美里町五百野、外山(とやま)集落東の、
標高100mの山の上にある古墳です。
古墳は2つあり「外山古墳1号」「外山古墳2号」という名が付いています。
合わせて「外山古墳群」と言います。
ここでご紹介するのは、外山古墳1号です。
石垣のように見えているのは、石室の一部で、
当初はこの上からお椀状に土を盛った「円墳」であったようですが、
盛り土が流失してしまって巨石が露出しています。
画像は、古墳の北西側の斜面です。
石を並べた角にあたる部分が。90度の直角になっています。
非常に高い技術で(しかも標高100mの山の上に!)
石が積まれたことが分かります。
最初の画像を、右のほうに進むと、このような状態になっています。
中央の男性と比べてみると、
非常に高く積まれているのがわかります。
積まれた石の一部です。
石の大きさにも驚きますが、自然石を隙間なく積んでいることに驚きます。
同じく、石垣の一部ですが、
木の棒が入るくらいの穴が穿(うが)たれています。
これは、建設当時に、石を運ぶために開けたものでしょうか。
こちらは古墳の南側の斜面です。
ここは、お椀型の盛り土が残っていて、当時の状況に近いと思われます。
頂上で、落ち葉に埋もれている石です。
厚さ15cmくらいの平たい石です。
石室の天井の一部でしょうか。
同じく、頂上にあった祠の跡です。
画像では分かりにくいのですが、玉石を正方形に並べてあります。
ここに祠があったそうですが、
40年ほど前に、吹上の坂の南の山中へ移したそうです。
ということで、ざっと現地の状況をお伝えしました。
この外山古墳のほか、足坂や家所にも古墳があるようですが、
いずれも規模が小さく、古墳時代後期のものと思われます。
それは何を意味するかと言うと、
豪族が権力を振りかざして造った墓ではなく、
この地に住んでいた人々が、自分たち一族の墓として造ったもの、
ということです。
石室は横穴式で、出入りすることが可能で、
一族に死者が出る度に、ここに埋葬していたものと思われます。
そのようなことで、
考古学的には、それほど珍しいものではないのですが、
盛り土が露出しているので、
大きな石を積んだ様子とかを見ることができるのと、
美里町の五百野、足坂、家所より西には
このような古墳は存在しないので、
美里の古墳時代を知るには、適当な例であると言えます。
地元の外山集落には、
ここが城跡であるという伝承があります。
それは、この巨石が城の石垣のように見えたからだ思われますが、
中世城館で石垣を高く積む例は、この地域には少ないので、
この石垣は城の石垣ではありません。
これの南の外山古墳2号がある山には、
室町時代に外山城があったと伝えられています。
(外山城については、別の項で紹介する予定です)
また、
戦時中に、この周囲の山に軍隊が「監視哨」、
つまり敵機がやってくるのを見張る施設を置いていたので、
この古墳のある山にも、兵隊がよく出入りしていたそうです。
それから、これも戦時中のエピソードですが、
お酒の生産、販売が制限されていたので、
上から2枚目の画像の場所で、集落の男性がどぶろくを密造していたそうです。
「子どもは危ないで、山に登ってきたらあかん」と
言われていたのですが、
「登ってみたら、ここからええ匂いがしとったなあ」と
その男性は笑って言っていました。