小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

「残虐性」とは、、、、を考える:

2014年09月06日 | 社会戯評
「残虐性」とは、、、、を考える:
敢えて誤解を怖れずに発言をするならば、別に、モスリム教徒に組する者でもないし、ましてや、スンニ派の過激派テロリストを擁護する立場でもない。無実の米国人ジャーナリストが斬首されるという報道が、全世界に、動画配信されたと云われているが、よくよく調べてみると、表面的には、直截な「暴力表現」と言う理由から、各種閲覧は、ほとんど「削除」されているのが現状である。しかしながら、海外サイトや、一寸、キーワードを英語で検索して見れば、容易に、Message to America, ……Beheaded,,,,,,, というタイトルが、観られるが、一体、この政治性を有するメッセージに対して、我々は、只単に、「残虐的である」という一言だけで、イスラム国のテロリストと称される人間を、同じ土俵の上で、断罪出来うるだけ、我々の側には、それなりの論理が、大義名分があるのであろうか?政治的なイデオロギーには、或いは、一神教であれ、多神教であれ、少なくとも、宗教上での排他性や残虐性・寛容性は、多かれ少なかれ、過去の歴史が示す通り、それ自身に内包・内在していることは、容易に理解出来よう。考えてみれば、つい、70年前までも、狂気の戦争の中で、むごたらしい死に方を強いられてきたものであるし、実際、そうした歴史的事実も、我々は、アウシュビッツや、ベトナム戦争当時のソンミ村虐殺でも、或いは、最近では、民族浄化に名を借りたコソボやアフリカの残虐な部族抗争を嫌と云うほど、これでもか、これでもかと、見せつけられてきたものである。(もっとも、米国西部開拓時代には、白人の頭の皮を、インディアンは剥いだものであることも想い出すが、)このメッセージ性とは、一体、何なのであろうか?これに対抗しうるアンチ・テーゼを示しうるものなのか?一方で、一種のグローバル・スタンダードな世界的な先進諸国と称する、或いは、文明史観的な常識からする、「残虐性」という理論と、方や、恐怖を醸成させるような断首という処刑手段、(北朝鮮での公開処刑ではないが、)しかも、それを全世界に配信するという試みとの間には、何が、その根底・背景で、闘われているのであろうか?マス・メディアは、或いは、何人のジャーナリストが、しっかりとそのシーンを目を閉じることなく、刮目して、動画を観て、考えているのであろうか?日本のジャーナリストからは、そういう観点からの声が、一言も聞こえてこないのには、多いに、遺憾である。流石の毒舌、ビートたけしも、常識の範囲での公式な発言は、控えざるを得ないのであろうか?子供の頃、「世界残酷物語」という映画を怖いもの見たさに、映画館で観たことがあるが、牛の首を儀式の中で、斬首するシーンであったことを想い起こす。無論、人間の首と牛の首では、比較にならぬという議論はあろうが、考えてみれば、未開のジャングルの首狩り族は、平気で、腰に、自慢げに、干からびた首を下げたり、槍の先に、掲げて持ち歩いていたことは、広く、一種のシャーマニズムやアニミズムの観点から、知られている。歴史小説の中に登場する織田信長の磔の仕方や、一向門徒への処刑の無慈悲な仕方なども、残虐極まりないものである。この「残虐性」というシンプルな言葉を境にして、我々は、今日、「こちら側」と「あちら側」は、一枚の壁を隔てて対峙することになっているわけであるが、一体、何が、対立軸にあるのであろうか?文明性と未開性、紳士と野蛮性、西洋的なクリスチャニティーと中近東的なイスラム性、正義と悪魔、等…。一体、我々は、この現実を直視することなく、イスラム国に捕虜として、囚われた日本人をどのように、考えたら良いのであろう?初めから自己責任の覚悟の足りない軽輩だから、仕方ないと云うことなのであろうか?斬首された2人の米国人ジャーナリストは、後ろ手に縛られた切断された胴体に、大量の血塗られた首だけが、ポツンと置かれている映像は、本当は、こうした自分の死に様を、(トリックでなければ)全世界に、真実・現実として公表して貰うことで、自身のジャーナリストとしての使命を、まさに、身命を賭して、訴えたかったのではないだろうか?そして、処刑人のテロリスト(と称されるイギリス人)も、恐らく、同じ地平の上に、立っているという皮肉な結果を演じていたのかも知れない。モスリムに改宗したイギリス人や外国人が、同じ同胞の外国人・異教徒を処刑するという逆説は、おおいに、皮肉である。理解や常識を遙かに超えるということでは、済まされない、無論、人間性の根源にも関わってくる問題でもあり、又、一概に、それだけでは済まされないもっと、「深淵な闇のようなもの」が、奧底には、潜んでいるように思えてならないが、「残虐性」という言葉を、もう一度、考え直して見る必要がありそうです。「恐怖による支配」は、こちら側もあちら側でも、全く、問題の解決にはならないのであろうが、依然として、恐怖を促す残虐性で、世界は蔽われることになるのか?我々は、ガンジーのような高邁な精神性に富んだ哲学の元、積極的非暴力主義(決して、どこかの積極的平和主義ではない)のようなアンチ・テーゼを対峙させることが可能なのであろうか?未だ、道筋が示されていない。くれぐれも、友人・読者の皆様には、FB上で、いいね!は、差し控えるようにお願い申し上げます。さもないと、米国には、入国できないやも知れません(?)ので、、、、、、、。