
https://www.youtube.com/watch?v=5daM9Y27SOI
我は、記憶の狭間の既知の心象・解釈に纏わる感情の反応である。
人は、現前の事実を既知の心象や概念で覆った処で終生を過ごす。
在りの儘、解脱、無常、仏性、何と呼ぼうと、既知の懐には無い。
認識できる処は、既知の過去と、修正された過去を投影する未来。
文字は認識に立つ処ゆえ法に非ず、言葉の道理も方便に過ぎない。
只今は認識以前ゆえ未だ我は不生、只今の未知の面目が仏の現成。
知ってると言う認識は我の念処、知らないと言う認識も我の念処。
過去である既知は我に等しく、知った事も知らぬ事も我の懐の内。
知らぬふりは己が認識上の作り事ゆえ、他を欺けても己は騙せず。
無事は我の懐の内には無く、己が念処に求める無事は砂上の楼閣。
未知は認識未だ到らぬ処の只今、羅籠未だ到らぬ処に真理は現成。
未知は知ったと言う認識のみならず、知らぬと言う認識も知らず。
達磨の不識は未だ認識以前の処ゆえ、過去の知識の有無とは無縁。
自我の棚にある心象・概念・見解の残滓は死物ゆえ、仏性に非ず。
認識以前の只今が仏の現成、仏在る処に我なく我立つ処に仏なし。
事実は前後際断した法の実相、二見の立たぬ一得一失の処は無相。
事実と不二の処は実体を認めぬゆえ対象が立たず、未だ我も不生。
一切の主客の狭間の、眼耳鼻舌身の働きと直に触れてる処が仏性。
認識以前の未知の風景が事実、仏性は只今の事実に”触れる”処。
臨済が黄檗に法を三度尋ね、黄檗が臨済を三度打って直示した処。
眼耳鼻舌身に触れてる処は、未だ認識以前の無理会ゆえ不立文字。
事実に”触れぬ”処は過去の念、我は見解に住し既知の念に座す。
対象を認める処には、意味・解釈・心象が立ち、彼と此を隔てる。
彼と此を隔てる以前の、事実に"触れる処"は、無為・無心・無我。
事実の縁に従う処に彼此なく、随所を主と為す無心の行為が在る。
茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては飯を喫す、と瑩山が示す処。
臨済の喝は、相対の影を宿さぬ一期一会の法の声、故に念に非ず。
臨済は一喝し、大空に釘や楔を打つ如き無駄をするなと説示する。
臨済の喝は念処の狭間に打ち込まれ、思考者もろとも無字に帰す。
喝!

無常即ち「仏性」也、 有常即ち善悪一切諸法「分別心」也。 慧能