ムジカの写真帳

世界はキラキラおもちゃ箱・写真館
写真に俳句や短歌を添えてつづります。

玉椿

2017-04-17 04:21:29 | 短歌






胸を割れば 赤きまことの したたらむ 山のふかみの その玉椿






*これはかのじょの古い作品ですが、たぶんブログでは未発表のものではないかと思います。旧ブログで扱ったかもしれませんが、記憶は弱いですね。

冒頭の字余りの語句が、やさしさを感じさせます。字余りというのも、定型詩の魅力だ。定型を少し破るというところに、心を感じさせる。その心は、法則を少しはみだしてでもいいことをしてやりたいというやさしさであったり、決まりを無視してでも痛いことをしてやるという厳しさであったりする。その歌によって、いろいろな意味が発生するでしょう。

「玉椿(たまつばき)」というのは、椿の美称です。玉という言葉は、後に続く言葉に美しいものとか、大切なものとかいう意味を添える接頭語です。他には、「玉笹(たまざさ)」だとか「玉梓(たまづさ)」だとか「玉藻(たまも)」とかがありますね。八犬伝に出てくる妖女「たまずさ」はこれです。言葉の意味は使者とか手紙とかいうことですが、それは昔、手紙を持った使者が、梓(あづさ)の木の杖を持っていたことから来ているらしい。「玉梓の」は「使ひ」「妹」などにかかる枕詞にもなっています。「玉藻刈る」は「沖」「をとめ」などにかかる枕詞です。

このブログはいいですね。いろんな言葉が学べる。それはそれとして、歌の解説に入りましょう。

この胸を割れば、赤い血のようなわたしの誠がしたたるだろう。山の深みにある、美しい椿の花のように。

誰も知らないが、わたしの本当の心は、深山の奥で人知れず咲いている赤い椿のように、真実の愛であるのだ。みなのために、大切なことをしたいと思っている。だけど、誰にも理解されないだろう。それでもいい。わたしは誰にも知られることのない深山のようなところでも、誠実に咲いていこう。

赤誠ということばがありますから、そこから発想したものでしょう。「赤」という漢字には、真裸とか、真心とかいう意味もある。それはどうしてでしょう。さそりの火もそうだが、なぜ真実というものが赤いものという印象があるのか。たぶん、人間が誠を通すためには、時には自分の血も流さねばならないからでしょう。

確かに、深山に咲く赤い椿は、まるで血の滴りのように見える。誰かの心が叫んでいるようにも見える。阿呆なことをやっている人間を見て、愛の真実を知っている存在が、その心を訴えようとすればするほど、それは赤くなるのかもしれない。真裸の心を表現しようとすれば、血が噴き出る。あまりに痛い。

逆に言えば、血が出るほどの痛い思いをしたことのないものには、愛の誠などわかりはしないということです。

こういう歌が詠える人は、胸を割って血がほとばしるほどのことを、皆のためにやってきた人なのです。

そんな心がわからないのは、自分の血など見たこともないほど、安穏に逃げてばかりで、痛いことなどなにもやったことがないからだ。

勉強とは、自分を壊すということです。それが怖いと言って逃げてばかりいては、永遠に、何もわかることができない。無明の闇の中で、馬鹿のように醜いものとして、さまよい続ける。嘘で美貌をかぶっても、寒いものになるだけだ。

本当に美しい人間になりたいのなら、自分の血を見る覚悟で、痛いことに挑戦していきなさい。







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