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こんなCDを買った!聴いた!

最近購入した、または聴いたCDについて語ります。クラシック中心です。

内田光子さんのシューベルトを聴きました。

2018年11月11日 22時48分02秒 | シューベルト
3月に西宮の芸文センターで、クリスティアン・ツメルマンのリサイタルあり、そのチケット発売が過日ありました。発売当日になってもプログラムが未定で、それはないだろう、と思っていました。会員先行発売だったので(私は会員ではない)、一般発売になったら申し込もう、演目も不明なんで、すぐすぐには割り切れにならないだろうと思っていました。すると、会員販売のみで完売。うーん、大した人気なんですねえ。参りました。加えて、後日発表になった演目は、オール・シューベルト。早速、会員登録しました。

ツメルマンは数年前にもオール・シューベルトのリサイタルがありましたが、行けませんでした。今回も残念なんですが、それはそれとして、11月4日に倉敷での内田光子さんのリサイタルに行ってきました。シューベルトのソナタを3曲。4番イ短調D.537、15番ハ長調D.840、21番変ロ長調D.960でした。当日は、お天気もよく秋の行楽シーズンで倉敷の美観地区は観光客でいっぱい。その近くの倉敷市民会館のPもいっぱい。車を駐めるところがなく、すこしあせりました。近くの倉敷市芸文館の地下Pが空いていて、駐めることができました。めでたしめでたし。

やはり、21番に期待が集まります。実際、立派な演奏でした。曲がおわったあと、心地よい満足感がありました。そして、そのあとこの曲を何度も聴きました。内田さんのこの曲、CDでも持っていますので、これまでも聴いたことはあります。基本的には、この日の演奏は、CDとそれほど異なるわけではありません。ただ、やはり実際のピアノは美しい。気持ちの入り方も録音とは違うしねえ。しかし、この演奏を聴いて、この曲の難しさを痛感しました。

この曲は、19,20番とともに、1828年の9月中に作曲されたもので、シューベルトの死(11月19日)の数週間前です。31才のシューベルトがこの時期に死を意識したか、それはよくわかりませんが、この曲にはその死の影を感じずにはおれないのが一般的な理解でしょう。そのことをこの曲の演奏にどう表現していくか、いやもしくはまったく意識せずに純音楽として理解するか…。としても、意識せざるを得ないことでしょうねえ。いやいや、私的にはあまり意識しないで欲しいと思うのですが…。

内田さんのCDの演奏でも、やはり絶望感とそを乗り越えようとする苦悩が入り混じるような、そしてほとんど明るさや希望を感じさせない、のであります。今回の演奏でもそれは同様で、一層峻厳になり、深い谷間のような表情が随所に聴かれました。まあ、平たく言うと楽しさや希望はまったく感じず、いい音楽だなあ、ともほとんど感じませんでした。私はこの曲については、絶望の中にも、希望が見いだせる、それがシューベルトらしい美しい音楽で表現されている、それが魅力だと思っていました。そんなことをしっかり聴かせてくれる演奏が好きだったのです。そして、今回の内田さんの演奏を聴いて、そんな考えは甘いことに気がつきました。甘いのです。死の直前のシューベルトには、そんな希望なんてない。微かな望みがあったとしても、それは即座に否定されてしまうのです。そして内田さんの演奏には、シューベルトの絶望が、このうえのない極上の美しさとして表されている、これまでのこの曲の演奏で聴かれた美しさとは異なる美が、切々と語られるのでありました。第1楽章でも、うーん辛いなあ。明るくなりかけるが…。そして第2楽章でも、希望がまったくでてこない。第3楽章で少し、でも、第4楽章では悩みが高まり、悶々とするが、やまり諦め、ってところでしょうかね。そんな曲を内田さん、実に見事に表現され、この曲の真価をしっかりと我々の目前に突きつけたのでありました。しかし、辛いですねえ。悲しいですね。でも…。

ツメルマンのこの21番の演奏をぜひ聴きたかったのですが、残念でした。それで大いに反省して、芸文の会員になりました。次回はぜひ、と思っています。

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