みちのくの風の旅人 [ 愛と義の街(上杉の城下町)から情報を発信中 ]

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置賜三十三観音巡り 5;エピローグ1 第32番森観音

2019-12-07 06:30:07 | まち歩き

 置賜三十三観音巡礼マップを手にして、約10年振りの御開帳期間の最終日、10月31日に長井市、白鷹町、米沢市の観音堂を巡った。今年は例年より暖かく、快晴のその日も車の中では汗ばむほどだった。

 ところで、観音様は物心付いた頃から、大変身近な存在だった。 

  子供の頃の遊び場が、森の観音のお堂とその回りだったからである。お堂の手すりの付いた回廊を走り回ったり、床下に隠れたり、約60年前のことである。8月の夏祭りには獅子舞が村中を巡り、夜には境内で映画や芝居が行わることがあった。昭和30年代から40年代初めの頃は、子供が沢山いて格好の遊び場だった。昭和50年代頃は歌謡ショーなどが時々行われていたが、その頃から村を離れて暮らすようになったので、詳しくは知らない。しかしながら、大人になってからお盆に帰省した時などに、歌謡ショーの看板などをよく見かけた。

   ※ 16年前からほぼ毎年、父の命日の10月下旬に兄弟で森観音のそばの墓地にお参りしている。ちょうど5年前に墓参りした時に書いたブログの記事があったので、原文のまま再掲載しました。


 森観音  ~ 置賜三十三観音 32番札所 ~

2014-11-03 11:06:49 | 日記・エッセイ・コラム

 2週間ほど前の土曜日、墓参りの途中森観音の参道の石段を登った。その奥にある森観音のお堂は、今から50年以上前、子供の頃の遊び場のひとつだった。平成になって四半世紀、観音堂の周りで遊んでいる子供を見かけたことがなくなった。

 石段の登り口の手前には石の地蔵さんが立っている。昔も今も少しも変わっていない。石段の中ほどの脇に忠魂碑が立っている小さな広場がある。忠魂碑の標柱は一昔前にもあった様な気がするが、こんなに立派なものではなかった。忠魂碑の裏には太平洋戦争で亡くなった人たちの名が刻まれている。

 広場の端にはシーソーの残骸がかろうじて昔の姿を留めている。55年以上前の農繁期(田植えや稲刈りの時期 ⇐ 記憶が曖昧なところもあるが・・・ )、地区の公民館が臨時の季節保育所に早変わりした。昭和30年前後の時代、田植え機も稲刈り機も無く、農作業は殆ど「おしん(30年前のNHKの朝ドラマ:昨年再放送されたのを見た)」の子供時代の明治時代と変わらなかった。保育所から石段を登り、この広場に遊びに来ていた。その頃はブランコもシーソーもあった。

 

 

 

 山の上の墓とは別に、江戸時代かもっと前の先祖の墓が集落の中に残っている。
 お盆の墓参りの時には、必ずこの墓にもお参りしていた。
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