キリンの危機について危惧しているとかそういうんじゃないんです。
私の好きなニッポンの女優さん。
樹木希林さん
『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』の、オカン役。
それについて新聞のインタビュー記事があったので読みました。
私は一つ事を、ドドンと成し遂げるより。
淡々と続けられている事の方に感服するようです。
今ものすごく売れてる芸能人でも、
「お前なあ、それで後30年その世界で持ったら認めてやるわ。」
と突っ込んでしまいます。
お前こそ何様だって話だな。
仕事じゃなくても趣味でも家庭生活でも何らかの関係性でも。
日常のひとコマでも。
続いてきた、それもウン十年もって知ると自然と頭を下げてしまいます。
どんなことでもだ。
まあ悪い事は、どんなに続けても悪いんだけど。
キキキリンさんは女優生活40年だそうですが、
そこまで続いてこれたのは期待感が薄いかららしいのです。
なるほど。
まだ、そこまで達観した域には到底達することはできないけど。
(変に若さも残ってるから)
あきらめっていっても、いい意味で。
それが達観っていうのかな。
自分にも周りにも社会にも過剰に期待しないと、
そこそこ人生や現世も悪くないかもしれない。
こんなもんだ、と思うと。
楽かもしれない。
朝に書いた日記と矛盾するかもしれないけど、
すごい人になろうとして一生懸命になるんじゃなく。
淡々と自分をやってたら、こうなってました。
って30年後くらいに、
さらりと言ってのけれたら格好良いなあ。
「まあ踊り続けてたらこんな感じになってました。」ってね。
継続は力なり。
まだ何にもなれそうにもない自分でも踊りに関しては、
もうかれこれ30年超の長きだそうだ。
それで、そのレベルぅ?っていわれたらぐうの音も出ないけど。
いいの。期待してないから。←言い訳か?
私の好きなニッポンの女優さん。
樹木希林さん
『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』の、オカン役。
それについて新聞のインタビュー記事があったので読みました。
私は一つ事を、ドドンと成し遂げるより。
淡々と続けられている事の方に感服するようです。
今ものすごく売れてる芸能人でも、
「お前なあ、それで後30年その世界で持ったら認めてやるわ。」
と突っ込んでしまいます。
お前こそ何様だって話だな。
仕事じゃなくても趣味でも家庭生活でも何らかの関係性でも。
日常のひとコマでも。
続いてきた、それもウン十年もって知ると自然と頭を下げてしまいます。
どんなことでもだ。
まあ悪い事は、どんなに続けても悪いんだけど。
キキキリンさんは女優生活40年だそうですが、
そこまで続いてこれたのは期待感が薄いかららしいのです。
なるほど。
まだ、そこまで達観した域には到底達することはできないけど。
(変に若さも残ってるから)
あきらめっていっても、いい意味で。
それが達観っていうのかな。
自分にも周りにも社会にも過剰に期待しないと、
そこそこ人生や現世も悪くないかもしれない。
こんなもんだ、と思うと。
楽かもしれない。
朝に書いた日記と矛盾するかもしれないけど、
すごい人になろうとして一生懸命になるんじゃなく。
淡々と自分をやってたら、こうなってました。
って30年後くらいに、
さらりと言ってのけれたら格好良いなあ。
「まあ踊り続けてたらこんな感じになってました。」ってね。
継続は力なり。
まだ何にもなれそうにもない自分でも踊りに関しては、
もうかれこれ30年超の長きだそうだ。
それで、そのレベルぅ?っていわれたらぐうの音も出ないけど。
いいの。期待してないから。←言い訳か?
この呪文めいた言葉を思い出すことがある。
あめゆじゅとてちてけんじゃ
国語の時間に聞いた記憶がある、
だけしか残っていない。
なんだったのだろう?意味なんて、あったんだろうか。
あるとき、Mが朝読みしていた本の中にその一節を聞いた。
宮沢賢治 『永訣の朝』
「あめゆじゅとてちてけんじゃ」は、
賢治独特の意味を持たない響きのよいフレーズと思っていたら。
「あめゆきをとってきてください(私に食べさせてください)」
という妹のお国訛りの言葉だったのだ。
その話と何の関係も持たないが。
賢者について、このごろ考えることがある。
数日前の”守護樹占い”で私の守護樹だという、
ポプラについてこう書かれていた。
ポプラは「われこそ賢い知恵を持ったものであると
口にする人々を信じてはいけません」と諭します。
本当の賢者たる人は能ある鷹が爪を隠すように、
その賢さをひけらかしたり。
自分の口にしたりはしない。と思う。
どれだけ自分が何かを成し得ているか、
どんなに自分のしていることがすごいか。
自分がどれだけのことを抱え、それをこなしているか。
どれほど自分が特別な立場として必要とされているか、など。
わざわざ言ってしまう人があるけれど、
それって本当にすごいんだろうか。
あれもこれも抱え過ぎている人を見ると、
それって他人には託せないってことじゃないの?とか。
逆にキャパ狭いってことじゃないの?
などと根性の悪い私は言いたくもなってしまうのだ。
人の振り見て我が振り直せ、だけどね。
本当にすごい人っていうのは努力や頑張りを表面に見せないで、
いかにも楽々とこなしているように思わせるけれど。
実は陰で人一倍の苦労を重ねているんじゃないだろうか。
それを思うと思い出してしまうのはキムタクさんだ。
あの人のことは決してファンだとは言いたくないのだが、
やっぱりあの人ってすごいと思う。
飄々と風のように、さらりと何でもやり遂げてしまう(ように見える)。
悔しいが格好良いよなあ、と思って。
爪の垢でも煎じて飲みたいわ。(送ってくれないだろうか)
『COOLPIX』のカタログ表紙にそんなキムタク氏の姿を見つけて、
それでますます欲しくなった。
などということは賢者は言わないで買っちゃうのだろう。
(それでFMVを買ったニンゲンを良く知っているのだ)
あめゆじゅとてちてけんじゃ
国語の時間に聞いた記憶がある、
だけしか残っていない。
なんだったのだろう?意味なんて、あったんだろうか。
あるとき、Mが朝読みしていた本の中にその一節を聞いた。
宮沢賢治 『永訣の朝』
「あめゆじゅとてちてけんじゃ」は、
賢治独特の意味を持たない響きのよいフレーズと思っていたら。
「あめゆきをとってきてください(私に食べさせてください)」
という妹のお国訛りの言葉だったのだ。
その話と何の関係も持たないが。
賢者について、このごろ考えることがある。
数日前の”守護樹占い”で私の守護樹だという、
ポプラについてこう書かれていた。
ポプラは「われこそ賢い知恵を持ったものであると
口にする人々を信じてはいけません」と諭します。
本当の賢者たる人は能ある鷹が爪を隠すように、
その賢さをひけらかしたり。
自分の口にしたりはしない。と思う。
どれだけ自分が何かを成し得ているか、
どんなに自分のしていることがすごいか。
自分がどれだけのことを抱え、それをこなしているか。
どれほど自分が特別な立場として必要とされているか、など。
わざわざ言ってしまう人があるけれど、
それって本当にすごいんだろうか。
あれもこれも抱え過ぎている人を見ると、
それって他人には託せないってことじゃないの?とか。
逆にキャパ狭いってことじゃないの?
などと根性の悪い私は言いたくもなってしまうのだ。
人の振り見て我が振り直せ、だけどね。
本当にすごい人っていうのは努力や頑張りを表面に見せないで、
いかにも楽々とこなしているように思わせるけれど。
実は陰で人一倍の苦労を重ねているんじゃないだろうか。
それを思うと思い出してしまうのはキムタクさんだ。
あの人のことは決してファンだとは言いたくないのだが、
やっぱりあの人ってすごいと思う。
飄々と風のように、さらりと何でもやり遂げてしまう(ように見える)。
悔しいが格好良いよなあ、と思って。
爪の垢でも煎じて飲みたいわ。(送ってくれないだろうか)
『COOLPIX』のカタログ表紙にそんなキムタク氏の姿を見つけて、
それでますます欲しくなった。
などということは賢者は言わないで買っちゃうのだろう。
(それでFMVを買ったニンゲンを良く知っているのだ)