唐錦 ぬひてたくみて われならぬ ものとなりたや 凡庸の夢
*「唐錦(からにしき)」は、「裁つ」や「織る」「縫ふ」にかかる枕詞ですね。用例をひとつひとつあげながら学んでいくのは楽しい。また活用してください。
また唐錦は中国産の錦ということだ。まあ、舶来の豪華な織物というところでしょう。錦は金や銀も織り込んで美しい文様を織り出した厚地の織物のことです。説明するまでもないですが、いろとりどりの美しいもののたとえに使われます。秋の見事に紅葉した山のことなども、よく錦にたとえられますね。
もちろんこの歌の場合は、唐錦には重要な意味を持たせています。枕詞は特に訳さなくてもいい場合もありますが、この場合は訳してみましょう。
舶来の錦織のように豪華なものを縫って巧みに細工して、そういうものを身に着けて、自分ではないものになりたい。それが凡庸な人の夢というものです。
わたしたちは普段家に閉じこもって著作や絵描きなどにふけってあまり外には出ませんが、ネットでいろんな人を見てはいます。そのたびに、現代の人間のスタイルが、いやらしいほど凝っていることにため息をつきます。
おしゃれをするにも、きついほど凝っている。目や髪の色を変えるのなんて序の口だ。痛いところに穴を開けてピアスをつけたり、みょうなタトゥーを入れたりもしている。洗練されているようでどこか下品な服を着ている。
おそらくだれかの真似をしているのだろうが、地味に見せてきついラインで天使の真似をしていたりする。
それでわたしたちは少々眉をひそめたりするのです。言いたくはありませんがね。人間が天使の真似をしていると、たいていの天使は不快に感じますよ。まだ高いことは何も知らないのに、高い修行をしたものの形だけを真似て、恥ずかしいとも思えない人間がきついのです。あれだけ整った美をまとうには、それは厳しい経験をせねばならないからです。
よくたとえに用いられるのは川底の石ですね。上流のでこぼこした石が、下流の丸いきれいな石になるには、流れてくる途中でいろんなものにぶつからねばならない。それと同じでね、わたしたちの顔がこれほど整っているのは、いろんなものにぶつかって、厳しい経験をしてきたからなのです。
それはときにとても苦しいことなのだが。そんなことを何も知らないで、形だけを真似されると、痛いですね。
無礼というものなのですよ、それは。びっくりするような罪に発展することもあるので、やめたほうがよい。
実際、かのじょの美を真似した女性はひどいことになったでしょう。あれはきつい美なのだ。きれいすぎて、あらゆる人に嫉妬されて、いじめられてきた人の美なのですよ。そんなのを真似したら、どういうことになるか、想像はつくでしょう。
それでも、とにかく自分以外の人間のようになりたくて、真似してしまうのが、凡庸の人というものだ。
凡庸というものほど、痛いものはない。努力せずに何でも欲しがるからです。