小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

佐村河内守事件に考える:

2014年02月08日 | 社会戯評
佐村河内守事件に考える:
すっかり騙されてしまった。別にオレオレ詐欺や特殊詐欺ではない。余りの美談に騙されて、CDをつい買ってしまった。NHK肝いりの特集番組にも、見事に騙されてしまった。全く、オレオレ詐欺や特殊詐欺よりも、巧妙である。考えてみれば、曲が良い、気に入ったと言うこともさることながら、商品というものは、所詮、その背景にあるイメージや曰く因縁・故事来歴ではないが、そういうトータルなもので成立しているのであるのかも知れない。従って、贋作であっても、初めから、共作であると告知されていたら、どうであったのであろうか?どこか、何かしら、その裏には、商業主義のストーリー性が、見え隠れしないわけではない。芸術とか云うものは、一体、どういうものなのであるのか?誰が作ろうが、何と言われようが、贋作でも何でも、その人が好きだと思えば、それに越したことはないのであろうか?それとも、やはり、氏素性が、大切なのであろうか?ある曲が、商品化され、CD化され、流通段階に乗る前に、十分、販売戦略、戦術が、マーケティングも含めて、或いは、ストリー性も含めて、或いは、顔の見える商品というイメージですら、何かしら、そこには、一定の人為が、加工されることは避けがたいものなのであろう。慧眼をもって、真贋を見極めることは、もはや、容易なことではないのであろうか?原材料表示ではないが、ある種の情報を前提に、私達は、すべて、購入の前に、決断を行っているのであろう。しかも、それを疑うことなく、、、、、、。新薬のデータですら、メーカー・医師による恣意的な改竄がなされ、客観性は、担保されず、一体、我々は、何を基準にして、考えれば、判断したら良いのであろうか?マスメディアも、被害者なのであろうか?それとも、加害者、共犯者の一翼を担がされていたのであろうか?では、我々、消費者は、完全な一方的な被害者なのであろうか?ヒトを殺したわけでもなく、まあ、広い意味では、お金を詐取したことにでもなるのであろうかも知れないが、人の心に傷をつけた、或いは、被爆者・聾唖者・被災地の少女などの心を踏みにじったという行為は、まさしく、「心への犯罪行為」と言うべきものなのであろうか?しかも、それが、18年の長きに亘って、仮面の下で、生活していたとなると、、、、、、。もう一度、交響曲1番、ヒロシマを聴いてみることにしようか?どんな感情が芽生えてくるのであろうか?その事実を知る前と知った後では、、、、、、。それでも、曲自体は、変わらないと云うことなのか?それとも、、、、、?ゴーストライターもさることながら、本人自らの説明責任が不可欠であろうか?それとも、もう、そんなことは、必要性もないということなのであろうか?疑い始めると切りがないが、果たして、ベートーベンは、本当に、耳が聞こえなかったのであろうか?(バカヤロー、糞も味噌も、一緒くたにするなと言う声が、何処かから、聞こえてきました!)今や、耳が聞こえるか、聞こえないという方向に議論が向かうのも、的外れのような気がしなくはないが、、、、。