胡子無鬚
2012-01-21 | 日記
或庵和尚が問う、西から来た祖師に髭がないのは、何故なのか?
ダルマ(法)と一体であれば、ひげ(法)が見えないのは道理。
法を認める瞬間には、法の抜け殻(影)と我の二人連れとなる。
事実(今)は認識の以前に在って、法と我は一如に動いている。
法と一体である処(今)は、認められる法も認識する我も無い。
法が認識される瞬間には、既に法と我に分かれてしまうだろう。
対象を認める処は、見ている我(過去)が既にそこに居るのだ。
認識後に見てる対象は、事実に映す我の影(過去)に過ぎない。
分別が立つ処は我の懐に他ならず、文字の上には既に法は無い。
物事を認識している自我が不在ならば、一切は法に他ならない。
随所の只今に我を忘じる処は、認識の対象も無に帰ってしまう。
無心の処には我も対象も無く、迷う者も悟った者も居ないのだ。
「花は無心で蝶を招き、蝶は無心で花を尋ねる」 ..良寛
今日の縁: 第4則 胡子無鬚(こすむしゅ)
http://www.asahi-net.or.jp/~zu5k-okd/house.14/mumonkan/gate.3.htm