小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

サービスの対価と言う概念を考える:

2016年07月15日 | 社会戯評

サービスの対価と言う概念を考える:

昔、海外で、ファミレスで珈琲を飲んでいたら、典型的なおばちゃんのウェイトレスが、いきなり、自分が好みの甘さとミルクの絶妙な加減を維持していたのに、有無を言わさずに、コーヒーをたっぷりと濯いでしまい、誠にその味たるや、絶望の淵に追いおとされたおもいがしたことを懐かしく思いおこした。長野県でも、あるときに、女房殿とお茶を戴いていたところ、女房殿は、別に喉が乾いていたわけではないのであるが、茶碗を飲み干して、急いで、席を立とうとしたところ、すぐさま、お茶を注がれてしまい、席を立つチャンスを逸してしまい、これが、二三回続いたときには、流石に、もう結構です!と、鄭重に、言い放ったが、この光景をその相手の家人と、後で、問い糾したところ、当地では、お客様が、湯飲み茶碗を空っぽにすると、すかさず、お茶を注ぐという一種の文化的な風潮があることを、後日、聞き及んだ。成る程、面白いものである。こちらは、少しでも、お茶を残しては、申し訳ないから、すっかり、飲み干してしまうが、そうではなくて、そのまま、残しておいても、一向に差し支えはないらしい。サービスの対価とは、一体何なのであろうか?客の気持ちを忖度して、それに対して、自らの側で、いくらくらいになるのかを、計算することなのであろうか?それとも、それこそ、お裾分けではないが、贈る側は、贈られる側の気持ちを忖度することなく、無償の気持ちを、お裾分けという形で、自らの悦びをシェアーするという行為の形の表れなのであろうか?亡くなってしまった母は、生前、兎に角、人に対して、極端なときには、配達をする他人までも、暑いのにご苦労様でしたと、アイスクリームや冷たい飲み物を与えたりしていたことを不思議に想い起こす。長い歴史を有する古民家の農家の家のしきたりというものは、実に面白いモノである。菓子折一つにも、倍返しとは云わぬが、まるで、私の母が、生前良く言っていた、人様には、必ず、小さなものでも、必ず、お返しを欠かしてはいけない、と、まるで、貸しを作られるのを嫌がるが如く、借りは決して作らず、盆暮れには、せっせと、百貨店から、中元・歳暮のお返しは、それこそ、半世紀近くも、欠かさなかった。まるで、それを想い起こさせるような光景である。成る程、今日的なサービスの対価なる概念は、結局、何らかの資本主義社会での経済原則の中でのものであって、どうやら、人々の心に根ざした、生き方とか、家の誇りとか、その地域・文化的な固有な考え方というモノは、そういう類の範疇では、推し量れない何かがあるのかも知れないことが、日常生活の違いの中で、再認識されて実に面白い。きっと、亡き母が、生きていたら、話が間違いなく合うことであろう。これまでのビジネス中心の社会とは異なる人々との日常会話には、なかなか、老人体操教室も含めて、実に、面白い刺激的なモノである。都会では、そんなことに気が付きもしない。