麻三斤
2017-02-06 | 日記
念は自己を中心に、過去へ未来へと彷徨う既知の影法師。
念も今に生じて滅す今に在るが、念の内は過去を離れず。
法は念処に留まらぬ故、問が直に事実を示す方便となる。
他人の答えに納得する処は、自己を忘じる機縁とならず。
文字は既知の懐ゆえ、思考の着地点もまた過去を離れず。
概念的な理解、知識、納得は我の懐の内、故に法に非ず。
解脱は既知を忘じて過去を離れ、只今に覚す無念の念処。
問に応じて答えを返す処は、自ら直に見る処の当たり前。
一切は主客の狭間の事実、過去の心象や概念の屍に非ず。
認識する主体とされる客体の有無は、我の生死に等しい。
有無の、有は只今の縁に生ず処、無は只今の縁に滅す処。
論理は既知を破らぬ故、即非が既知を覆して未知に帰す。
法は既知に住さぬ処ゆえ、麻は麻に非ず、故に麻である。
麻は麻と認める以前の麻ゆえ、麻と認める麻は麻に非ず。
麻と認める処は既に認める我あり、故に不二の法に非ず。
未だ名も無く心象や評価が付く以前の処は、本来の面目。
既知を滅す処に自己を忘じ、法は我が生まれる前の風景。
過去の影に座すは人の在り様、法は未だ知られざる只今。
未知の現前は認識以前ゆえ、過去の知識の有無とは無縁。
達磨の不識と廓然無聖を離れ、祖師語録の真意も立たず。
「碧巌録」 第十二、麻三斤
http://www3.ic-net.or.jp/~yaguchi/houwa/masangin.htm
法は縁に従い随所に主となる処の現成。
時の縁で麻を量っていた処ゆえ麻三斤。
問われる処は常に我と事実の同時成道。
今の事実が法の現前、他に求む処なし。
一切の主客を離れて問うべき処はない。
問われる時に、褌を洗っている処なら、
褌三挺と応じて、公案は褌三挺で足る。
一大事と言うは今日只今、眼前の事実。
法は空性ゆえ、前提条件の柵は立たず。
共有概念は方便に過ぎず、前提に非ず。
捻花微笑と同じ処ゆえ概念さえ老婆心。
法は、縁に従い主客を忘ずる処の生死。
右に向かえば右を生じ、左を滅する処。
見るものと見られるものは、生死一如。
大地有情同時成道は、只今の当たり前。
事実を離れ法なく法を離れて事実なし。
解釈に捕らわれる処は、事実を見失う。
事実は文字に立たぬゆえ、見解に非ず。
既知の念処は、記憶に住した我の根城。
未知の現前が仏、既知が滅す処は成仏。
眼に耳に"触れる"処は不立文字の只今。
法に"触れぬ"処は念処の内の空理空論。
虚空に釘を刺すが如き処は無益な徒労。
臨済の喝は前後際断の事実、念に非ず。
もとより、禅に解釈の入る余地はない。
https://twitter.com/giengoroku
”修行は、考え方の上の事を取り上げるのではない。
修行とは、今の事実に直下に触れる事である。”
義衍
喝!