ダッカのテロに思う:
振り返ってみれば、まだ、ドイモイが、定着しつつある頃でも、現地の治安事情を考えて、常に、『人民の海』の中に、紛れ込むように、革靴は、履くことなく、腕時計も左腕に巻くことをせず、ワイシャツも、アイロン掛けなどはせずに、そのまま、皺がついたまま、裾は、だらしなく、ズボンの外に出したままで、ホーチミン・サンダルという出で立ちで、外出し、夜も、朝も、街頭に連なっている不衛生な屋台で、小さな四角いプラスティックの椅子に座って、食事をするという、一種の途上国に於ける『掟』のようなものがあったような気がする。それは、別に、高級外車に乗ることもなく、もっとも、こちらは、決して乗せる側ではなく、時たま、現地の有力者のお誘いの時に、ベンツか、ロールスロイスに、乗せて貰う側であったが、決して、その時にも、油断することなく、レストランでも、アメリカのマフィア並みに、一番奥の入り口が、見渡せる場所に、陣取って、食事をしたものである。もっとも、我々は、ボディー・ガードがついていたわけではないけれども、自然と、そんなことが身についてしまったモノである。又、上述したような小汚い身なりで、街を散歩していても、チラチラと立ち止まっては、スリがつけてこないかと、前後を
わざときょろきょろと見張ったりもしたモノである。それにつけても、治安が、多少改善してくると、人間は、やはり、自然と、日本食レストランや、外国人が好んで出掛ける評判の良いホテルやレストランに足繁く、通ってしまうモノである。何とも、テロに遭遇してしまわれた人々には、どんな言葉をかけたら良いのであろうか?とりわけ、途上国の都市計画などの専門家などは、成る程、こんな所へ出向いて仕事をしていたのかと、改めて、感慨に耽る始末である。又、加害者側も、裕福な家庭で、留学経験もあり、それが、又、過激な思想に、皮肉にも、触れてしまったとも謂われているが、幕末から明治維新期へかけての若き留学生達と較べると何とも、皮肉な対照的な結果である。もしも、この加害者と日本の明治維新期の留学生同士が、議論する場所があったならば、一体、どんなことを互いに主張しあったことであろうか?それにしても、民政とその国の経済的な自立とは、誠に、難しいことであることが、容易にわかり得よう。唯々、冥福を祈るしかないのであろうか?それとも、まだまだ、これからも、こうした悲劇が続くのであろうか?そして、自分には、何が出来るのであろうか?