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菅政権の目的は「国民統制」!?聞こえのいい政策が続く危険性とは

2020年10月24日 | 社会・経済

  上久保誠人:立命館大学政策科学部教授

     2020.10.20 4:45

    菅政権が発足し、1カ月で続々と政策を打ち出している。しかし、政権の目的は「政策実現」ではない。国民にとって「いい政策」が聞こえてくるが、菅政権の最終的な目的は「国民統制」ではないかということが、既に見えてきている。(立命館大学政策科学部教授 上久保誠人)

 

安倍前政権は目的=政策実現、手段=権力集中

菅政権は逆になった!?

 菅義偉政権が「安倍政治の継承」を掲げて発足してから1カ月がたった。だが、安倍晋三前政権とのはっきりとした違いが見えてきた。それは、菅政権では、政権が「目的」とすることと、その実現のための「手段」が、安倍前政権時代と入れ替わっていることだ。

 安倍前政権では、首相の「やりたい政策」というものが前面に掲げられていた。まず、首相の悲願であった「憲法改正」(本連載第169回)だ。次に、「特定秘密保護法」(第72回)、「安保法制」(第115回)、「テロ等準備罪(共謀罪)法」(第160回)などの安全保障関連の法律の整備であった。

 また、それら「やりたい政策」を実現するために、内閣支持率を維持する経済政策「アベノミクス」(第163回)、「一億総活躍」(第138回)、「働き方改革」「女性の社会進出」(第177回)、「教育無償化」(第169回・p3)などの国内政策も次々と並べられた。これらの政策を実現が、安倍前政権の「目的」だった。

 そして、その「目的」を実現するための「手段」が、菅官房長官(当時)を中心とする首相官邸への権力集中だった。在任期間が歴代最長だった菅官房長官は、毎年約10億~15億円計上される官房機密費や報償費を扱い、内閣人事局を通じて審議官級以上の幹部約500人の人事権を使い、官邸記者クラブを抑えてメディアをコントロールし、官邸に集まるありとあらゆる情報を管理した(第253回・p5)。

 官邸に集まるヒト、カネ、情報を一手に握った菅官房長官が行ったことは、「森友学園問題」(第178回)、「加計学園問題」(第158回)、「桜を見る会」(第233回)、「南スーダンの国連平和維持活動(PKO)の“日報隠し”問題」(第179回)、「裁量労働制に関する厚労省の不適切な調査データの問題」(第177回)などの公文書の改ざん、隠蔽、破棄、そして「前法相夫妻の逮捕」などのスキャンダルの悪影響が広がることを抑え込むことだった。

 要は、政策の実現という安倍政権の「目的」を妨げるものを排除していく「手段」として、菅官房長官は、絶大な権力を掌握して、それを行使したといえる。

 一方、菅政権では、官僚、メディアを掌握し、国民を統制すること自体が政権の「目的」のようだ。そして、政策はその目的達成のための「手段」として打ち出されているように見える。

政策そのものではなく、やり方が問題

「ハンコ廃止」は大臣がやることなのか

 菅首相は、就任と同時に、行政の縦割り打破や規制改革に取り組むことを打ち出した。これ自体はなにも問題はない。日本政治・行政の長年の課題であり、この解決を図ろうとするのは、新政権として当然のことである。

 問題は、行革・規制緩和を進める菅政権のやり方だ。菅首相は、河野太郎行革担当相に対して、国民から電話や電子メールで「縦割り」の弊害の具体的な事例を通報してもらう窓口「縦割り110番」を設置し、行政の目詰まりを全部明らかにし、1カ月ごとに報告をするように指示した(第255回)。

 河野行革相が「行政の無駄」として目を付けたのが、「ハンコ」だった。行革相は、全府省庁に対し、民間から行政機関への申請手続きなどで求める押印手続きなど、「ハンコ」を原則廃止するよう文書で要請した。「ハンコ」を存続させる場合は9月末までに理由を示すようにも求めた。

 その後、河野行革相は、全府省庁での検討結果を公表し、押印を求めていた約800種類の申請書や添付書類を全廃する考えを示した。一方、法律や政省令、告示で押印を要求していて変えられないと回答があったものが35種類あったが、「(押印を)やめられると思う」と、全府省庁に再検討させたことを明らかにした。

 中央省庁では、ハンコを必要とする手続きはおよそ1万1000件あるといわれる。その中には、「偉い人スタンプラリー」と呼ばれる、1枚の書類に10以上の承認印を必要とするものがあふれ返っている。すべての役職者の承認印を得るのに、担当者が何日も役所内を回り続けなければならない。要するに、「無駄な押印」は、「お役所仕事」と呼ばれる行政の非効率の象徴であることは間違いない。

 「ハンコ廃止」は、この「お役所仕事」の改善につながる。コロナ禍における定額給付金10万円の支給がもたついたことなどで批判されたことなど、行政手続きの煩雑さは長年の日本の課題である。それを改善するための有効な策であることは間違いない。

 また、やりがいのない煩雑な業務に忙殺されて残業が多いことで、若手官僚の多くが転職を考えているという。「ハンコ廃止」で無駄な業務を減らすことで、霞が関の「働き方改革」につなげて、優秀な人材の民間への流出を防ごうという狙いもあるだろう。

 しかし、そもそも「ハンコ廃止」は、首相が音頭を取って、大臣が陣頭指揮してやるべきことなのだろうか。役所であれば、部長あたりが音頭を取れば、できることではないのかということだ。

 実際、筆者が勤務する大学を例にすれば、既に「ハンコ」を押す機会は激減している。留学生が増えたからだ。留学生は印鑑を持っていないから、書類にサインすればいいということになる。指導教員もサインでいいとなり、次第に日本人学生の他の書類もサインで十分というのが増えていったのだ。

 要は、別に大臣に陣頭指揮などしてもらわなくても、業務の効率化を現場レベルで考えればできることだ。特に、国際的な競争にさらされる現場だと、有無をいわさず変化を求められる。既に変えている民間企業も多数ある。

 確かに、霞が関は特に外部との競争と無縁で、変化が起こりにくいところではある。だが、コロナ後はデジタル化・IT化が徹底的に進む「スーパー・グローバリゼーション」の世界になる(第249回)。時間は少しかかるかもしれないが、いや応なしに変化は起きていく。それを、大臣が陣頭指揮をして、行革の中心課題のように扱うというのには、強い違和感があるのだ。

政権の陣頭指揮で「ハンコ廃止」を進める理由

官僚バッシングにうってつけ

 それでも、菅政権が陣頭指揮で「ハンコ廃止」に突き進むのには、行革の推進以外に理由があるからだ。それは、この政策が庶民を「感情的」にして官僚をバッシングさせるには格好だからである。

 子どものころから頭のいい優等生で、東京大学など優秀な大学を出て、霞が関に入ったエリート官僚が、実は自分たち以上に、非効率的で無駄な仕事をしてきたことが明らかになる。頭でっかちなガリ勉で、実はたいしたことないじゃないかと思う。これは、エリート官僚にコンプレックスを持ってきた庶民にとって、実に気持ちがいいことだ。

 既に「ハンコ廃止」にもさまざまな異論が出始めているが、今後、行革・規制緩和が本格化して、霞が関の本格的な抵抗が起こり始めたら、感情的になって官僚をバッシングするようになる。その「気持ちのよさ」を知った庶民が、次々と「炎上」を起こすことになる。

 菅首相は、政権に反対する官僚を「異動させる」と明言している。省庁幹部人事を一元管理する内閣人事局で「官僚支配」を続ける方針だ。安倍前政権時、内閣人事局を使った官邸主導の強化による官僚の「忖度」には強い批判があった(第183回)。

 しかし、菅政権では、首相に抑え込まれる官僚の姿を見ることに「気持ちのよさ」を覚えた庶民によって、感情的な「官僚バッシング」が起こる。そして、首相の強気の姿勢が異様なほど称賛されることになりはしないか、強い懸念を覚える。

「携帯電話料金引き下げ」の進め方にも疑問

政策は「統制の手段」として実行される

 菅政権の打ち出した政策は、その他にも「統制の手段」として実行されることが疑われるものがある。例えば、菅政権の目玉政策のひとつである「携帯電話料金引き下げ」である。

 菅首相は就任直後に武田良太総務相を官邸に呼んで、トップダウンで値下げを急ぐよう指示した。武田総務相は「国民生活に直結する問題なので、できるだけ早く結論を出す」とし、「(値下げ幅は)1割程度では改革にならない。海外では健全な競争を導入して70%下げたところもある」と、大幅な値下げの実現に強い決意を表明した。

 確かに、携帯電話料金が下がることは、コロナ禍の経済停滞に苦しんできた庶民にとってはありがたいことだ。だが、これも首相が音頭を取って大臣が陣頭指揮でやることかという疑問がある。

 政府が経済についてやるべきことは、市場の公平な競争条件を整えて、多くの企業を参入させて、結果として適切な水準まで市場の価格が自然に下がっていくように促すことだろう。それ以上に強制的に値下げをさせるなど過剰な企業活動への介入は、「統制経済」につながってしまう危険があるのではないか。

 安倍前政権時にも、企業に対して「賃上げ」を再三再四にわたって求めるなど、「統制経済」的な側面があった。だが、それは「アベノミクス」という政権の看板政策を実現するためのものであった。また、あくまで企業側に対する「要請」であり、強制力を持つものでもなかった。

 一方、菅政権は、より強く産業を統制しようとする意図がにじんでいる。政権発足直後にロケットスタートで「携帯電話料金値下げ」を政府主導で決める。これは、庶民にとって一見いいことのように見えるので、携帯業界は抵抗しづらい。抵抗すれば、庶民からバッシングを受けることにもなりかねないので、黙って従うことになるだろう。それを見る他の業界も、菅政権の強い姿勢に震え上がり、黙ることになる。菅政権は、このように産業界全体の強い統制に成功することになるのではないか。

「いい政策」が続き批判できない空気が漂う

 さらにいえば、菅政権は「不妊治療の保険適用拡大」など、多くの国民が「いいことだ」と賛成できる政策も次々と打ち出している。これが、後述の「学問の自由」の侵害の問題などが起きても、「いいことをやっているんだから」と批判を控えさせる効果がある。

 端的な事例は、野田聖子・自民党幹事長代理が、「女性はいくらでもウソをつける」発言をした杉田水脈議員に辞職を求める13万6000筆の署名の受け取りを拒否したことだ。「議員辞職させる権限がないから受け取れない」という理由は意味不明である。

 一方、野田幹事長代理は、菅政権の1カ月について「国民に直接響く、生活感を大切にした政策の積み重ねが特徴で、24時間休むことなく突き進んできた1カ月だった。一緒にいる私たちもヘトヘトで、いい仕事をさせてもらったと感謝している」と高く評価した。要は、菅政権が女性の権利拡大の政策に取り組んでくれるので、批判的な行動はできないということだ。

度を越している学者の抑えつけ

梶田会長の行動は「子どもの使い」

 そして、菅政権の国民統制という目的のための「手段」の極めつけが、「日本学術会議任命拒否」だろう。筆者は、日本学術会議が「学問の自由」を守れていない側面があると批判した(第255回)。しかし、菅政権の学者を抑えつけようとする姿勢は、度を越しているように思う。

 菅首相と日本学術会議の梶田隆章会長(東京大学教授)が、首相官邸で15分間会談した。梶田会長は、学術会議が推薦した会員候補105人のうち、6人を任命しなかった理由の開示と任命を求める要望書を、首相に直接手渡した。しかし、梶田会長は菅首相の直接任免拒否の理由を問いかけることはなく、首相も説明しなかったという。

 会談で菅首相は、「学術会議が国の予算を投ずる機関として国民に理解をされる存在であるべきだ」と話し、「学術会議としてしっかり貢献できるようやってほしい」と梶田会長に要請した。梶田会長は、政府への政策提言が不十分といった批判が出ていることを念頭に「発信力が今まで弱かった。早い段階からしっかり改革していきたい」と応えた。そして、学術会議の在り方について、今後検討していくことで合意したという。

 一言でいえば、梶田会長の行動は、「子どもの使い」のような無様さだった。なぜ、菅首相に任免拒否の理由を直接聞かなかった。首相が答えなければ、テコでも動かない。答えるまで官邸に籠城するくらいのことはしてほしかった。命を懸けて首相と刺し違えるくらいの覚悟がなければ、「学問の自由」など守れるわけがないではないか。

 菅首相も、ノーベル賞受賞者の梶田会長をいい加減に扱うことはできなかったはずだ。乱暴に官邸から追い出せば、世論が黙ってはいないからだ。梶田会長は自らが持つ絶大な「権威」を使って「権力」と戦うべきだった。戦前、学問の自由を守るために逮捕されてもまったくひるまなかった河合栄治郎のように、信念を示してほしかった(第190回)。

 だが、梶田会長は、しょせん学者がけんかのやり方を知らないひ弱な優等生でしかないことをさらしてしまった。やはり、日本学術会議は「学問の自由」を守るために百害あって一利なし、無用の長物だと断ぜざるを得ない。今後、政治は遠慮なく「学問の自由」を奪うために学者を攻撃してくるだろう。

学者を最初に狙い撃ちした理由

政権の最重要の「目的」とは

 菅首相は、日本学術会議を攻撃する二の矢を既に放っている。自民党は、日本学術会議の在り方を検討するプロジェクトチームを発足させ、初会合を党本部で開いたのだ。下村博文・自民党政調会長は、政策提言など会議側の活動が不十分だとの認識を示し、「納税者の国民の立場から見て、学術会議の在り方を議論することは重要だ」と発言した。

 自民党は、年内をめどに提言をまとめ、政府に提出する方針だという。一見、自民党が言うことは「正論」に聞こえる。だが、要は政府に批判的な学術会議を、政府に黙って従うものに変えるという、自民党の学者に対する公然たる宣戦布告だと言っても過言ではない。

 前回も述べたが、古今東西、「権力」は国民を統制しようとする時、学者を最初に狙って攻撃してきたものだ(第255回・p4)。学者は「権威」があり、社会に圧倒的な影響力を持ちながら、優等生でけんかができないからだ。政治家からすれば、崩しやすい相手であり、いったん崩せば、国民は「権威」を崩した「権力」に対して、黙り込むことになる。

 菅政権が、政権発足後、まず学者を狙い撃ちにしたのは、政権の最重要の「目的」が国民の統制にあることを明確に示しているのだ。だが、何度でも繰り返すが、学者から「学問の自由」を奪うことを皮切りに、国民の「言論の自由」「思想信条の自由」を抑えつけて、「権力」への批判がない社会を実現した先に待っているのは、「亡国」しかないということは、古今東西の歴史が証明している。

 政策とは、国民を統制するための「手段」ではない。政策は、国民の自由と幸せな生活の実現という「目的」のためにあるはずだと、菅首相に強く主張しておきたい。


 長い文書で申し訳ない。引用する以上、全文をそのままに掲載することにしているので悪しからず。そんなわけで、わたしの思いと完全に一致しているわけではないということも申し添えておきます。

昨年植菌したヒラタケ。