小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

李香蘭とテレサ・テンとマレーネ・ディートリッヒ:

2014年09月19日 | 社会戯評
李香蘭とテレサ・テンとマレーネ・ディートリッヒ:
山口淑子氏は、丁度、私の両親の世代に重なる。従って、同氏が、李香蘭であったことは知っていても、実際には、リアル・タイムではない。謂わば、母や父の青春時代のアイドルというフィルター、それも、昭和と言う時代の中でのとりわけ、戦争の最中の青春アイドルというフィルターを通してである。従って、私達の青春の中では、所詮、軍部に利用された可哀想な女優、日中戦争の狭間で、軍部の文化・宣伝活動に利用された人物で、とりわけ、参議院選挙へ出馬するのも、過去の人気を背景にした自民党の利用された集票マシーンという位置づけで、残念乍ら、その本人のその後の戦争を憎む思いは、私には、何か、通じてこなかったものである。そんな中で、彼女が中国語で謳った「何日君再来」と言う唄は、皮肉にも、テレサ・テンが、中国語と日本語で、美しく、情感込めて、歌いあげている。だから、私にとっての李香蘭と言う存在は、テレサ・テンという台湾人のフィルターを通じて、感じられることになるという一種の皮肉であろう。日本人が演じた李香蘭が歌いあげた歌を、中国人の歌手が、再び、日本語で歌いあげるという、、、、、。李香蘭とテレサ・テンは、皮肉にも、時代こそ違え、二つの異なる相反する国家と言う狭間の中で、揺れ動いた歌手なのかも知れない。一人は、満州と日本・中国、そして、テレサは、中国と台湾という二つの祖国の狭間である。或いは、片や、満州国の五族共和という理想・幻想で有り、片や、天安門事件での民主化幻想と言っても良いのかも知れない。ドイツのマレーネ・ディートリッヒも、或いは、ナチスとの構想の中で、アメリカに、自由の新天地を求めて、国を棄てた女優でもあったのかもしれない。いずれにしても、イデオロギーの対立や、戦争を契機として、女優・歌手人生が大きく変わってしまったのかもしれない。よくよく、考えてみれば、李香蘭の目指すところと、上海AKBの目指すところは、70年の時を経ても、同じ座標軸なのかも知れない。唄の心というものは、簡単に、国家イデオロギーや国境を超えてしまうのかも知れない。それにしても、又、一つの時代が、忘れ去られようとしているのか?父も生きていれば、確か、9月20日で、96才、母は、10月12日で、90才になる計算であることを想い起こした。両親達の青春時代も、これで、終了してしまったかの如くである。ご冥福を祈りたいものである。