短歌は母が昔からやっていたので、それなりの馴染みがある。
馴染みが言い過ぎなら違和感がない。
母は小学校のころ明治天皇の短歌に感動し、それ以来自分でも作っているとか。
私はこれまでも何度か作ったことはある。
しかし、限られた語数で1つの短歌の中にあれもこれも歌い込むのは不可能だ。
3年くらい前だったか、日曜日の早朝に短歌の番組を見つけたことから
短歌の通信講座を1年ほど受けた。
短歌を始めて初めて気がついたのは
短歌は日本のものだから当然日本特有のきまりがあるということだ。
初めて間もなく気がついたことは
短歌のなかに能でいう間があることだ。
間、このえたいのしれない、把握しがたいもの。
訳しがたい言葉。
そこには自己主張は差し控え、”伝達”したいことは身一杯には言ってはいけない。
余裕というか、自分の伝達を受ける人のために残しておかなければいけない余韻。
苦手なんだよね、こういうの。
だいたいオペラにそろ、バレーにしろ、絵画にしろ、
身一杯表現することなく伝えることができるだろうか?
舞台のデコールの一部だけやって、後は聴衆に自分のイマジネーションで
補ってくださいとやるか?
それをやるのが能なのだ。
棒をたてて木のつもり。 何かおいて、なんかのつもり。
”つもり”の芸術とでも言えばいいのかしら?
そして短歌にもこの間があり私は悩みながら1年続けたが授業料を使い終わったところで
短歌を止めた。 ギブ アップです。
こういう私のはかない抵抗は理解してもらえないと思う。
理解してほしいと願っていない。
ただ同じ日本人でどうしてこういう”溝”ができたのかを考えるのだ。
子供のころ、他の子と物の見かたが違うことをすでに意識していた。
日本人なのに日本人の中に感じる違和感。
パリの着いたときに”ホーム”と感じた安心感。
どうしてだろう
馴染みが言い過ぎなら違和感がない。
母は小学校のころ明治天皇の短歌に感動し、それ以来自分でも作っているとか。
私はこれまでも何度か作ったことはある。
しかし、限られた語数で1つの短歌の中にあれもこれも歌い込むのは不可能だ。
3年くらい前だったか、日曜日の早朝に短歌の番組を見つけたことから
短歌の通信講座を1年ほど受けた。
短歌を始めて初めて気がついたのは
短歌は日本のものだから当然日本特有のきまりがあるということだ。
初めて間もなく気がついたことは
短歌のなかに能でいう間があることだ。
間、このえたいのしれない、把握しがたいもの。
訳しがたい言葉。
そこには自己主張は差し控え、”伝達”したいことは身一杯には言ってはいけない。
余裕というか、自分の伝達を受ける人のために残しておかなければいけない余韻。
苦手なんだよね、こういうの。
だいたいオペラにそろ、バレーにしろ、絵画にしろ、
身一杯表現することなく伝えることができるだろうか?
舞台のデコールの一部だけやって、後は聴衆に自分のイマジネーションで
補ってくださいとやるか?
それをやるのが能なのだ。
棒をたてて木のつもり。 何かおいて、なんかのつもり。
”つもり”の芸術とでも言えばいいのかしら?
そして短歌にもこの間があり私は悩みながら1年続けたが授業料を使い終わったところで
短歌を止めた。 ギブ アップです。
こういう私のはかない抵抗は理解してもらえないと思う。
理解してほしいと願っていない。
ただ同じ日本人でどうしてこういう”溝”ができたのかを考えるのだ。
子供のころ、他の子と物の見かたが違うことをすでに意識していた。
日本人なのに日本人の中に感じる違和感。
パリの着いたときに”ホーム”と感じた安心感。
どうしてだろう