
(津城)
三河の武将で、徳川家康の若き頃より側近として仕え、
本能寺の変の際には、家康を警護して有名な「伊賀越え」にも同行し、
「徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑」と讃えられた榊原康政、
大変勇猛な武将として、歴史の教科書に出てくる家康の戦いには、ほぼすべて参加しています。
(この三河榊原氏の先祖は、津市榊原町の榊原氏だとする説がある)
その榊原康政は、1606年に59歳で死去したため、
3男の康勝が、群馬館林藩の2代藩主となり、父を継ぎました。
当然「猛将榊原康政の息子」という目で見られますから、
大きなプレッシャーはあったでしょうね。
で、数年後、
家康最後の戦いとなる大阪攻め(大阪冬の陣、夏の陣)が始まります。
康勝も家臣を率いて徳川軍に加わるのですが、
この康勝、これ以前から「尻の腫れ物」を患っていました。つまり「痔」です。
大将ともなると、重い鎧を着け、一日中馬に乗っています。
馬が動けば、鞍の上でお尻が上下します。
決して「お尻」には優しくない環境です。
馬が一歩一歩進むたびに、ズキンズキンと痛みが突き上げてきたことでしょう。
けれど
「榊原康政の息子は腫れ物のために、馬にも乗れなかった」
などと言われて辱められるくらいなら、
痛みを我慢してでも戦場を駆け回るしか無かったのでしょうね。
いやはや、大名とて決して楽なものでは無いのです。
まず大阪冬の陣で、痔が破けて大量に出血、
それが治りきらないうちに
大阪夏の陣でも戦い続けた康勝、
お尻からの出血は止まることなく、
一日の戦いを終えると、馬の鞍には血溜まりが出来ていたそうです。
この無理がたたって、康勝は大阪夏の陣の直後に死亡、26歳でした。
武家である以上、残念な死に方をすることはいくらでもあるのでしょうが、
このような死に方は、可哀相でなりません。