里の家ファーム

無農薬・無化学肥料・不耕起の甘いミニトマトがメインです。
園地を開放しております。
自然の中に身を置いてみませんか?

神村和美 多喜二 没後91年に

2024年02月20日 | 生活

真実を語り よみがえらせる

「しんぶん赤旗」2024年2月20日【文化】

 虐げられている者の立場からペンを執り、日本の侵略戦争を食い止めるために闘った小林多喜二が虐殺されてから91年となる。「人が幸福になるにはどうすればいいんだろう」という「世界意識」の下に共産主義を信奉し、あるべき社会の到来のために邁進(まいしん)した多喜二だが、現在の世界は、ロシアによるウクライナ侵攻やイスラエル・ガザ戦争など、第3次世界大戦の始まりともおぼしき局面に突入し、彼の理想とは程遠い現実が展開されている。

 また、国内では、今年の元日から能登半島が大地震に見舞われ、SNSでは多くのデマ情報が飛び、現場の混乱を招いた。101年前の関東大震災の際も流言蜚語(ひご)が発生し、数々の虐殺事件が起きたことが即座に想起されよう。

 なお、現日本政府は当時の虐殺の記録は見当たらないとし、ネット上では虐殺をねつ造だとする匿名の主張さえみられる。そして今年1月、群馬では朝鮮人労働者追悼碑が破壊・撤去された。このように負の歴史を無視する動きが表面化している今、思い出されるのは、関東大震災の際に虐殺された平沢計七の追悼会を主催した山崎今朝彌(けさや)らに謝意を書き送った、弱冠20歳の多喜二の真摯(しんし)な姿である。

 20歳という年代は、現代でいう「Z世代」に該当する。多喜二の時代とは異なり、現代の「Z世代」の主な情報源はSNSやネット記事だということだが、これらが玉石混淆(こんこう)であることはいうまでもない。

 筆者も、ネット上で、多喜二の拷問死をねつ造だとする匿名投稿を見かけ、驚きと憤りをおぼえると同時に、若い世代へ多喜二を語り継ぐには、先立って偽情報を修正してゆく作業が必要であることを痛感した。晩年の多喜二もまた、運動に対する政府のデマに苦しめられ、虐殺後から敗戦までに至っては存在自体を抹殺されてきたことを顧みると、彼の真実を語り伝えることは、彼を語り誇ることのできる現代に生きている私たちの当然の使命のようにも思われてくる。

同じ轍踏まない

 ところで、多喜二を語ることが解禁された戦後の空気を鮮やかに描いた文学作品に、宮本百合子の「風知草」(1946)がある。主人公〈ひろ子〉は、ニュース映画「君たちは話すことが出来る」に映し出された多喜二の遺影に、遺体と対面した彼の母の姿を思い出し涙する。なお、このニュース映画についての叙述は、浅野辰雄監督「君たちは喋ることができる」(1946)を想定したものと思われる(奇遇であるが、浅野監督は筆者の母校―函館中部高校の先輩にあたる)。時代の良心として闘った人々を踏みにじり戦争へと突き進んだ国家の軌跡に、戦時下を生き抜いた党員たちの姿を重ねてゆく〈ひろ子〉の心象風景が印象深い作品である。最近の日本では、戦争の語られ方に変化が見られ始めたという。過去と同じ轍(てつ)を踏まないためにも、今こそ私たちは、侵略戦争反対に奔走した先人たちの犠牲を語らなくてはならない。

原点に立ち戻り

 また、ネット空間とは異なり、文学や演劇の世界では、多喜二は権力に屈しない眩(まぶ)しい存在として描出されることが多い。ちなみに昨年は、柳広司の小説「アンブレイカブル」(2021)が舞台化されている。このような表象は喜ばしいことであるが、やはり多喜二を正しく継承するために最も必要なのは、彼が命を賭して遺(のこ)した彼自身の文学作品を各々が読みこむことであろう。

 新たな戦争の時代への扉が開き、真偽の明らかでない情報が錯綜(さくそう)する混沌(こんとん)の世界で、人々に「――もう一度!」立ち上がる勇気を与え続けてくれる小林多喜二を甦(よみがえ)らせるためにも、このシンプルな原点に立ち戻り、彼が遺してくれたメッセージを多くの人と共有できるような道を模索していけたら、と考えている。

 (かみむら・かずみ 城西大学語学教育センター准教授)

 小林多喜二 作家。1903年、秋田県大館市で生まれ、07年、北海道・小樽に移住。小説「一九二八年三月十五日」「蟹工船」「党生活者」ほか。31年、日本プロレタリア作家同盟書記長就任。33年2月20日、官憲に虐殺される


わたしも横たわる多喜二の死後写真を見たが、太ももはキリで刺され真っ黒であった。こんな卑劣な拷問をかけても志を曲げず、仲間たちを守ったのだ。

宮本百合子の短文に「今日の命」というのがある。この最後の言葉が良い。わたしの座右の銘である。短いので全文紹介しておこう。

今日の生命

宮本百合子

 小林多喜二は、一九三三年二月二十日、築地警察で拷問された結果、内出血のために死んだ。
 小林多喜二の文学者としての活動が、どんなに当時の人々から高く評価され、愛されていたかということは、殺された小林多喜二の遺骸が杉並にあった住居へ運ばれてからの通夜の晩、集った人たちの種類から見ても分った。彼の作品を熱心によんでいた労働者、学生、文学上の同志たちに交って、思いもかけないような若い婦人たちも少なからず来た。これらの人々がその夜の通夜に来たという事実は全く独特な、日本らしい道を通って私に分ったのであった。
 警察は、殺した小林多喜二の猶生きつづける生命の力を畏れて、通夜に来る人々を片端から杉並警察署へ検束した。供えの花をもって行った私も検束された。「小林多喜二を何だと思って来た!」そう詰問された。「小林は日本に類の少い立派な作家だと思うから来ました」「何、作家だ?」背広を着た特高は、私をつかまえて引こんだ小林の家の前通りの空家の薄暗い裡で大きい声で云った。
「小林は共産党員じゃないか、人を馬鹿にするな!」
「そうかもしれないが、それより前に、小林多喜二は、立派な文学者ですよ」
「理屈なんかきいちゃいられない。サア、行くんだ」
 そして、杉並署へついて、留置場へ入れられかけた。留置場の女のところは一杯で、もう入れられないと、看守がことわった。「何だって、今夜はァあとからあとからつっちェくるんだ」と看守が不満そうに抗議した。留置場は一杯になっていた。小林多喜二のところへ来た人たちで、少くとも女の室は満員となっていた。私は、それで「帰れ、仕様がない」と帰されたのであった。
 一九三三年は前年に治安維持法が改悪されて、そのために進歩的な文化全面に、激しい動揺が生じていた。内心の恐怖を、文化・文学理論への批判という形にすりかえて、卑劣な内部崩壊が企てられていた。小林多喜二は、前年春から、不自由な生活を余儀なくされて暮しながら、文学者として可能な限り当時のこの腐敗的潮流と闘った。その間に「党生活者」その他の、日本民主文学の歴史的所産たる作品を生み出したのであった。
 当時、一部の文化人と云われる人々は、小林多喜二の貴重な生命が失われたことについて、一語も日本の警察の野蛮さ、無恥さについて憤らず、却って共産党が、あたら小林の才能を挫折させた、という風に批評した。小ざかしげなその種の文章が新聞にいくつも載った。
 執筆した人々は、今日生存しつづけている。どんな慙愧ざんきの念をもって、昨年十月初旬、治維法の撤廃された事実を見、初めて公表された日本支配権力の兇暴に面をうたれたことだろう。
 民主的な社会生活の根本には、人権の尊重という基底が横わっている。人権尊重ということは、正当な思想を抑圧して小林多喜二のような卓抜な一個の社会人・作家を撲殺するようなことが決して在ってはならないという通念を意味する。同時に、それを主体的に云えば、一個の社会人・芸術家は、自分の理性がさし示す歴史の前進の方向、情熱がさし示す純潔なる芸術生活への献身を、ひるむことなくわが身をもって実現する当然の自由をもっているのだということを自覚すべき責任があることをも示している。人間一個の価値を、最大に、最高に、最も多彩に美しく歴史のうちに発揮せよ。小林多喜二の文学者としての生涯は、日本の最悪の条件のなかにあって猶且つ、そのように生き貫いた典型の一つである。

〔一九四六年三月〕