仁藤夢乃“ここがおかしい”第22回 2018/03/01
何が差別で、何が平等なのか?
JRや地下鉄の女性専用車両設置は男性差別であると主張し、わざと女性専用車両に乗り込み、嫌がらせを続ける男性たちがいる。彼らは「ここは女性専用ですよ」などと注意した女性乗客らに対し、「男性が乗ってはいけないという法的根拠はない」と言い張って謝罪を求めたり、「肩を触った! 痴漢だ!」と騒いだり、逆に降車を迫ったり、怖がったり気持ち悪がったりする姿を撮影してネットでさらしたりしている。
つい先日の2018年2月16日にも、東京メトロ千代田線の女性専用車両に複数の男性が乗り込んで居座り、駅員の降車要請に応じなかったため電車が遅れた――というニュースが報じられた(2月16日付、朝日新聞デジタル「女性専用車両に男性3人居座り メトロ千代田線遅れる」)。その翌週には、この男性らのグループが女性専用車両反対の街宣活動をJR渋谷駅前で始めたところ、彼らの主張や行為に怒った人々が集まってカウンター行動を起こし、警察官も出動する騒ぎになったという(2月24日付、弁護士ドットコム「『女性専用車両』反対派とカウンターが渋谷駅前で衝突、『帰れ』コール響き騒然」)。
この時のカウンター側には多くの男性も参加したとツイッターなどで知り、私自身は心強く思った。しかし私は「女性専用車両は男性への性差別」という意見に同調する声が主にネットの書き込みなどで高まることで、中高生世代にも浸透し始めていると感じている。
女性専用車両への攻撃を続ける男性たちは「差別ネットワーク」と名のり、メンバーのSNSには「すべての不当な差別に反対」「差別と思われていない差別にスポットをあて、反対運動を展開中!」「特にいまの日本に蔓延する男性差別。男性冷遇、男性軽視、男性排除…まずはこれらを糾弾・啓発してまいります!」「『女性専用車両』は『痴漢対策』ではなく『男性対策である』」などと書いてある。
こうした主張に触れた時、「差別はよくない」と教えられながら、何が「差別」となるのかを理解したり、暴力の構造を社会的状況から読み解いたりする力を身に付けられずに育った子どもたちが「そうだ、これは男性への差別だ」と思ってしまうのは、仕方がないことだと思う。彼らの主張や行動の何が間違っているのか、何が差別・暴力であり、対等や平等とは何なのか、子どもたちに伝えていく責任が大人にあると思う。
痴漢の被害に遭うのは女性ばかりではないが、加害者の多くは男性で、被害者の多くは女性であるという現状から、女性たちを性暴力から守り、安心して電車に乗れるよう2000年代の初頭に京王電鉄京王線などで女性専用車両が設けられた。いわば女性への性暴力があふれる中での、一つの緊急対策だ。そうと知りながら「女性優遇は許せない」と言って乗り込んでくる男性を、居合わせた女性乗客が「怖い」「気持ち悪い」と感じるのは当然だと私は思うが、以前、買春者を擁護する男性のことを私が「キモイ」と言ったら「男性を差別している」「男性憎悪がひどい」などとネットで批判されたことがあった。
私は「気持ち悪い」と感じることは大切だと思う。なぜならそれは、自分の安心や安全が守られなかったり、人権が侵害されたりするかもしれない時のサインだからだ。しかし、そうした感覚を育むこともかなわない中高生が、少なくないことも感じている。
男なんてそんなものという思い
中高生時代の私も、その一人だったかもしれない。
登校時の満員電車で痴漢に遭うことや、通学路で露出狂に遭うことは日常茶飯事で、数えきれないほどだった。やめてほしいと思っても恐怖で声が上げられず、周りに居合わせた大人たちも誰も助けてくれなかった。
毎日のように被害に遭うので、次こそは反撃してやろうと思っていても、いざとなると「殺されるのではないか?」「被害を訴えても信じてもらえないのではないか?」「大ごとになるのではないか?」などと考えて、体が固まってしまった。痴漢を捕まえた女友達がかっこよく見えると同時に、そうできない自分を責めていた。
一度、友達や後輩が同じ目に遭わないようにと、警察に「今、そこに露出狂がいる」と言いに行ったことがあった。が、1時間も部屋に閉じ込められて事情聴取され、その後でパトカーに乗っての犯人探しに協力させられ、学校にも連絡された。遊びの約束をしていたのに行けなくなってしまい、結局「パトロールを強化する」ということだけ言われて嫌な思いをし、「自分の気持ちや自由は守られないんだ」と感じた経験がある。
私が通っていた女子校では、「いつ、どこそこに痴漢が出たので気を付けるように」という注意喚起が毎週のようにあり、被害に遭うのは自分に隙があるからなんだ、短いスカートをはいたり夜道を歩くからなんだ、自分たちの不注意によるものなんだ、と思い込まされていた。電車の中で男性からジロジロと脚や胸を見られることもよくあり、そんな視線を気にせず胸元の開いたファッションができる友達がうらやましくて、そうできない自分を弱いとも思っていた。
当時の私は、家が安息できる場所ではなかったため深夜の街を徘徊する生活を送っていたが、つるんでいたグループ内でも男子が女子を、まるでモノでも扱うかのように性的な玩具にすることは日常茶飯事だった。
そんな中で、私は「男なんてそんなものだ」と思うようにしていた。「胸を触られるぐらい、たいしたことではない」と暴力に対して開き直ったり、自分から「彼らのモノ」「性的に対象化された女子」といったふるまいをし、下ネタで喜ばせたり自虐ネタで笑いをとったり、彼らの機嫌をコントロールして身を守る術を14歳ぐらいのうちに身に付けていた。そこには、自分の意見を押し殺して父の言いなりになる母の姿を、家で見ていた影響もあると思う。
(中略)
差別や暴力に気付けない社会
そんな私を見て「自分の意思で好きでやっているんだろう」と思い込み、もっとひどいことをしてきたり、「軽い女だ」と軽蔑したりした人もいただろう。本当は私も傷付いていたが、そこを認めてしまうと生きているのがつらくなるので、気にしていないような素振りをしていた。しかしそうするうちに、どんどん感覚は麻痺して、自分の中での「安全」の基準も下がっていった。
〈中略〉
本人が嫌がっているように見えるかどうかにかかわらず、「玩具扱いして遊ぶのはもうやめよう」と言ってくれる男子がいたらよかった、と今は思う。が、「女で遊ぶ」ことに反対するような男子は、仲間から「男ではない」「つまらない」「ノリが悪い、洒落のわからないやつ」というような扱いを受けることが目に見えた状況だった。
〈中略〉
「男性に性的にモノ化され、消費されることは、女性として価値があること」であるかのような、そして女性もそれを喜んでいるかのようなシチュエーションは、この時代でもバラエティーやドラマ、アニメなどによく使われ、子どもたちも日々目にしている。
この記事を書いている今も、あるテレビ番組で女性タレントが脚から腰までをローアングルからなめ回すように映され、彼女より年上の女性アナウンサーが傍で「深夜番組みたいないやらしいアングルですね。
私ももっと短いスカートをはいてくればよかった」などとコメントするシーンが放映された。男性タレントたちは「女性がそういう目で見てほしがっているから、俺はそうしてやっている」と言わんばかりの表情で女性タレントのお尻を眺めた後、女性アナウンサーには「ババア」などと発言して「あんたは対象ではない」というような態度をとった。
こういう番組一つ見ても、日本の男性は若い女性を性的対象として消費するのが大好きだということがわかる。私も10代の頃からそのことを刷り込まれてきたし、そうした性差別が当たり前にある環境に育つ中で、それを差別・暴力だと気付けない人はたくさんいるはずだ。
でも今は思う。あれは暴力だったし、悪いのは100%暴力を振るう側だと。
男性の方が生きづらい時代?
私が代表をつとめる女子高生サポートセンターColabo(コラボ)では、「少女が搾取や暴力に行き着かなくてよい社会へ」を合言葉に、虐待や性暴力被害に遭うなどした女子中高生を支える活動をしている。しかし、そうした問題に立ち向かおうとすると、その考え方や活動は「男性への中傷であり暴力であり差別である」と批判したがる人がいる。
以前、講師として赴いた高校で人権についての授業をした時、女子生徒から「今は女尊男卑の時代。女性ばかりが女性専用車両や映画のレディースデーなどで優遇されている」という意見を堂々と突きつけられた。
また、私が女性への性差別表現をするアニメや、若い女性に男性が理想とする衣装を着せて奉仕させることをエンターテインメントとして消費する社会を批判したのに対して、男子中学生から「女性が強くなり、男性の方が生きづらい時代。アニメやメイドカフェなど自分の趣味を否定しないでほしい」というコメントをもらったりしたこともある。
そして彼女/彼らは、ある種の正義感をもって、粗探しをするかのように本質的ではない質問を繰り返したり、話をすり替えたりする。
〈中略〉
そして、こうした主張や攻撃をする人の中には年齢にかかわらず、「自分はそういう人に出会ったことはないし関わりたくもないが、好きで売春をしている女子高生もいるはずだ。そういう人がいることで自分は性暴力から守られている」とか「モテない男性は性的弱者なのだ。彼らの性欲を否定することは人権侵害である」などと、性欲の否定などこちらが言ってもいないことを言ったかのように主張する。
「貧困の女子高生に売春する自由を与え、欲求を満たしたい男性とつなげば、当人同士の合意に基づくウィンウィンの関係になる」などと考えたりする人もいる。
買春者や女性差別をする人が身近にいることに気づかず、そういうことをするのは一部の変態や、複雑な事情を抱えた人だけだと思い込んでいる人もいる。
「平等」「中立」「多様性」のはき違え
「買春ってどんな人がするのですか?」と聞かれることがよくあるが、買春は特別な一部の人によるものではない。ごくごく普通の家庭生活を送っている、会社員、医師、警察官、弁護士、大学教授、フリーター、学生など、あらゆる立場や年齢の人が加害者になっている。自分も、自分の身近な人も、被害者にも加害者にもなる可能性があることなのに、自分とは切り離した問題として考えている人が多い。
「買春した人の気持ちや事情が知りたい」と言う人も少なくない。児童買春の実態を伝える企画展「私たちは『買われた』展」(Tsubomi/一般社団法人Colabo主催)を開催した時も、「被害児童の声だけでなく、加害者の背景も調べて伝えるべきだ。そうでないと善悪の判断ができない」と私たちに言ってくる人たちがいた。
加害者にも人権はあるが、どんな事情があるかにかかわらず暴力は許されない。そんな当たり前の前提をも共有することは容易ではないと、日々の活動を通して感じている。
被害者への寄り添いなしに「加害者にも事情がある」と言う人は、加害者も被害者も自分の近くにいるかもしれないことを想定せず、自分が加害行為をしている可能性については考えていない。このような発言自体が差別や暴力への加担につながることにも無自覚で、「自分の周りには、児童買春被害に遭った子はいない。そういうのは、定時制高校に通うような事情のある子たちだけでしょう」などと言う人もいる。
私は「どんな高校に通う人にも被害に遭う可能性はある。きっとあなたの身近にもいたけれど、見えていなかったというだけではないか。そんな考えをしているあなたには、被害を相談したいと思われなかったということではないか」と思う。
差別や暴力を振るう側の意見を、被害者の意見と同じ大きさで扱うことを「中立」だと思い込んでいる人も少なくない。そして、中立を装う人の多くは、差別や暴力を目の当たりにしても何もしない。自分とは関係のないこと、自分には判断のできないこととして、やり過ごそうとする。それは差別や暴力に加担することにつながる。
差別主義者の差別的な発言をそのまま取り上げるのは、差別を助長することになりうるが、それを「差別に加担すること」とは認識できず、中立と考えるメディア関係者もいる。
差別をする人は往々にして「自分たちのような人間を否定することは差別だ」「これは表現の自由だ」などと主張するが、これは「いろんな意見の人がいるよね」「多様性って大事だよね」という話ではない。平等とは「誰かを差別したり、誰かに暴力を振るったりする権利を確保すること」ではなく、「誰にも差別や暴力を受けず、安心して安全に生活する権利がある状態」ではないか。
しかし今日、差別や暴力を振るうことを権利として主張する声は大きくなっている。
#WeToo「私たちは暴力を許さない」
虐待やDVを受けるなどして人権が侵害され、支配の関係性の中で暴力を振るわれ続けるような環境で長い間過ごすと、自分の身に降りかかっていることが「暴力だ」「支配だ」「危険だ」と認識できなくなったり、「怖い」と思うこともできなくなったりすることがある。それと同じように今の社会を男女平等だと信じて疑わない人の中には、今ある状況が当たり前になりすぎて、その中にある差別や暴力を認められない人もいると感じる。
また、差別や暴力に向き合う時、自分の加害者性にも向き合わざるをえなくなる。女性専用車両について「男性の人権軽視である」と主張したり、「すべての男性を性犯罪者扱いしている」と、ずれた解釈をしたりする男性たちは、自分の加害者性を否定したいのではないか。もしかしたら彼らは自分を一番の被害者だと思っているから、実際にはさらに弱い立場にある人がたくさんいる「女性専用車両」でも堂々と行動できている、といったことにも無自覚なのかもしれない。
しかし女性を保護するためのスペースに侵入し、女性の安全を脅かすことは明らかな暴力である以上、彼らは間違いなく加害者になっている。
満員電車で「性犯罪の被害に遭うかもしれない」と女性が不安を感じる状況で、「俺は違う。そんなことはしない」と思うのなら、「性犯罪者扱いされた」と被害者ぶって女性専用車両で嫌がらせをするのではなく、性暴力を許さない社会づくりのために行動するべきだ。そうすれば女性専用車両のいらない社会の実現にもつながるし、それは多くの女性たちも望んでいることだ。
「差別ネットワーク」では、世の中の男性たちに「一緒に活動しましょう!」と活動への参加を呼びかけて、仲間を増やしている。こういう人たちに「NO!」と言える男性が増えてほしい。私は中高生時代に「男なんてどうせそんなもの」と思った時期もあったが、活動する中で性暴力に反対する男性たちと出会い、Colaboにはたくさんの男性サポーターもいて活動を支えてくれている。
そういう出会いを通して私も男性への信頼を回復していったが、今でも性的な目にさらされ、セクハラなどの被害に遭うことはあるし、「やっぱり男性は信用できない」という気持ちになることもある。そんな時も、「暴力や差別に反対」と言う人々の存在に励まされてきた。過去の自分に、暴力や差別に加担してしまった心当たりがあったとしても、これから変わればいい。「もう終わりにしよう」と言っていけばいい。
先日、自らの性暴力被害を公表して訴えたフリージャーナリストの伊藤詩織さんらが呼びかけ人の一人になって立ち上がった「#WeToo Japan」には、私も賛同した。被害当事者としての「#MeToo」だけでなく、「私たちは性暴力を許しません」という当たり前のことを言葉や態度、行動で示していきたい。「#WeToo」なら、男性や、自分は暴力や差別の被害や加害の当事者でないと思っていた人も誰もが当事者となり、参加しやすいのではないかと思う。
「被害者が声を上げなくても、差別や暴力はダメだよね」と、当たり前に言える社会にしていきたい。
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faavoより
https://faavo.jp/tokyo23/project/806
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自分で作ってみましょう。
電車でようやく声を出したけど、周りは誰も助けてくれなかった。
そんな中で広がる「痴漢予防バッジ」です。
子どもを守ってください。