美里町南長野、観音寺という集落にある観音堂です。
このような地名の場所には、昔、そういう名前のお寺があったと推察しますが、
現在はお寺は無く、本尊であった十一面観音像が伝えられ、
地元の観音寺と分郷の集落の住民がこれを祀っています。
観音様の命日である8月18日と1月18日には、
ここで祭礼が行われます。
中央が十一面観音像です。
脇侍として、左が何かの菩薩像、右が地蔵菩薩像です。
境内地にある手水鉢と、寺に伝わる鉦鼓(打楽器の一種)の銘文には
江戸時代の文政年間(1818~1829)の日付があることから、
その頃に、篤志家の寄付を募り、この御堂が整備されたものと考えられます。
この観音堂の前に、2基並んでいる石搭です。
左が「祇園さん」「天王さん」と呼ばれている、牛頭天王を祀った祠です。
昔からの祠は風化が激しかったので、数年前に新調したということですが、
新調する前の祠の写真が「美里村史」の453ページに載っています。
右が「金毘羅さん」と呼ばれている祠です。
「金毘羅さん」とは、四国の金刀比羅宮のことです。
祠の屋根に、丸に金と書いた印が刻まれていますが、
これこそ四国の金刀比羅宮の印です。
(余談ですが、丸に金と書いた団扇が、
江戸時代の参拝客に人気の土産物だったということです)
「金毘羅さん」が祀られているのは、
美里町では、此処と北長野の2ヶ所です。
「金毘羅さん」は、船の安全を守る神様として有名で、
海の見える丘の上に社殿を建てる例が多いのですが、
美里の山の中に、何故「金毘羅さん」があるのでしょうか?
「金毘羅さん」の中に祀られていた木像です。
地元の人が言うには、
「十一面観音さんを守る28人の家来がいたというから、
そのひとりではないのかな、でも名前がわからんのや、
せやで、いっぺん、あんた調べておくれへんかな」
ということでした。
確かに、十一面観音を守る「二十八部衆」という家来がいたようです。
この木像のような、背中に羽があるのは「迦楼羅(かるら)」ですが、
現存する迦楼羅像と比べてみると、あまり似ていません。
そこで、もう一度「金毘羅さん」から調べ直してみると、
金毘羅権現の信仰は、平安時代に修験道と混合して盛んになり、
その際に、金毘羅権現の使いとして天狗が現れるという伝説が広まったようです。
一説には、
金毘羅権現を信仰していた崇徳天皇が、
死んで天狗に生まれ変わった、という伝承もあって、
天狗と金毘羅さんが結び付いたようです。
江戸時代になると「伊勢のおかげ参り」と同様に
「金毘羅さん」も庶民の間でブームとなり、
背中に天狗の面を背負って、四国の金毘羅さんへ参拝するようになりました。
この南長野の「金毘羅さん」も、そういったブームの中で、
村人が身近にお参りできる「金毘羅さん」として整備されたものでしょう。
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これは、インターネットで売りに出ていた「天狗の像」です。
こちらの木像と良く似ていますね。
想像するに、
江戸時代、四国の金毘羅さんで、
この天狗像が売られていたのではないか、と思うのです。
これを買って持ち帰った南長野の人は、村に祠を建て
「今日から、これを金毘羅さんだと思って拝もう」と
呼びかけたのではないでしょうか。
同じ時代の、同じような「天狗像」が、
全国各地に持ち帰られていると思いますので、
南長野の木像のほうは両手首が失われていますが、
こちらの「天狗像」と同じポーズだったのでしょうね。