被災者 生活再建の苦闘続く
「しんぶん赤旗」2025年1月17日
借金が増え自己破産 「やっぱり国からお金の援助がどうしても必要です」
6434人の犠牲者と家屋全半壊(焼)約47万世帯という被害となった阪神・淡路大震災(1995年1月17日)から17日で丸30年となりました。被災者は震災の打撃に加え長年、生活再建に苦闘を強いられ、被災者を無視した政治と復興のあり方が問われ続けた30年でした。
「国も神戸市も政治家も、私たちを思いやる気持ちはなかった」
神戸市東灘区の深江南町市営住宅に住む矢田悦子さん(76)はつぶやきました。
神戸市灘区の賃貸マンションで被災し、半年後に西区の仮設住宅に。当時、矢田さんは東灘区で会社勤め、夫の喜一郎さん(故人)は自営業、中学生と小学生の子どもが灘区の学校に通っていました。毎日、喜一郎さんが車で有料道路を通って子どもと矢田さんを送迎。3人が電車で通うより安いとはいえかなりの交通費で、蓄えは尽きました。
1997年に東灘区の復興市営住宅が当たり、暮れに入居。都市部のため生活が便利になり、学校・職場も格段に近くなってようやく落ち着きました。
震災後に借りた災害援護資金350万円の返済が2000年に開始。月約6万円の返済を求められましたがとても無理で、月5000円の少額返済になりましたが夫の仕事も減っていて矢田さん夫妻にはそれも厳しく、子どもの大学の入学金など出費がかさんで借金が増え自己破産せざるをえませんでした。「震災がなければこうはならなかったのに。やっぱり国からお金の援助がどうしても必要です」
10年には、兵庫県や神戸市、西宮市などが復興公営住宅のうちURなどから借り上げた住宅の入居者に、「借り上げ期間は20年間」として退去を迫る問題が起きました。
矢田さんの住宅もその一つで、寝耳に水。「そんな話は一切聞いていなかった。ずっと住めると思っていたのに」。市があっせんする転居先はどれも遠方で、喜一郎さんがかかりつけの近くの病院に通院できなくなるなど転居はとても無理でした。応じられないなか市は17年、世帯主の喜一郎さんに退去を求めて提訴しました。
切実な要求掲げ支援策前進させた闘い
2020年2月に喜一郎さんは肝臓がんで亡くなり(享年86歳)、裁判は終了。同年12月に矢田さんは不本意ながら現在の住宅に引っ越しました。同じ東灘区内であることがまだ救いでした。
「棄民政策」
「追い出しの問題が夫のストレスだったと思う」といいます。「私たちは悪い見本になりました。今後の災害では、政治や行政は被災者に寄り添ってほしい」
震災後、被災者を助けようとしない自民党政治は「棄民政策」と呼ばれました。
阪神・淡路の被災者への公的支援・個人補償を政府が拒否したため、被災者は融資に殺到し、返済の重圧を負いました。
約5万6000人が借りた災害援護資金(最高350万円)は06年に完済のはずが返せない人が続出。21年に神戸市が、22年に兵庫県が未返済者の返済免除を決めるまで、返済の問題が続きました。業者向け緊急災害復旧資金融資は約3万4千件の利用があり、5500件余が返済不能に陥りました。
絶望死とも
持ち家を失った人の約3分の1が、資金不足で自宅再建を断念。再建してもローンに苦しみ、震災前のローンも残る二重ローンは特に返済が多額でした。再建した住宅を手放す人が相次ぎました。
仮設住宅と復興公営住宅は、多くが郊外など被災市街地から離れた地に建設。抽選で被災者はバラバラになり地域のコミュニティーが壊されました。貧困や病気もあって孤独死は激増し、「絶望死」とも呼ばれた仮設住宅の孤独死は233人、復興住宅では1431人(集計終了の23年末まで)に上ります。
約7700戸供給された借り上げ復興公営住宅では、県や神戸市、西宮市などが裁判に訴えるなど入居者を強引に転居させ、大問題になりました。
一方、被災者と阪神・淡路大震災救援復興兵庫県民会議、日本共産党は長年、切実な要求を掲げて闘い、支援策を前進させました。
方針変える
災害援護資金の返済問題では相談会や政府・自治体交渉を重ね、月1000円からの少額返済や免除枠の拡大を実現。多くの被災者が救われました。復興公営住宅の戸数増と家賃低減、民間賃貸住宅の家賃補助なども実現しました。
借り上げ復興住宅追い出し問題では、入居者の必死の闘いと日本共産党の議会論戦で、県と神戸市は全員退去方針を変え、13年に神戸市は85歳以上、県は概ね80歳以上―などの基準で一部継続入居を容認。さらに借り上げ県営住宅では、それ以外の世帯も転居困難な事情を第三者の判定委員会に申請すればほぼ継続入居が可能になりました。宝塚市と伊丹市は全員を継続入居としました。
国連が被災者支援を勧告
被災者の厳しい実態に国連が02年、日本政府に被災者支援の強化を勧告したほどです。
国連社会権規約委員会は同年8月発表の見解のなかで、多くの被災高齢者が孤立しケアもないことや住宅再建の資金調達の困難さなどに懸念を表し、(1)兵庫県に高齢者や障害者へのサービスを拡充させる(2)住宅ローン返済を援助する措置を迅速にとる―ことを日本政府に勧告しました。
被災者自身の組織が力に
元借り上げ住宅協議会運営委員・元日本共産党神戸市議 段野太一さん(85)
借り上げ住宅の問題で神戸市などは最後まで当事者の声を聞きませんでした。追い出すために裁判までやるなどもってのほかです。
入居者の闘いと共産党の論戦が連携し、県営住宅では途中からほとんどの人が残れるようになり、訴えられた人たちも裁判では負けたとはいえ、最終的にはある程度希望に沿った市営住宅があっせんされました。
その一番の力になったのは、被災者自身が2011年に借り上げ住宅協議会という組織をつくったことです。これがものすごく大きかった。月1回高齢者のみなさんが集まって、法的な問題などを学んだり交流したりして、自分たちは間違ってないと元気に頑張れました。
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阪神大震災30年
教訓生かさない政治を変える
「しんぶん赤旗」主張
1995年の阪神・淡路大震災は、住宅の損壊約64万棟、災害関連死を含めた犠牲者6434人という、都市部を襲った未曽有の災害でした。
この30年間、政府は悲痛な教訓を受けとめ生かしてきたのか。政治の最大の課題である、国民の安心と安全に真剣に取り組んできたのか。答えは「ノー」です。
能登半島地震では、避難所の雑魚寝、冷たい食事、断熱性のない仮設住宅など、30年前と同じ劣悪な状況が繰り返されています。
■住民より大型開発
阪神大震災では「創造的復興」の名で、震災後の10年余で、直接被害額10兆円を上回る16兆円超の復興事業費が投入されました。その約6割が高速道路、港湾、海を埋め立てた神戸空港建設、都市再開発などにあてられ、震災前からの開発計画が推し進められました。
一方、生活や生業(なりわい)再建は「自助自立」にされ、住宅などを再建した人も二重ローンに苦しみました。住民が区画整理で追い出され、「陸の孤島」といわれた郊外の仮設住宅や高層の復興公営住宅ではコミュニティーが壊され孤独死や自殺が続きました。商店街にはビルができましたが、住民が戻れず、消費が回復せずにテナントが撤退しています。
住民無視の「創造的復興」は、その後の震災でも被災者を苦しめています。
震災前年、日本共産党神戸市議団は市の消防体制の弱さを指摘していました。当時も経済効率優先で病床削減や自治体リストラが行われていました。いま、それがさらにすすみ、自治体のマンパワー不足が能登の復旧を妨げています。
南海トラフ、首都圏直下型地震の危険性が指摘されるなか、一極集中、超高層ビルの建設ラッシュ、湾岸開発など防災を無視した都市開発がすすんでいます。
なぜ教訓が生かされないか。自公政権にとって「安全保障」とは米国の世界戦略にどう従うかが中心であり、「国土強靱化」は“投資しても安心なインフラ”の海外へのアピールだからです。こうした政治を変えなければなりません。
■支援法拡充求める
そのなかで特筆されるのは、阪神大震災被災者の粘り強い運動と世論で被災者生活再建支援法を勝ち取ったことです。当時、政府は「私有財産制の国では個人財産は自己責任」と住宅再建支援を拒みました。
議員立法を求める被災者・市民と力を合わせ、日本共産党の衆参議員らが国会議員有志に働きかけ97年に法案を提出。政府はこれを拒む一方、世論を恐れ98年に支援法を成立させましたが、阪神・淡路には適用されず、わずか百万円の「見舞金」で住宅再建には使えないというものでした。
2000年の鳥取西部地震で住宅再建に3百万円を支給する片山善博知事(当時)の英断も受け、支援法改正の世論と運動が高揚。政府も個人の住宅再建は地域再建という公共性があると認め、07年、住宅本体の建設・改修を支援対象とする現行法が実現しました。
住宅は憲法が掲げる生存権の保障に不可欠です。災害列島・日本。金額を引き上げ真に住宅再建可能な制度にする必要があります。政府が責任を果たしきるよう求める運動を各地で大きなうねりにしましょう。
能登地震では「棄民・棄地」政策である。
わが北海道の僻地もまた見捨てられるのだろう?