冬去りて わづかにふるふ 山見れば 月に桜を 植ゑにもゆかむ
*読めば、もうなんとなくわかるかもしれませんね。この作風は、いつもわたしが歌を借る人のものです。名前は言えませんが、とてもやさしい人だ。
冬が去って、山が季節にうごめいて、わずかに震えるのを見れば、あの月に桜を植えにゆこう。
そうすれば、あの人の夢の中にも、桜が咲くだろう。
気の利いたことをしてくれる人なのです。人の心の微妙な痛みに気付いてくれて、そこによい薬を塗ってくれる。寂しさをみれば、それを補う花をくれる。悩みをみれば、それを助けてくれる滋養をくれる。
そんな小さなことが、人の生きる道をどんなに助けてくれるかということを、彼は知っている。
人は誰も、自分の生を、人に押し付けるわけにはいきません。自分は、自分が生きるしかないのです。それがどんなに難しい自分でも、自分以外にそれをやれるものはいない。
どんなに子が愛おしくても、その生を代わってやることはできない。そんなことをしようとすれば、返ってその子を殺してしまう。だからどんなに厳しくとも、親はその子にその子を生きさせる。それが本当の愛なのだ。
だが、その子の生を、少しでも楽にするために、助けてやることはできる。その子が腹を空かせてつらい時に、川でとってきた魚をやることくらいはできるのだ。
これくらいのことはしてやれるから、がんばれよと。
その愛が、麗しいことを産む。
あの人が今眠っていることは、わたしたちに小さな幸せを与えてくれています。どんなに愛を注いでもかまわない。どんなことをしてやっても、苦しくはない。
あなたの夢に、桜を植えてあげよう。そのためには、月に桜を植えにいくことまでも、してあげよう。あなたは自分を生きすぎて、倒れてしまった。もう何もできなくなるほどに。
そのあなたが目を覚まし、再び生きることができるようになるまで、わたしは何でもしてあげよう。
愛を注ぐことができることは幸せだが、それは半面悲しいことでもある。それほどのことをしなくてはならないほど、その人は冷えてしまったということなのだ。
目覚めてしまえば、もうあなたは、かつてのあなたではない。