よばふこと かくもやすきか 猫の恋 夢詩香
*「猫の恋」は春の季語だそうです。これは、かのじょが若い頃の教養として知っていたので、わたしも使いました。季語には時々おもしろいものがありますね。例えば「竹の秋」というのは春の季語だそうです。竹は、春に葉を散らすからだそうです。中には「龍淵に潜む(りゅうふちにひそむ)」という季語もあるらしい。中国の故事には、龍は春分に天に昇り、秋分に淵に潜むというのがあるそうです。そこから秋の季語になったそうですが、これをどうやって575に詠むのか、興味深いところです。
わたしの俳句の流儀は季語を気にしないことですが、歳時記も読み込んでみればおもしろいものが見つかります。
それはともかくとして、最近は春の頃になっても、猫が恋をして互いを呼び合う声を聴かなくなりましたね。
要するに、猫の飼い方が現代的に進歩して、飼い猫はほとんどもう若いうちにみんな去勢されてしまうからです。猫は一度にたくさんの子供を産む。どんなにかわいくても、みんな飼うのは不可能ですから、どうしてもこういうことをしてしまうのですが、やはり悲しいことではないと言い切ることはできません。
猫だとて恋をしたくないわけがない。肉体の中で、春を告げる何かが呼び覚まされると、ああ、誰かに会いたくなる。かわいい女に、好きな男に会いたくなる。恋の嵐の中で、何もわからなくなって、ただ愛し合いたい。肉体を結んで、快楽の中で溶け合いたい。いやらしいなどと言ってはいけませんよ。自然の中で行われる交合の中にある美しい喜びを、馬鹿にしてしまうから、人間のセックスがとめどもなく汚くなるのです。
わたしたちは、セックスの喜びを感じることができないので、あなたがたのようには恋を楽しむことはできないが、あなたがたの魂が、恋の中に美しく酔うている姿を、愛しています。なんとかわいらしいのかと思っています。まだ小さくて若いというのに、互いを愛して、いいことをしてやりたいという素直な気持ちに自分を明け渡している時、あなたがたが感じている幸福は、美しいと言ったらない。
セックスの喜びを感じることができる魂を、神に頂いていることを、感謝してください。
だが、猫というものは、好きだと思ったら正直にそれを表現できるが、人間はそうではない。恋の中で、相手を好きになって馬鹿のようになってしまうことが、相手に負けることだと感じて、どうしても素直になることができない。そういうものは、馬鹿なことをして、自分の方が偉いことにしなければ、恋をすることができない。だから、余計なことをたくさんして、恋をややこしいものにしてしまう。
権力を作って、金をかき集めて、恋を支配しようとする。大仰な大義名分がなければ、一番好きな女とセックスをしたいだけなのだという気持ちを、ごまかすことができないと思い込んでいる。
愚かなことですね。
動物としての違いもありますが、猫に、恋に素直になる態度を学ぶこともいいかもしれませんよ。本当はもっと簡単なものなのに。まっすぐに好きだと言えばいいだけなのに。ただそれだけのことができなかったから迷ったのだということが、苦しすぎるほど、人間は遠いところに来てしまった。
もうそろそろ、来た道を戻っていきましょう。