東京★秩父★函館ノマド生活 末端社長!森田博の公式ブログ

趣味の世界と零細企業末端社長としての近況報告。
書きたいことを書き、たまにアッと驚くことを発表する。

たまにはカミサンをアゲ!

2008-07-19 19:27:49 | ラスト
たまには細君を持ち上げる日記を書こう!
いつも醜態ばかりとっているので、まともな事をしていることも、載せておこう。

細君は、ロシア語の通訳、アテンドなどをやっている。もちろん、私は「ダ(ロシア語ではいの意味)」くらいしか解らず、巻き舌のお経にしか聞えないのだが、語学力というのはうらやましい限りである。
 何せ話ができるのだから。異国の人と。
 私に「もしも●●語が話せたら、思いのすべてを歌にして、国の誤解を解いてみたい・・・」

そんなかっこいいことは難しいとしても、細君はシベリア抑留者の異国の地で土となった人々の墓参団に通訳として毎年行っている。
 6年間も、カムチャツカに棲んでいた自体、ただ者ではない!

これくらい持ち上げておけば、少しは小遣いが増えるかもしれん。


先日、「異国の丘」で有名な 故 吉田正 先生の番組を手伝わせてもらったので、吉田先生が抑留されていた仲間かもと思いました。
 戦争の愚かさ、そして残される痛ましい歴史が、今、風化しようとしている。

 私たちは、忘れてはいけない。忘れさせてはいけない。

墓参団は、今も草の生い茂るシベリアの地をかき分け、「異国の丘」を合唱し聞かせている。

http://www.uta-net.com/user/phplib/Link.php?ID=13834
異国の丘

悔しい!

2008-07-19 01:52:40 | ラスト
先日の仕事でナレーションが吉永さんだった!

MAにはあまり行かないが、合間をぬって、いったら終わってた。その上、みんな見送りに行っていてもぬけの殻。

写真をいっしょにとるなんて、僕も・・…

(肖像権があるので期限付き掲載に致します)

その進言、あっぱれ!」

2008-07-18 09:37:08 | ラスト

『甲州法度』


●「人の一生は重荷を負って遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。
不自由を常と思へば不足なし。心に望みおこらば、困窮したるときを重ひ出すべし」など、徳川家康が残した家訓は、今の時代でも通用する智慧が多い。

江戸時代に起こった豪商たちも戦国武将の家訓を参考にしたものが多いようだ。

●家訓とは、主人が子孫や使用人に書き残した教訓や遺言のことで、家系の存続と繁栄を願って作られたものである。

「藤堂高虎の200箇条」や「上杉謙信の16箇条」、「北条早雲の二十一箇条」などの家訓も有名だ。

●「家訓」が親族にあてた教訓ならば、統治国を管理するときの憲法にあたる法律作りも必要だった。

たとえば、家康が諸大名や公家を統制するために作った「武家諸法度」「公家諸法度」。

築城の禁止や参勤交代制度など、この「諸法度」を厳密に管理運用したおかげで、徳川幕府は260年もの永きにわたって日本を統制できたと考えられる。

●戦国武将がそれぞれ知行する国を「分国」と呼んでいた。

当然その分国を管理するための「分国法」が必要で、伊達氏の「塵芥集」や、今川氏の「今川仮名目録」、朝倉氏の「朝倉孝景条々」、長曽我部の「長曽我部元親百箇条」など多数の分国法が記録として残っている。

●武田信玄が作った「甲州法度」(こうしゅうはっと)も有名だ。

NHK大河ドラマの『風林火山』では、父・信虎(仲代達矢)を追い出し、家督を継いだ息子・晴信(信玄)が、皮肉にも信虎化し始めている。

晴信のセリフ、「家督を譲るも譲らぬもこのわしの胸三寸じゃ」というセリフは、父信虎がせがれ晴信にはいたセリフと奇しくも一緒。

●晴信の暴走を危惧する家臣たち。折から、「分国法」の草案を制定する大役が、若手家臣の駒井政武と春日源五郎に命じられた。

苦労のあげく、草案を提出する。

●以下、『風林火山』の場面
・・・
晴信:(分国法の条文案を読み終わり、いたく満足げに)
 「みごとじゃ。大儀であった」 

駒井:「恐れながら、それにはまだ、一か条足りませぬ。その法度の 末尾に、親方様みずから、お付け加えいただきとうございます」

晴信:(なんじゃ、という表情を浮かべる)

駒井:「一つ。晴信行儀に於て その外の法度以下に相違の事あらば 貴賎を選ばず 目安を持って申すべし  時宜に依り その覚悟を 成すべし」
 (もし、主君晴信の行いといえども、この法度に違反しているのを 目撃した者は、身分に関係なく目安箱に投書してよい。それだけの 覚悟をもって、定める法なり)

駒井:「それでこそ、まこと正しき法度になると存じます」

晴信:「わし自らに守れと・・・」

 しばし駒井をにらみ、絶句して後、

 「その進言、あっぱれ!」・・・


天文16年(1547年)6月、『甲州法度之次第』(略して「甲州法度」)成立の瞬間である。


●戦国時代において、国主自らが守ると約束し、それを破れば自ら罰を受けると公約した分国法は極めてめずらしい。

「人は石垣 人は城」の武田家の真の強さは、この瞬間から始まったと私はみている。

●すべての会社には就業規則や服務規程がある。

信玄の「甲州法度之次第」のように、活きたものになるべく、一条一条を命ある条文にしていこう。

そして、最後に社長直筆でこう付け加えよう。

「一.社長といえども、この規定に相違あらば所定の罰則を受くる。 もし社長の規定違反を目撃した社員がいれば、ためらわず上司に進言すべし」

●自らを持って、気をつけたいものだ。自助努力を怠る長の末は「お取り潰し」である。

それは、迷惑なのは社員であることは明白だ。被害者である。

しかし、社長の暴君を放置した社員にも非はいがめない。

●一連の食品偽装のインタビューで「ワンマンだった」「一代で財をなした」など謀反に近いインタビューが目に付く。

しかし、「偽装に手を貸した」ことには違いはない。
社長は当然責任を問われるが、「公然と自社を悪く言うものは・・…」
・…雇いたくないな。

社長・社員一丸となって謝罪会見に臨むべきだ。



『無敵の弾丸タックル』

2008-07-14 12:52:19 | ラスト
●元・全日本王者が自宅の玄関脇の10畳部屋を改装し、レスリング道場を始めたのは34才の時だった。

子どもたちにレスリングの魅力を伝えたいと、掲げた目標は「楽しく」だった。楽しくなければ子どもも親も喜んでくれないし、道場も繁盛しないからだった。

●子どもたちは本当に楽しくレスリングを学んだ。そして、最初の大会で道場の教え子26人は全敗した。

「楽しければいいじゃないか」、「結果なんか二の次だから」という声もあった。でも、「勝ちたい」という声の方が父母からも子どもからも強くなった。

●「ならば」

と道場長の吉田栄勝は、方針転換を決意した。彼は鬼になった。
鬼に徹した。「攻めが大事なんだ」と延々とタックルをくり返した。
あまりの練習の激しさに気絶する生徒もいた。県の教育委員会から指導が入ったこともあった。やめる子が続出しても栄勝はもう迷わない。
鬼を貫いた。

●栄勝はかつて、フリースタイルレスリングの全日本王者。
「返し技の吉田」の異名を取る防御の名手だった。だが、そんな栄勝選手でも絶妙なタイミングでタックルを決められるときは防ぎきれなかった。
「オリンピック代表になる」という栄勝の悲願も、対戦相手の鮮やかなタックルの前で叶わぬ夢となった。
その辛くて苦い経験から、「タックルを制する者はレスリングを制す」という強い信念が生まれた。

●栄勝は、道場の子ども達に攻めのタックルをスパルタ指導した。それに耐え抜いた選手のほぼ全員が日本一になった。

そのうちの一人が自分の娘・沙保里(さおり)だった。

本当は沙保里の兄たち二人を五輪選手に育てたかった栄勝。この当時、女子レスリングが五輪正式種目になるとは思ってもいなかった。ましてや、娘が金メダリストになるなんて夢にも思っていまい。

●吉田沙保里は5才の初戦では6-7で判定負けした。
相手は同年の男の子だった。
試合はまだ残っていたが、沙保里は「負けたから嫌」と帰ってしまった。この大会で優勝したのはその男の子だった。それを聞いて沙保里は、親にねだった。「私も金メダルがほしい!!」
父・栄勝は言った。
「金メダルはスーパーに売っとらん。がんばった人しかもらえんのや」

●沙保里は小学生になっても中学生になっても無敗というわけにはいかなかった。そのたびに負けずぎらいの沙保里は悔しくて、悔しくて、猛練習した。そして強くなっていった。

沙保里の代名詞となる「無敵の弾丸タックル」はこの時の猛練習が育んでいったものだ。

●道場を開いて22年たった。3才で練習を始めた沙保里は25才になった。

2001年の全日本女子選手権56kg級準決勝で、ライバル山本聖子選手に判定負けしたのを最後に、公式戦119連勝を記録する女王とよばれるまでの選手になった。

国際大会では1996年以来27大会連続の優勝を記録したが、今年1月に中国で開催された女子ワールドカップ団体戦でマルシー・バンデュセン選手(アメリカ)に判定で敗れ連勝記録がストップした。
それは国際大会での初黒星でもあった。

●中国の沙保里から電話が入った。彼女は電話の向こうで号泣していた。栄勝はひとつだけ聞いた。

「自分から攻めたんか?」

その言葉の奥には、「守りは教えとらん。うちの家訓は攻めや」という思いが込められていた。

娘の敗因は「タックル返し」だと分かり、栄勝はうなずいた。

「それならいい。もし攻められて負けたんなら、明日はないよ」

●その二ヶ月後、沙保里はアジア選手権で優勝し復活を果たす。しかし北京五輪でバンデュセン選手を破り、五輪連覇を果たすまでは本当の復活だとは思っていない父娘だろう。

●栄勝は三人目も息子を望んだが、母・幸代は娘が生まれて大喜びした。「可愛い名前を」と、アイドルにちなんだ名前をつけてやった。
「さおり」は南沙織から、「保」は河合奈保子から1字もらったという。

そんな沙保里の「無敵の弾丸タックル」を北京で期待したい。

●「攻めたんならいい。もし、攻められて負けたんなら明日はない」

この栄勝のメッセージは、会社経営にも通ずるものではなかろうか。

※(敬称略、参考・中日スメ[ツ2008年7月10日号 19面、他)