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さらばお代官様

2023年03月24日 | 社会・経済

袴田事件特別抗告断念が切り開いた日本の近代化

初の女性検事総長に期待される幼年期からの脱皮

JBpress 2023.3.24(金)

伊東 乾

 

 2023年3月20日、オウム真理教「地下鉄サリン事件」から28年目のこの日、日本の刑事司法の歴史に残る大きな「決断」が下されました。

「袴田事件」検察が「特別抗告」断念。

 この決定が持つ歴史的な意味は、どれだけ強調してもし切れません。

 皆さん、特に40年、50年と生きてきた大人の皆さんであれば、いままでの人生で一度や二度は、目も当てられない理不尽な建前で押しつぶされる人を見てきた経験があるのではないでしょうか?

 日本には、極めて残念なことですが「お代官さま」の前に「ひれ伏す」メンタリティ、江戸時代もかくやという非人権の極みのような心性が、21世紀の現在も残っています。

 暴れん坊将軍や天下の副将軍・水戸光圀公などに大衆人気があり、そうした「権威」が発動し、日頃は人々を無理やりひれ伏させている悪代官やら、その代官と「おぬしも悪よの」などと酒を酌み交わす「越後屋」などの政商が、一斉に黄門様などの前にひれ伏すのを観るのが大好き。

 そういう「権威の無謬性」を信じ込みたいという、度し難い封建根性をしっかり抱え込み続けている、その「日本病」が、やっと快癒に近づくかもしれない。

 それくらい歴史的な意味を持っているのが、袴田事件の再審開始決定に対する検察による特別抗告断念という判断なのです。

 敬愛する先輩である郷原信郎さんも強調しておられる今回の検察「断念」、少し違う角度から切り口を見せてみたいと思います。

「無謬性」を誇りたい土俗根性

 21世紀のグローバル社会、知的セクターがすべて共通して持っている基盤は「自分自身を疑う」「可謬性」の自覚を持つことにほかなりません。

 これには歴史があります。

 西欧社会はギリシャ・ローマの古代からソクラテスによる「汝自身を疑え」という格率以来、自らを疑う知性の伝統があります。

 加えて中世以降の西欧はキリスト教道徳を価値判断の中心においていますから、人間はすべて「罪」をもって生まれてきた、容易に誤った行動を取る存在に過ぎず、18世紀以降の社会契約説、近代法制も、すべての基本は「人間は誤りうる存在」という認識が基本になっている。

 法制度の基礎を巡るこうした問題は、刑法の團藤重光先生と6~7年にわたって深い議論を共有させていただきました。

(詳細にご興味の方は 團藤重光+伊東乾「反骨のコツ」などをご参照ください)

 とりわけ「死刑」を巡る議論では、ソクラテスの20世紀版とでもいうべきオーストリア=英国の哲学者「カール・ポパー」の「可謬主義」を背景に「裁判所の判決も、誤審を原理的に避けることができない」として「死刑廃止論」を展開されました。

 しかし、およそ團藤先生の生前、日本国内では受け入れる土壌がありませんでした。

「お上」は正しくお代官さまは無謬で、権威は絶対の正義で誤りなどあり得ない。「悪い奴は懲らしめればよく、死刑判決でも何でも、一度出したものは面子にかけて頑迷に固執し続けるのが正解」。

 こういう本音が日本の至るところにあった。

 率直に記しますが、東京大学も自らの「無謬性神話」に凝り固まった、救いようのない愚行を繰り返し続けてきました。

 2015年に五神眞さんが総長に就任して、それ以前とは大きく変わり、本当にまともなことが増えました。

 その詳細は今はまだ記しませんが、しかるべき時がくれば公開されることもあるでしょう。

 無謬性を誇りたい土俗信奉、これを固守させている大きな理由の一つは、これまた無謬をもってよしとする「役人のコトナカレ主義」、いわば宦官根性とでもいうべき前近代的な本音にほかなりません。

 どこかで愚にもつかない「役人による公文書の捏造」とかいう、あり得ない話がまだ続いている様子ですが、お役人にとっては「無謬」つまり瑕疵がないことが、つつがなく出世して行く第一条件ですから、書類の中に誤記などあってはならない。

 まして改竄、捏造などということは、それを強要された人が精神を崩壊させ、自ら命を絶つほどに「あるわけがない」事態であること、私も官学教授業四半世紀で、やまのようにケーススタディを見てきました。

 今回の「検察による袴田事件特別抗告断念」は、要するに「警察による組織ぐるみの証拠捏造があった」と裁判所が認定し、それに対して検察が異議を唱えず、司法判断の前に膝を折る、屈するという、我が国司法史上、かつてない事態が起き始めている歴史的事態になっているのです。

袴田事件で警察は何をしでかしたのか?

 ここで袴田事件と問題になるポイントについて、簡単に振り返っておきましょう。

 袴田事件は1966年6月30日、静岡県清水市で発生した強盗殺人放火事件で、味噌製造会社の重役一家4人が殺害、自宅に放火されるという凶悪事件です。

 被告人として起訴された元プロボクサー、袴田巌氏(1936-)の名をとって「袴田事件」と呼ばれています。

 公判では一貫して無罪を主張。1980年の最高裁判決で死刑が確定したものの、30年以上にわたって再審請求が繰り返され、2014年に静岡地裁が死刑ならびに勾留を停止、47年ぶりに東京拘置所から釈放されました。

 検察が今回下した「特別抗告断念」の判断は、事件から1年も経過してから、被告人が勤務していた味噌製造会社の味噌樽の中から発見された「犯行時に着ていた血の付いた衣類」などの証拠が、まるごと警察の捏造したものである可能性が「極めて高い」とした東京高裁部総括判事・大善文雄裁判長の画期的な判断を検察が追認した。

 つまり、「お上は何があっても正しく」「権威は無謬、検察は絶対の正義」という従来の建前論が音を立てて崩れ、「1960年代の警察は組織ぐるみで証拠の捏造などしていても、何の不思議もない」と、検察自らも初めて認めたという、本当に画期的な判断になっているわけです。

「冤罪づくりで出世」の悪循環

 事実、1966~67年にかけての袴田事件取り調べは言語道断な非人権的なものでした。

 何しろ炎天下に1日12時間、最長では17時間連続して行われ、また排泄の自由など尊厳を奪われ、取調室に便器が持ち込まれて、捜査官の目の前で用便させるといった人間の尊厳を踏みにじる形で調書が採られたことが伝えられます。

 睡眠を与えずフラフラの状態で、拘留期限の3日前になって「自白」させたことになっていますが、強要した自白調書はあまりにもめちゃくちゃなので、一審判決でも証拠採用されていません。

 こうした手法は、確信犯で冤罪を作り続けたとして悪名高い静岡県警の警察官、紅林麻雄に由来するものと考えられています。

 紅林は戦前、戦時中から「冤罪づくり」で出世し続けた警官で、真犯人から賄賂を受け取って冤罪を捏造していた疑惑も今日では知られるとんでもない人物だったようです。

 その紅林自身は今から60年前、1963年に死んでいますが、死後の66年に発生した袴田事件でも、静岡ではその手法が踏襲され続け、冤罪がでっち上げられた可能性が高い。

 袴田事件に関しては、裁判官の立場からも良心の呵責からなされた告白があります。

 袴田事件一審死刑判決に左陪席判事として加わった熊本典道裁判官は、袴田無罪の心証を持ちながら、雰囲気に流され、裁判長と右陪席判事の説得にも失敗、死刑判決に名を連ねました。

 しかし、良心の呵責から2007年、生涯の守秘義務を破って「合議体の分裂」の内幕を公表します。

 実際、死刑の判決文でありながら、熊本判事が起草した一審判決には、警察による証拠捏造が透けて見える捜査状況への異例の強い非難が記されています。引用してみましょう。

 ・・・その後、公判の途中、犯罪後一年余も経て、「犯行時着用していた衣類」が、捜査当時発布されていた捜索令状に記載されていた「捜索場所」から、しかも、捜査官の捜査活動とは全く無関係に発見されるという事態を招来したのであった。

 このような本件捜査のあり方は、「実体真実の発見」という見地からはむろん、「適正手続の保障」という見地からも、厳しく批判され、反省されなければならない。本件のごとき事態が二度とくり返されないことを希念する余り敢えてここに付言する。

 

 これを今回、大善文雄裁判長が法廷としてハッキリ認めたわけですが、それに57年というとんでもない時間が必要だった。

 大善裁判長は1986年任官ですから、袴田事件の最高裁判決が確定した6年後に新人判事として任官した人が、東京高裁で責任を持つ立場になって初めて「お代官様」無謬の構造を正面から否定することができた。

 そしてこの判断に対して検察が「初めて」疑義を呈さなかった。

「何が何でも検察が絶対の正義」という幼稚でくだらない無謬性の主張を初めてしなかった。

「幼年期の終わり」に差し掛かっている希望が持たれているわけです。

初の「女性検事総長」に寄せられる期待

 どうして検察はこのような判断を下したか?

 その一因として、2023年1月10日に女性として初めて東京高検検事長に就任した畝本直美検事長の判断があった可能性が考えられています。

 原田明夫~林真琴~と続く、前近代体質から検察を脱皮させる良心的な傾向が大きく実を結びつつあるのを感じます。

 男は面子にこだわり、恥の文化に凝り固まってウソでも強弁でも何でもしてしまう、もろく弱い生き物と思います。

 概して男の嫉妬は女性のそれよりはるかにメメしく、陰湿で後を引きやすい。私も男ですので、いろいろ含め、そう思います。

 これに対して女性は是々非々がはっきりする傾向が強い。

 ペケならペケでむしろあっさりしている。恋愛からの離別などでも、いつまでもズルズルしているのはメメしい男で、女性はぺキッとヒビが入ると、ハイそれまでよ、とあっさりしているケースの方がよほど多い気がします。

 そういう「メメしい男社会」の虚勢文化としての権威主義、お上の「無謬性」が、封建後進国メンタリティの日本でも、ようやく覆されつつあるということなのでしょう。

 畝本検事長は女性初の検事総長に就任するとみられており、ここで本格的に「お代官様」の無謬性という、幼稚な封建心性から日本が本格的に卒業する本当の入り口に立つことができそうです。

 期待しないわけにはいきません。


期待したいところですが、連合会長の悪例もあり、見守りたいところです。

以前コメントに

「郷に入りては・・・」「長いものには・・・」これではいつまでも変りませんね。「お上のやること・・・」ですから。

と書いた。

まさに、日本人の封建的、前近代的な本音があったのですね。

もう一つ注目すべき記事。ベトナム実習生の「遺棄罪」無罪判決が出ました。

 


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