鉱物採集を初めて10年近く経ちました。
最初の方頃に調べたのは現在の和気・吉永地区で、個人的にいろいろと思い出があります。
現在も進行形ですが、今回今まで調べたことを幾つかに分けて書き記したいと思います。
明治~昭和初期までの間に吉永地区では相当数の試掘が成されたとされていますが、
この度吉永実際に掘ったとされている鉱山をほぼ見つけた形となりました(試掘・和気地区を除く)
吉永町史・和気史に記載されている事柄は除外としますが、内容の一部記載します。
鉱山は下記のようになりますが、基本的な対象はCuとなる。
一部名称不明です。
倉吉・脇谷・脇谷2・銅山1・銅山2・硫化鉱山・和意谷
郡倉・鉱盛・樫・和気・三国・鉛鉱山
角倉・門出・南谷
となります。
銅山1.2は名前は確認できなかった(お爺さん曰く名前なんてないんじゃ)
鉛鉱山についても名前は確認できなかった(お婆さん曰く通り道にあったから通り道って名前)
門出は地元の方々の情報をもとに何度も調査しましたが、
門出金山というのものは存在していないとの事でした(お爺さん複数名から金山は角倉と和意谷だけだという情報)
和気地区やろう石鉱山は全て除外しており、あくまでも吉永地区での鉱山の内容となります。
この中で最も大きい鉱山は樫です。
今回は樫を主に書きます。
樫と和気は同じ鉱脈を南北から採掘しており、樫は下部100~120m近くまで採掘していた。
5レベルあった(1レベル20m程)
閉山後もとんでもない大きさのタイコを用いたウィンチが設置されたままだった。
火力発電所のお風呂はみんなの拠り所で地元住民はみんなお世話になっていた。
当時24時間営業で発電していたので、夜勤は交代制だった。
昭和10年頃吉永付近でもタバコの葉を育てておりそれで生活していたが、後にタバコの葉では食べれなくなった。
地形的に田畑を作るのが難しく結果的に皆通いで三石・牛窓や瀬戸まで働きにでていた。
昭和始めでは未だ銅山1・2の残務処理をしていた。
昭和始め=樫閉山前には樫坑内の水処理をするために対策が練られていた。
樫坑内レベル5から脇谷の南側にある池まで約200m程水抜き坑を掘るということが検討されていた(和意谷池ではない)
樫の標高が凡そ260m程で、脇谷南にある池の付近は標高150m程。
これから換算するに史に記載通り100m近くを竪坑で採掘しウィンチで巻き上げていたと考えられる。
雨が降ると坑内の水ポンプの処理が追い付いていなかった。
雨が降ると砒素が大量に川に流れて大変なことになっていて辛かった。
雨が降ると田に繋がる堰を閉める作業が必要だった。
この事から察するに5レベルは南北に相当な広さで採掘していた。
樫経営時、和気は既に採掘していなかったが、樫のズリを搬出用に坑道を使っていた?
樫のウィンチは鉱石の搬出用で、ズリは和気に持ってった?
樫と和気は坑道で繋がっていて鉱石をウィンチで揚げて精錬していた?
奥には2~3個大きな窯がありそこで精錬し、山の南側の谷にカラミを捨て続けた結果、公害が発生する原因となった。
閉山後も窯の付近にはそこら中に砒素やらヤバイ薬やらが残されたままでとても危ない場所となっていた。
山中には樫・和気と同じ少量の脈がたくさんあり、穴ぼこだらけだった。
昭和15年頃の樫は既に閉山していたが、中が気になり地元住人が複数人で試しに入った。
1レベルでは脈幅10㎝程で、3レベルでは鉱脈の幅が40~60㎝程あり、黄銅鉱の色で品位の良さに驚いた。
4,5レベルについても降りていくことが出来たとの話で、下部はもっと脈幅が大きかったという話だった。
坑道についても長く大人数名でも迷子になるとの話だった。
坑道を降りるまでは狸掘りのような穴を降りていく形だったが、坑道は強固で大きく採掘されいた。
その後昭和40~50年代までに一度樫を調査した、鉱山のズリを再度調査して採掘の検討をなされたと聞いた。
1坑~3坑があり、1坑を調査した。
結果的に表層を調べたに過ぎず、良鉱は全て下部にあるので難しいという判断だった。
そもそも今更鉱山なんて・・という気持ちはあったが、一応調査には立ち会った。
その後下のから砒素を流すな、いい加減樫鉱山を何とかしろという話が出て色々と話し合いをして、役所がようやく公害対策をしたという。
昭和初め~公害対策をするまで沢や川には一切生物は存在していなかったという。
現在は小魚も泳いでいる状態。
以上が聞き込み調査した結果。
昭和初期樫では当時60人程度の子供が居たそうな。
樫閉山前は相当に賑わっていた。
この辺りは日笠も同じである。
最初の方頃に調べたのは現在の和気・吉永地区で、個人的にいろいろと思い出があります。
現在も進行形ですが、今回今まで調べたことを幾つかに分けて書き記したいと思います。
明治~昭和初期までの間に吉永地区では相当数の試掘が成されたとされていますが、
この度吉永実際に掘ったとされている鉱山をほぼ見つけた形となりました(試掘・和気地区を除く)
吉永町史・和気史に記載されている事柄は除外としますが、内容の一部記載します。
鉱山は下記のようになりますが、基本的な対象はCuとなる。
一部名称不明です。
倉吉・脇谷・脇谷2・銅山1・銅山2・硫化鉱山・和意谷
郡倉・鉱盛・樫・和気・三国・鉛鉱山
角倉・門出・南谷
となります。
銅山1.2は名前は確認できなかった(お爺さん曰く名前なんてないんじゃ)
鉛鉱山についても名前は確認できなかった(お婆さん曰く通り道にあったから通り道って名前)
門出は地元の方々の情報をもとに何度も調査しましたが、
門出金山というのものは存在していないとの事でした(お爺さん複数名から金山は角倉と和意谷だけだという情報)
和気地区やろう石鉱山は全て除外しており、あくまでも吉永地区での鉱山の内容となります。
この中で最も大きい鉱山は樫です。
今回は樫を主に書きます。
樫と和気は同じ鉱脈を南北から採掘しており、樫は下部100~120m近くまで採掘していた。
5レベルあった(1レベル20m程)
閉山後もとんでもない大きさのタイコを用いたウィンチが設置されたままだった。
火力発電所のお風呂はみんなの拠り所で地元住民はみんなお世話になっていた。
当時24時間営業で発電していたので、夜勤は交代制だった。
昭和10年頃吉永付近でもタバコの葉を育てておりそれで生活していたが、後にタバコの葉では食べれなくなった。
地形的に田畑を作るのが難しく結果的に皆通いで三石・牛窓や瀬戸まで働きにでていた。
昭和始めでは未だ銅山1・2の残務処理をしていた。
昭和始め=樫閉山前には樫坑内の水処理をするために対策が練られていた。
樫坑内レベル5から脇谷の南側にある池まで約200m程水抜き坑を掘るということが検討されていた(和意谷池ではない)
樫の標高が凡そ260m程で、脇谷南にある池の付近は標高150m程。
これから換算するに史に記載通り100m近くを竪坑で採掘しウィンチで巻き上げていたと考えられる。
雨が降ると坑内の水ポンプの処理が追い付いていなかった。
雨が降ると砒素が大量に川に流れて大変なことになっていて辛かった。
雨が降ると田に繋がる堰を閉める作業が必要だった。
この事から察するに5レベルは南北に相当な広さで採掘していた。
樫経営時、和気は既に採掘していなかったが、樫のズリを搬出用に坑道を使っていた?
樫のウィンチは鉱石の搬出用で、ズリは和気に持ってった?
樫と和気は坑道で繋がっていて鉱石をウィンチで揚げて精錬していた?
奥には2~3個大きな窯がありそこで精錬し、山の南側の谷にカラミを捨て続けた結果、公害が発生する原因となった。
閉山後も窯の付近にはそこら中に砒素やらヤバイ薬やらが残されたままでとても危ない場所となっていた。
山中には樫・和気と同じ少量の脈がたくさんあり、穴ぼこだらけだった。
昭和15年頃の樫は既に閉山していたが、中が気になり地元住人が複数人で試しに入った。
1レベルでは脈幅10㎝程で、3レベルでは鉱脈の幅が40~60㎝程あり、黄銅鉱の色で品位の良さに驚いた。
4,5レベルについても降りていくことが出来たとの話で、下部はもっと脈幅が大きかったという話だった。
坑道についても長く大人数名でも迷子になるとの話だった。
坑道を降りるまでは狸掘りのような穴を降りていく形だったが、坑道は強固で大きく採掘されいた。
その後昭和40~50年代までに一度樫を調査した、鉱山のズリを再度調査して採掘の検討をなされたと聞いた。
1坑~3坑があり、1坑を調査した。
結果的に表層を調べたに過ぎず、良鉱は全て下部にあるので難しいという判断だった。
そもそも今更鉱山なんて・・という気持ちはあったが、一応調査には立ち会った。
その後下のから砒素を流すな、いい加減樫鉱山を何とかしろという話が出て色々と話し合いをして、役所がようやく公害対策をしたという。
昭和初め~公害対策をするまで沢や川には一切生物は存在していなかったという。
現在は小魚も泳いでいる状態。
以上が聞き込み調査した結果。
昭和初期樫では当時60人程度の子供が居たそうな。
樫閉山前は相当に賑わっていた。
この辺りは日笠も同じである。