「北朝鮮帰還事業再開デモ」があった。主催は右派系の市民団体。1959年からの在日の祖国帰還事業が今更再開されるわけがない。が、デモは重要な問題を提議しているのだ。しれは帰還事業を推進した総連も共産党もいまだその総括を行っていないことだ。
彼らは「失敗であった」とは決して言わない。
これは北朝鮮政府も同様である。帰国した在日と日本人妻は「祖国の胸に抱かれて幸せに暮らしている」という建前は不動である。ならば、在日は祖国に帰って幸せに暮らして欲しいというデモの皮肉なロジックを批判はできないのである。しばき隊がデモを「レイシズム」と罵倒している。これはおかしい。
北朝鮮政府も総連も社会党(社民党)も日本共産党も足並みを揃えて、帰国事業に賛成した。脱北し、日本を目指す在日がこれほど増えても、いまだに「失敗だった」「誤りだった」の総括もしていない。ならば、帰国事業再開が在日に対するレイシズムになるわけがないではないか。
脱北して総連に騙されたと裁判に訴えた女性がいる。だが、彼女は敗訴。総連は「我々に責任はない」。日本の裁判所も誰に気兼ねをしたのか知らないが、その言い分を認めたのである。帰国者問題を国会で最初に取り上げたのは70年代、当時の民社党の永末議員だけだった。
帰国事業は当時も今も、国会でも裁判所でも非人道主義的行為だったと認定されていない。ならば、しばき隊の「帰国再開は人権問題」というロジックが成り立つためには、北朝鮮の体制が非人間的なものであることが大前提になる。
しばき隊はそれを口にしたことがあるのか。全く聞こえてこないのだが。
帰国事業が歴史的な犯罪行為であったことは今日では常識だ。
「帰国事業再開デモ」に向かってしばき隊が恫喝まがいの反対行動を行うのなら、そこには祖国帰還が間違っていたという認識が必要となる。ならば、あなたたちが「ヘイト」すべき相手はデモ隊ではない。在日の生き血を吸った朝鮮総連である。
朝日新聞の記者が官庁が配布した100p近い資料を喫茶店のゴミ箱に捨てていたことが発覚。信じがたい緊張感のなさ。新潟日報のレイシスト報道部長もひどかったが、これも同様だ。今やマスコミは長期低落産業。この程度の連中しか在籍していないのだろう。
ろくでなし子界隈のツイッターが面白い。彼女を攻撃する「人権派」が新潟日報レイシスト部長については何も言わないところが笑える。新潟日報「ジャーナリスト」も韓国人テロリストにも触れない「差別反対」と言う漫画的状況。彼らはひたすら総連と金正恩にやさしい。
ユーチューブにアップされているシールズ防衛隊の暴力性がすごい。新潟日報のレイシスト部長と瓜二つ。これも見てもシールズを褒め称えるメディアと「文化人」のいい加減さが理解できる。防衛隊としばき隊がリンクするところにサヨクの末期性を実感する。
政治というものは怖いものである日突然情勢が変わる。いわゆる潮目というやつだ。今やレイシストしばき隊をしばきたいという「世論」に風向きは変わってきた。それはそうだろう。在特会どころではない。本物の虐殺者、「人殺し」金正恩にはなにもいわない、しばかない「人権派」のでたらめさ。
「母と暮らせば」。長崎原爆投下を題材にした吉永小百合と山田洋次監督の新作。小百合はミニコミで「原爆と戦争の悲惨さ」を語る。「平和を祈る気持ち、戦争を拒む姿勢」。同感だ。核の悲劇を繰り返さないために北朝鮮のあの体制を許してはならない。戦争を憎むがゆえに、安保法制が必要なのである。
「母と暮らせば」。山田洋次監督は原爆で息子を失った母の苦しみと悲しみを映画に託したという。ならば、平和憲法下に暮らしていたわが子、わが娘を不当に北朝鮮に奪われた側の「母の悲しみ」はどうなっているのだろうか。ましてやその国は核は自主権と居直る国でもある。監督、北の核には沈黙なのか。
吉永小百合は罪深い女である。代表作「キューポラのある街」で、在日の祖国帰還運動をさんざん煽りながら、「地上の楽園」に帰国した在日朝鮮人が味わった地獄には何一つ言及もしない。彼女が政治を論じるのなら映画出演者として語るべき言葉があるはずだ。北の核には抗議もしない「反核」女優。
小百合がなぜ「大女優」に出世したのか。「顔がきれい」だからである。「小百合は田島陽子と同じことをしゃべっても叩かれない.小百合=絶賛、陽子=罵倒と言う現実。「顔のきれいでない」陽子はフェミニストからの応援すらない。
安倍死ねと平気で言うフェミたちは美醜による差別にはしらんぷり。
私が吉永小百合さんを批判するのは、映画を通じて政治的メッセージを表明したいのなら、その結果についても引き受けるべきであると思うからです。「母と暮せば」が「反戦」の意思表明だというのなら、では、帰国運動を肯定した「キューポラのある街」についてはどう思っているのか、という話なのです。
代表作「キューポラのある街」の帰国運動について、吉永さんは何の発言もしていません。帰国運動の無残な実態。善意の日本人が善意で彼らを送り出した。だが、それは悪魔の所業であった。映画を通じて政治的意思表示をするというのなら、「キューポラ」への沈黙は政治的ご都合主義だと私は思います。
ドイツのメルケル首相が難民を徐々に減らすと発言。理念としての「共生」は美しい言葉でも、現実の「共生」は負担コストの増大、文化摩擦の頻発など、ドイツ社会を内部から混乱させうるのです。そして最後はゼニの問題。他人事でありません。北朝鮮崩壊で日本が負担する支援金は兆単位になるはず。
私がこれまで対中援助について警告してきたのは、終わりがないこと。
植林事業に続いて、財務省が管轄するアジア開発銀行が大気汚染に200億円の資金を供与決定。何があっても日本からの援助(直接、間接)は続くのです。国民の意思は全く無関係。
次は朝鮮半島です。「共生社会」の始まり。
難民問題を考える際に重要なのは欧州の場合はシリア、イラクの失政のつけを押収国民が払わされているという本質。フォーリアンアフェアースが難民を生み出した国家の責任を問うべきだと指摘するのは一つの見識。日本はどうか。金ファミリーの犯罪的統治のつけは日本人が税金で払うことになるのです。
朝日的贖罪史観にないのはこういう視点です。中国への謝罪が世界1の経済支援につながり、それを中止するといっただけで、最高指導者が「中国国民の怒りに油を注ぐ」と口にするほど既得権益化してる現実。「賠償金は入らない」と言ったのは中国の周恩来。
そこには触れない贖罪新聞社。
不思議なのはどちらも「日朝平壌宣言を破棄しろ!」とは言わないこと。「破棄すれば北との対話ルートが途切れる」との声。しかし対話ルートがあっても小泉訪朝から13年間、基本的に何の成果もなかったのだ。今回も北は無回答。宣言遵守が何か役にたっているのだろうか。
北朝鮮が日朝協議再開に際して、最重要視したのは安倍政権の側に「平壌宣言」を順守する姿勢があるのかかどうかだった。理由は宣言に盛られた経済援助が具体的で膨大だったからだ。その中身は「日朝正常化の密約」(祥伝社)を参考に。ミスターXとこれを作成した外務省の槇田の正体はNLCで書く。
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