なつくさの ふかきまよひの 世にありて われのまことを 今とひゆかむ
*これは試練の天使の作です。昨日の歌を取り上げたら、すぐにこれを思い出しました。「なつくさの」は「深し」とか「かりそめ」などにかかる枕詞です。枕詞はいろいろ覚えておいたほうがいいですよ。なかなかに便利だ。
夏草が生い茂るような、深い迷いの時代にあって、わたしはわたしのまことを今、世界に問うていこう。
彼らしい歌です。青雲の志を持って立ち上がる青年のようだ。痛いですね。彼は老練の政治家のような手管をたくさん知っているのだが、その源泉にあるのは、こんな青年のように若い志なのです。
吉田松陰も、かのじょも、懸命にがんばったが、暗黒の時代を生きつらぬいたものの、ほとんど至誠を訴えることくらいしかできなかった。無理解の中で死んだ。だがわたしは違う。時には至誠を裏返すような心を開き、人間を翻弄し、馬鹿をさいなむことができる。その力を、神のために発揮し、この世界に問うて行ってみよう。必ず何かをやりとげてみせる。
いい。本物の男というものは、実にいい。
馬鹿にはこれができない。
いい男の顔を盗んで、馬鹿みたいなことをやって、人をだまそうとするようなことが、馬鹿には精いっぱいだ。何もできはしない。それなのに、女にもてたい一心で、見栄を張って、馬鹿なことばかりする。それで妙なことになって、責任をとらされるようなことになってみると、突然消える。嫌なことになれば、馬鹿はいつも逃げるのです。何もしようとしない。
だが彼は違うのだ。嫌なことでもつらいことでも何でもして、世間に挑戦する。きついことをなんでもやる。そして世間に大きな石を投じる。世間を変える。そして自分の使命が終わったとき、神の前に出て、払わねばならない罪をすべて支払う。責任は最後までとる。
男なら、これが完璧にできねばなりません。
痛いと言って馬鹿にするならやってごらんなさい。無理にでも自分の方をかっこよいことにするために、背後に回って背中をつくなんてことをしようとしたら、もはや終わりですよ。阿呆は、本物の男を怒らせたら終わりなのです。本気で来られたら、かなうはずがない。それがわかっていない。
ずるいことをする馬鹿のやることなど、軽く見抜くことのできる男が、謀略を始める。謀略というものにも、高い技があるのだ。そんなことを、勉強をしもしない馬鹿が知っているわけがない。
高い男がする謀略というものは、実にきついのですよ。説明しても、わかりません。それは、象の腹の中にいれば、象の姿などわからないのと同じなのです。翻弄されるというレベルではないのだ。あなたがたは、謀略の中に飼い慣らされるのです。
知らぬ方がよい。
できる男というものは、すごいのだ。それを思い知るのは、たぶん、500年もたったころだろう。