以心伝心

書・旅・本などのメモ。

百人一首を書く18

2009年11月30日 | 
藤原敏行朝臣

住の江の岸による波よるさへや

夢の通ひ路人めよくらむ

波がよるという言葉に、夜と恋人がよりそう意味をかけており
愛する人は夢の中でさえ、人目を避けて現れてくれない。と歎いた歌だそうです。

藤原敏行は富士麿の子で母は紀名虎の娘であった。
業平の妻は彼女の姪であったから紀氏を通じて親交があったように思われる。

熱田神宮

2009年11月30日 | Weblog
新しくなったお社のようで檜の香りがしました。
七五三なのか人がいっぱいいました。
織田信長と熱田神宮の関係は深いらしく桶狭間の戦いの前に熱田神宮で祈願したという。
よくドラマで信長が能舞「敦盛」を舞う姿を思い出します。
♪人間五十年~~~。
楽市楽座などの経済政策も行った信長ですね。^^
もう少し、武田信玄(こちらもかなり好き。)が長生きしていたら歴史はどうなってたでしょ。






百人一首を書く17

2009年11月29日 | 
在原業平朝臣

ちはやぶる神代もきかず竜田川

からくれないゐに水くくるとは


古今の序には、業平の歌風を評して
「その心あまりて言葉足らず。いはばしぼめる花の色なくて、匂ひ残れるが如し」と述べられています。貴公子らしい風貌で光源氏のモデルともいわれている。

百人一首を書く16

2009年11月29日 | 
中納言行平

立ち別れいなばの山の峯におふる

まつとし聞かば今かへりこむ

「古今集」離別歌の最初にあげてあり、人と別れる時の挨拶の歌である。
行平は在原業平の兄で因幡守に任ぜられたとあり、任終わって帰国するとき
詠んだ歌と思われます。
「いなば」に去なばを、「松」に待つをかけている。

百人一首を書く14

2009年11月28日 | 
河原左大臣

陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに

乱れそめにし我ならなくに


河原左大臣は、源融(とおる)のことである。
嵯峨天皇の皇子に生まれ、六条河原の院に住み風流な生活を送ったので
「河原の大臣」と呼ばれた。
「しのぶもぢずり」については東北地方で、しのぶ草を布に摺った原始的な染め物のようです。
「しのぶの乱れ」「陸奥のしのぶ草」といったような詞は王朝の人々に愛された。

百人一首を書く13

2009年11月27日 | 
陽成院

つくばねの峯より落るみなの川

こひぞつもりて淵となりぬる

陽成天皇は清和天皇の皇子で母親は藤原高子である。
在位8年で退位を余儀なくされたという。
この歌は光孝天皇の皇女、釣殿の皇子に切ない恋心を訴えた歌のようです。

十六歳で退位され六十五年も生きて81歳で崩御された。
ぱっとしない人生だったかも知れない。純粋な人柄だったかもしれない。

百人一首を書く12

2009年11月27日 | 
僧正遍昭(へんじょう)

あまつ風雲のかよひ路ふきとぢよ

乙女の姿しばしとどめむ

僧正遍阿昭は、桓武天皇の孫で俗名は良岑宗貞といった。
仁明天皇の崩御に会い、世をはかなんで出家したというが呑気な人柄だったようです。
小野小町が石上神社に参詣してそのことを知りこのように詠んで贈ったそうです。

いはの上に旅ねをすればいと寒し
苔の衣をわれにかさなむ


世をそむく苔の衣はただひとへ
かさねばうとしいざふたり寝む

衣は一つしかないからいっそのこと二人で寝ようよ。機知にとんで面白いですね。

百人一首を書く11

2009年11月27日 | 
参議 笙(たかむら)

わたのはら八十島かけて漕ぎいでぬと

人にはつげよあまのつり舟

遣唐使の船に乗船しなかったため嵯峨天皇の勅勘をこうむり、隠岐の島に遠島になったときよんだ歌のようです。
時刻は夕暮れ。島影が遠ざかって行き、海人のいさり火が点々と海上に浮かぶ。
舟を漕ぐ櫓の音が静かに聞えてくる。