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障害のある子もない子も、ともに学ぶ「インクルーシブ教育」は日本でも実現できる? ~国連障害者権利委員会の勧告を受けて

2022年11月29日 | 教育・学校

一木玲子(東洋大学人間科学総合研究所客員研究員)

(構成・文/仲藤里美)

imidasオピニオン 2022/11/25

障害者権利委員会の「勧告」とは?

 2022年9月、国連の障害者権利条約委員会が日本政府に対し、障害のある子どもに対する「特別支援教育の廃止」と「インクルーシブ教育の実現」などを含めた「勧告」を出しました。ニュースを見て「勧告」って何のこと? と思った方もいると思いますので、まずはそこからご説明したいと思います。

 障害者権利条約は、すべての障害者の権利と尊厳を守ることを目指して、2006年に国連で批准された条約で、日本は14年に批准しています。
 条約の批准国には、法律の改正など条約の内容に沿った国内整備を進める義務があり、その進捗状況について、条約に基づいてつくられた「障害者権利委員会」(以下、権利委員会)に定期的に報告書を提出しなくてはなりません。この報告書をもとに権利委員会が各国の状況を評価・審査し、まだ足りないと思われる点について改善を勧告するわけです。
 といっても、報告書をチェックするだけの機械的な審査ではありません。報告書は政府だけではなく、その国の障害者当事者団体や支援団体なども提出することができます。権利委員会は、「パラレルレポート」と呼ばれるそれらの報告書にもくまなく目を通し、団体からのヒアリングも行った上で、各国政府との対話を重ねて評価を行うのです。こうした過程は「建設的対話」と呼ばれています。
 そして、今年8月22日から23日にかけて、日本政府にとっては条約批准後初となる審査がスイスのジュネーブで行われました。これに先立ち、私が関わっている市民団体「障害児を普通学校へ・全国連絡会 」をはじめ、9つの障害者関連団体がパラレルレポートを提出。さらに、障害当事者・関係者100人以上が審査に合わせてジュネーブ入りし、権利委員会と日本政府との対話を傍聴するとともに、日本の障害者を取り巻く状況を伝えるためのロビー活動などを行いました。

 私は残念ながら現地へは行けず、オンラインで対話の様子を見ていたのですが、権利委員の皆さんが非常によく報告書を読み込み、真摯に議論をされている様子が伝わってきました。また、18人いる委員のうち、17人が車椅子ユーザー、視覚障害者、難病患者、知的障害者などの障害当事者。「私たち(障害者)抜きに私たちのことを決めないで」というスローガンのもとで誕生した権利条約にふさわしい、障害当事者の目線に立った審査だったと感じています。
 9月に報じられた「勧告」は、その成果として出されたものです。教育分野においては、日本で特別支援学校や特別支援学級といった「分離教育」が続いていることに対する懸念が表明されました。障害者権利条約においては、障害を理由に学ぶ場を分けるのは明確な差別であると考えられているからです。同時に、障害のある子もない子もともに学べる「インクルーシブ教育」の実現に向け、国の行動計画を策定することも強く要請する内容になっています。

インクルーシブ教育とは──――多様な子どもたちが一緒に学べる場

 では、その「インクルーシブ(包摂する)教育」とは、どのようなものなのでしょうか。
 障害者権利条約との関係で考えれば、「障害のある人が、障害のない人とともに学ぶ」、つまり障害のない人を排除せず、包摂する教育ということになるでしょう。しかし、障害者権利条約の一般的意見(条約の規定の解釈を述べた文書のこと)4号には、インクルーシブ教育の定義として「あらゆる可能性のある児童・生徒・学生が同じ教室で一緒に学ぶこと」(*)と あります。
*「国際障害者権利条約一般的意見4号におけるインクルーシブ教育の定義」 一木玲子 教育学論集 第64集抜刷 2022年3月発行 中央大学教育学研究会 より。Easy Read Version 

 つまり、「包摂される」対象となるのは、障害のある子どもだけではなく、LGBTQの子ども、外国にルーツのある子どもなど、あらゆる特性を持つ子どもたち。そうした多様な子どもたちを包み込み、一緒に学んでいけるように、学校のあり方そのものを改革していくのがインクルーシブ教育なのです。しばしば誤解されるのですが、障害のある子どもをただそのまま普通学級に通わせるようなこととはまったく異なります。

 そのことを示したのが、次の図です。(省略)

 障害があるなど、マイノリティの要素を持つ子どもをまったく集団の中に入れず、そのまま放置している──たとえば、そもそも学校に通わせないなど──のが「エクスクルージョン(排除)」だとすれば、マイノリティの子どもだけを別の集団に分離するのが「セグリゲーション(分離)」。今回、権利委員会から廃止を勧告された特別支援教育は、これに当たると考えられます。

 そして、「みんなが一律であるべき」という価値観の中に、マイノリティの子どもがそのまま放り込まれるのが「インテグレーション(統合)」。たとえば、障害のある子を普通学級に何の配慮もなしに通わせることなどは、これに当たるでしょう。そこには、「障害のある子は、療育を受けて障害を乗り越えなくてはならない」というような、その子の特性に対するマイナスの評価がつきまとっており、一歩間違えば排除や分離にもつながってしまいます。

 それらとは根本的に異なり、「みんなが多様なんだ」という価値観を前提に、「障害があってもなくても、あなたはあなたのままでいい」として受け入れるのが「インクルージョン(包摂)」です。もちろん、その子どもが授業に参加する意思があるのであれば、参加できるようにするための合理的配慮が必要だということになります。

 ちなみに、どのような配慮が必要かは、その子によって異なります。介助者が必要な子もいれば、そうではない子もいる。何が必要なのかを、当事者や保護者と話し合って考えていくことが重要です。

授業のあり方自体を改革していく

 といっても、インクルーシブ教育においては具体的にどのような授業が可能なのか、なかなかイメージがしづらいかもしれません。「知的障害のある子が同じ教室で一緒に授業を受けても、理解できないからその子のためにならないのでは?」といった声もよく耳にします。

 でも、世界を見回してみれば、「一緒に学ぶ」場を実現させている国はいくつもあります。障害のある子が同じ場で学べないのは、その子に問題があるからではなく、設備や制度が整っていないなどの社会的な障壁があるから。であれば、合理的配慮によってその障壁を取り除くのは当然だ──。そうした考え方に基づいたインクルーシブ教育が、すでに進められつつあるのです。

 たとえば、以前私が訪れたカナダの学校では、その日決められた授業のテーマについて、子どもたちがそれぞれ自分のペースで課題に取り組むという形の授業が行われていました。教材も、障害のある子向けのもの、英語の話せない子向けのものなども含めて多種多様に用意されていて、どれを使って学んでもいい。取り組み方も、1人でじっくり考えてもいいし、友達と協力してやってもいい。みんなで同じことをするのではなく、それぞれがそれぞれのやり方で課題に取り組み、授業の最後にみんなで集まって「このテーマについて自分が学んだことは何か」を発表し合うのです。もちろん、その子の状況によっては、特別支援教育で行われているような内容を、サポートを受けながら学ぶことも考えられます。

 つまり、日本の一般的な学校のように、みんなが教室に並んで座って、先生の話を一緒に聞くという形の授業方法自体が、インクルーシブ教育においては否定されていると言えます。「学ぶ」主体はあくまで子どもたちであって、先生はそれを支える役割に過ぎない。そして、学校には当然多様な子どもたちが通うのだから、その子どもたちが一緒に学べる環境をつくらなくてはならない。そういう発想から授業の組み立てがスタートしているわけです。

 日本において、これと非常に近いことが行われているのは、一部のフリースクールかもしれません。近年、不登校になってフリースクールに移る子が増えているのは、普通学校が多くの子どもたちにとって楽しく過ごせる場ではなくなっているから。つまりは、多様な子どもたちを包摂できる「インクルーシブ」な場になっていないからとも言えるのではないでしょうか。このことからも、インクルーシブ教育が決して「障害のある子どもだけの問題」ではないことが分かると思います。

 また、こうした授業のあり方の改革は、当然ながら「教育」というもの全体のとらえ直しにもつながります。カナダをはじめとするインクルーシブ教育の先進国では、暗記中心の教育から「どう考えるか」「どう思うか」を重視する教育への転換が進んだことで、知的障害のある人が大学に進学するケースも増えてきていることも、申し添えておきたいと思います。

「日本ではまだ無理」ではない

 では、日本でインクルーシブ教育を実現していくためには、何が必要なのか。

 現状ではまだまだ条件が整っていないし、取り入れるのは難しいでしょう、と言われることもよくあります。でも「条件が揃ってから」と言っていては、何も始まりません。まずは手を付けてみて、問題に直面したら「ではどうすればいいか」「どこを変えれば進めていけるか」を考える。そうしたゆるやかな形でいいから、とにかく「スタートさせる」ことが重要だというのが私の考えです。

 ユネスコが2005年に発行した文書「インクルージョンへのガイドライン」 では、多様な子どもたちが同じ場で学べる環境をつくっていくために学校を改革していく、その「プロセス」がインクルーシブ教育だと定義されています。「どうすれば実現できるか」を考え、試行錯誤していく過程そのものが重要なのです。

 制度面でいえば、まず手を付けるべきは、勧告でも指摘された「障害があっても普通学校に通いたいという子どもを拒否しない」ことではないでしょうか。文科省は「学校選択にあたっては、本人や保護者の意向を最大限尊重している」 と言っていますが、実際には教育委員会が決定権を持っていて、特別支援学校への進学を事実上強制されるケースも多くあります。「普通学校に通うという選択肢があること自体を知らなかった」とおっしゃる保護者の方も少なくありません。これは、法律を変える必要もなく、文科省が教育委員会に通達を出せば解決する問題ですから、すぐにでも実行すべきだと思います。

 それと並行して、特別支援教育から普通教育への予算配分の移行などを進めながら、普通学校に多様な子どもを包摂できるようにするための法制度の見直しを進めていく。たとえば、障害のある子が普通学級に通う場合に、追加で教員を配置できるようにする、あるいは特別支援学級や特別支援学校で障害のある子の教育に携わった経験を持つ教員を普通学級に配置していくなどの工夫も必要でしょう。

「日本ではまだまだ無理」と思われがちなインクルーシブ教育ですが、実は全国を見回せば、先行事例もたくさんあります。中には、大阪府豊中市や兵庫県芦屋市など、障害のある子が普通学級で一緒に学ぶための取り組みを、40年以上前から続けてきている地域もあるのです。

 そうした学校に通う子どもたちを見ていると、子どもたち同士が非常にいい関係をつくっていると感じます。たとえば車椅子を使っている友達がいる、運動会の徒競走をどうするか――となったときに、みんなが真剣に話し合って「どうすれば一緒に楽しめるか」を考える。そうした経験の積み重ねが、大人になったとき、障害のある人と一緒に社会の中で生きていくための知恵を出し合うことにつながっていくのではないでしょうか。

 さらに、インクルーシブ教育に長い歴史のある地域では、すでにそこで育った子どもたちが教員になって地元に戻ってくるケースも出てきています。彼ら、彼女らは、小さいころから障害のある子と一緒に育っているから、それが当たり前だという感覚を持っている。むしろ、障害のある子がクラスに1人もいないと「あれ、うちのクラスにはいないんですか?」と意外な顔をするほどです。

 そうした感覚を持った人材は、すでに育ち始めているのです。

 今回の権利委員会による勧告では、2016年に神奈川県相模原市で起こった「やまゆり園事件」にも触れられていました。障害のある人たちがなぜ、地域社会から切り離された入所施設で暮らさなくてはならなかったのか。その背景には、能力主義と優生思想が蔓延する日本社会の現状がある。そしてそのことがこの事件を生んだのではないかと指摘されているのです。

 もし、本当に日本社会に「能力主義と優生思想が蔓延している」のだとしたら、それを生んだのは学校であり教育にほかなりません。そして、そうした状況を変えていけるのもやはり教育でしかないと思います。

 障害のある子もない子も、多様な子どもたちが一緒に学べる場を、当たり前のものに──。今回の勧告を受けて、今こそインクルーシブ教育の実現に向けた取り組みを本格化させるべきだと考えます。


青森の五所川原に住む元同級生から弘前のリンゴが送られてきた。
毎年嬉しい贈り物だ。


 今日は一日中☂夜中から⛄に変わる予報である。その後は⛄マークが連日ついている。いよいよ根雪になるだろう。12月からは真冬日もだんだん多くなってくる。



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1 コメント

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Unknown (nerotch9055)
2022-11-29 20:17:27
こんばんは!
前の会社で、障害者の方がいました。
一緒に仕事をしても、普通の人あまり変わりはありませんでした。
今回の記事を読んで、もし学生の時にあの人が同級生で一緒だったとしても
普通に接する事ができたか、と考えると難しそうです。
だいぶ、考えさせられました。
(・・;)
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