の時代が来る」とは予想していなかったでしょうね! その後、「勉強して役人になったり、大企業に入れたら、もう勉強なんか必要無い」と言う年功序列制度が、長く日本を駄目にして来ました。 学生時代に優秀だった多くの人達が勉強しなくても良い制度(年功序列制度)を続けていると、国家はジリ貧になってしまいます。

 現在は国際競争が激しくなって、自分を磨かない人間に高給を与える事が難しくなって来ています。今後は、会社や役所で活躍するためには、努力してスキルアップする必要が有ります。

【エピローグ】
 6月27日以来、8回に分けて私がどんなにして勉強して来たか書きました。『学問のすゝめ』を読み返してみて、平凡な私の様な人間でも、「若い時からコツコツとやったら、勉強を続けられる」と言う事を示したかったのです。

 私は結構勉強して、40機種ほどの機械の開発に携わり、全て成功しましたが、出世とは全く縁が無く、高給を頂く事も有りませんでした。 然し・これからは、福沢諭吉が考えていた「努力して自分を磨いた人が報われる社会になる」と私は信じています。


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