小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

「伊藤若冲と京の美術」展を覗く:細見コレクションの精華

2014年09月20日 | 社会戯評
「伊藤若冲と京の美術」展を覗く:細見コレクションの精華
美術品の収集家というものは、庭作りと一緒で、なかなか、一代では成し遂げられないものである。最低でも三代という時間が必要なのであろうか?余程、混乱の最中、例えば、廃仏毀釈運動などで、二束三文の仏教美術品などが、幸か不幸か、海外に、持ち出されて、逆に、後世、評価が高まるなどは、例外なのかも知れない。或いは、逆に、存外、そんなものなのかも知れぬが、、、、、。中東の戦乱の最中、イスラムの古代美術品などは、一体全体誰が、保護しているのであろうか?イスラム原理主義には、そんなことは、関心事では全くないのであろうか?まぁ、それはさておき、今日、過去の歴史の中で、人々は、どんな暮らしをしていたのかということは、ある種、美術品である屏風図や実際に使用された道具を観て初めて、ある程度の想像が可能になろうというものである。その意味で、屏風図や、絵画・墨跡や道具というものは、やはり、歴史的に大きな意味合いを有すると云っても過言ではない。
原画というものは、今日、繊細なまでの筆のタッチをコピーやプリンターで、再現できうるのであろうか? 答は、否である。だからこそ、美術館で、実物に目を懲らして、眺めるに足るだけのことはあると思われる。まるで、時空を超越して、タイムスリップでもするかの如く、作者と現代の観る側の我々が、真剣勝負で、見つめあっているようなものなのであるのかも知れぬと思うと、何故か、ワクワクしてきてしまう。そんな心躍る瞬間が、こういう本物の美術展示品には宿っているような気がしてならない。これが、コピーであれば、そうはゆかないであろう。出来れば、どんな筆を使い、どんな紙に、描き、どんな出で立ちで、筆をあんなに一気呵成に、迷わずに、書き上げることが可能なのであろうか?どんな修行を積めば、そんな作品が出来上がるのであろうか?製作現場に、動画でもあれば、取っておいて貰いたいものであるが、江戸時代では、そうはゆかぬか?「千年、慧眼の徒を俟つことを厭わず」、とは、まさに、若冲が、言い放った言葉が、今日でも、突き刺さってくるのは、何故だろうか?或いは、「細かなることに神宿る」、成る程、そういうことなのであろうと、鶏のとさかや足先を表現する絵を観ていて、初めて実感する。そういうことを考えながら、美術品を鑑賞するとは、とりわけ、作者と観る側の心理的な真剣勝負を伴った優しい対話、或る時は、厳しい闘い、又、或る作品では、技法を挑戦的に、アピールするような斬新な問いかけ、本物とは、長い年月・時間を経過しても、限りなく、燦然と輝く何かを有するものなのであるのかも知れない。屏風図の中に描かれた風景も人物も、皆、それぞれに、まるで、今もそこで生きているような感覚に陥るのは何故であろうか?
それにしても、景観や建物だけではなくて、人物のしかも、遊女歌舞伎や見世物小屋の様子や狂言・人形浄瑠璃やら、相撲風景などの情景、等も含めて、まるで当時の祭りやエンタテイメントを目の辺りにするかの如きである。「ちょうしょう踊り図屏風」に描かれている踊り子達は、一寸、ユーモラスであるが、今にも、絵の中から、飛び出て踊り出しそうな感じである。一体、どんなリズムで、どんなお囃子に合わせて、踊っていたのであろうかと想像までしまう。今風のよさこいソーラン踊りにも繋がるものがあるのかも知れない。そう思うと、この絵を眺めていても、当時の民衆の農業に対する豊穣の祈念を、踊りという形で、表しているのには、感心してしまう。墨蹟というものも、又、不思議なものである。私のような悪筆の人間には、現代のPCでのタイプ書きが、一番ふさわしく、あんなに、綺麗な字で、一字一句、乱れることなく、書きあげられるとは、、、、、、と感心しきりである。千年も前に、これを書き上げた鎌倉時代の禅僧の蘭渓道隆や桃山時代の千利休の墨画などは、それを眺めるだけで、何か、作者と対峙しているような錯覚を催してくるのは、実に楽しいではないか?又、荒木村重の幼子として、乳母の手で、辛うじて命を免れて、後に絵師となった江戸前期の岩佐又兵衛の「歌仙絵色紙」などは、書かれた歌文字を通じて、その人柄や人生模様までもが、想像されてしまう。そうすると、書かれた文字自体よりも、作者の生い立ちや人生が、おおいに気に掛かってくるから不思議である。茶の湯に使用された鉄の茶釜、香合、水差し、花入れ、筆筒、茶碗、硯箱、蒔絵、茶器、貝合わせ、等、どれをとっても、前から後ろから、斜めから、上からと、舐めるように眺め回しても、飽きないものである。それを使用したヒトのことを考えるのも、なかなか、面白いというものである。どういう人が、どういう気持で、使用し、どういう理由で、これを作らせたのか、或いは、購入したのか、等…、本阿弥光悦や俵屋宗達、尾形乾山、円山応挙の作品については、一寸、ここでは、省略して、先を急ぐことにしよう。伊藤若冲と弟子達である。今回の展示品の中で、個人的な好みから云えば、墨画の中では、まずは、「群鶏図」、一体どのようにしたら、あんなに、一気呵成に、尾っぽを描くことが出来るのであろうか?どんな筆を使用して描かれているのであろうか?何種類の筆を使い分けているのであろう?済みの濃淡は?等…。次に、「虻に双鶏図」に見られる、構図と虻に注がれる鶏の視線の妙、或いは、胸毛の描き方、どうしたら、そんな当たり前の情景を、あんな風に、描くことが出来るのであろうか?弟子達の中でも、伊年や成乙と呼ばれる四季草花図や秋草図団扇などは、なかなか、興味深いものがある。若冲は、墨画も、趣きがあろうが、やはり、著色の「糸瓜群虫図」が、今回は、出色ではないだろうか?微細に丁寧に描かれた虫に食われたような枯れかけた葉の葉脈まで、マイマイも、キリギリス、カマキリ、蜻蛉、雨蛙も、或いは、右下の糸瓜の腐りかけたような傷の描き方、虫の腹部の描き方、まさに、全体の構図と個々のパーツ・細部、「細かきところに、神宿る」という若冲の精神の神髄が垣間見られる。これは、なかなか、写真では、余程、何倍にも拡大しない限り、肉眼でしか、分からないのではないだろうか?本物にしか、分からない、すごさであろう。もう一つは、「雪中雄鶏図」の雄鶏の羽毛の描き方、赤いとさか、目つき、脚の指一本一本、皮膚の紋様、爪先の爪まで、どんな絵筆とどんな絵の具と、どんな手法で、筋目書きという手法も、どんな筆使いで、製作現場を見てみたいものである。まるで、今にも、絵の中から、勢いそのままに、歩いて飛び出てきそうなそんな感じまでする。
それにしても、当時の作者と作品を通じて、仮想の中で、時空を超えて、対話が出来るという至福の時間が持てることは、実に、美術品鑑賞とは、楽しいことであることは間違いない。
館内は、次のようなテーマに基づいて、展示品が分かれている。(に遊ぶ:名所遊楽と祭礼の世界:屏風図を中心に)、(の美意識Ⅰ:王朝の雅、Ⅱ:茶の湯の心)(若冲との絵師:華開く個性):新潟県立万代島美術館にて、11月3日迄開催中だそうです。(月曜日休館)是非、ご覧になられることをお薦めします。それにしても、長野県から、新潟県に入るにつれて、家の建て方が、やはり、大雪を想定した三階立て作りに変化して行くのを眺めるのも、なかなか、興味深いものである。稲穂が、黄金色に、輝き始めていた。刈り入れ時なのであろう。そして、長い冬の準備に入るのであろうか?