奥山に 月のしをりし 道をゆき 月にも濡るる まつのいは見む
*「しをる(枝折る)」は、山の中などをいくとき、木の枝を折って道しるべにすることです。「栞る」とも書く。美しい言葉ですから覚えておきたいですね。言葉からでも一つの歌が紡ぎ出されてくることもある。
奥山で、月にたとえられるあの人が、枝折りをしてくれた道をゆき、月光に濡れている、松の生えた岩を見よう。まつというほど、待ってくれているその岩を。
松は永遠不変の象徴でもあり、「待つ」とかけてよくつかわれます。技術としては簡単な方ですから、いろいろとやってみましょう。掛詞の練習です。
「まつのいは」とは、巌のように硬い気持ちで、待っているということです。何を待っているのか。もちろん、人間が自分の真実に気付き、本当の自分に帰ってくることをです。
あの人は、嘘ばかりの世界の中で、一筋の真実を信じて生きてくれた。そして本当の自分というものが何なのかを、まっすぐにみなに教えてくれた。その反動はとてつもなく大きなものでした。長い時を迷いに迷っていた人間たちは、真実の本当の姿を見た時、あまりに自分がつらくて、一斉にかのじょに襲い掛かったのです。狂ったようにあせり、滅ぼし尽くそうとあらゆることをした。
自分は全く嘘だからです。その嘘のために、ほしいままにやってきたことが、あまりにひどかったからです。
美しい愛の本当の姿など、見たくはなかった。見れば、自分のついている嘘がどんなに愚かなものかが、わかってしまう。その苦しさを知るくらいなら、嘘を本当にしてしまえばいい。本当の本当など要らない。消えてしまえ。
そうしたら、本当に、かのじょは消えてしまった。
後で悔いてももう遅いということを、馬鹿な人間はいつでも軽々とやってしまうのだ。
この事実から、永遠に逃げ切ろうとするものは、もう人間ではいられません。自己存在でもいられません。それは自己存在ではあるが、もはや自己存在ではないものと考えられるのです。
故に誰も愛さない。いないものなど、愛せるはずがないからです。
どんなに長い時でも、永遠不変の松の木は待っていてくれる。それは愛の本質に座している痛い約束だ。だが。
人間があまりに愚かなことをするとき、その約束に触れることを許さないというものが、現れるのです。