第32回三遊亭鳳楽、武蔵野独演会を聴く:
大学の地域(杉並区)の同窓会会員の集まりの分科会で、「落語を楽しむ会」というのがあり、これに、初めて参加することにした。何せ、45年余りに亘って、右脳は、化石寸前にまで、麻痺しているから、右脳を再生しなければならない。只今、鋭意、右脳再生中です!そんな訳で、懇親会の2日後に、開催される三遊亭鳳楽師匠の独演会を聴くことにして、更には、打ち上げ後の懇親会の宴席にも参加することにした。いやはや、生の落語を間近に、こんな近い距離で、聴くなんぞは、新入社員の時代に、新宿末廣亭かどこかに、歓迎会で、寄席を聴きに行って以来だろうか?ほとんど、ド素人だから、失礼に当たらぬようにと、事前に、しっかり、最低限の知識くらいは、持ち合わせていないと、落語家に対して、礼を欠き、申し訳ないと云う事で、ネットで略歴や演題を、検索したり、U-tubeにアップされている録画を聴いて、最低限度の知識を持って、望んでみた。それにしても、落語家のエネルギーたるや、凄まじいものがあることに、改めて、感じ入る。私より、一つ年上だから、サラリーマンで言えば、もう、優に、45年以上は、現役で、芸道に励んで、圓生の最後の孫弟子として、又、先代の円楽の弟子としても、勤め上げた古典落語の実力落語家で、玄人の評価も高いし、圓生の名跡を継ぐかも知れないとも、噂されている由である。「紙入れ間男」という艶笑噺と、「文七元結(もっとい)」という人情噺という異なるジャンルの落語を、1時間余も、高座を張るという知的並びに、体力的なエネルギーとは、一体、何処から、培われてくるのであろうか?サラリーマンであれば、とうの昔に、引退して、役職をおりているところであるが、芸術家というものは、画家でも、音楽家でも、落語家でも、何とも、驚くべき内なる情念というか、溢れんばかりのエネルギーは、その仕草、口調にも、口の開き方や目配せの仕方にも、一瞬たりとも、見逃せないものがある。しかも、それをこんなに、長い時間に亘って、集中力を、独特の軽妙な話術と笑いの中で、見事に、調和させて、維持すること、聴き手を飽きさせないことは、並大抵の事では出来ないであろう。おチャラか系のテレビ映りの良い芸人とは、全く、古典落語家というものは、一線を画すものがあり、芸の極みという言葉が、素直に、感じられよう。打ち上げ後の酒席では、何でも、落語家として、着る衣装にも、拘りと誇りを持っていて、登場人物が、殿様であれば、殿様なりのなりをして、自らが、演じることに、拘っているそうである。従って、それなりの衣装や色街の伝統文化への勉強に費やす出費も、並大抵なモノではないそうである。そう考えると、演目を細かに覚えるだけではなくて、その背後に潜む見えない努力も含めて、相当な努力が、芸に対する厳しさとして、日常生活の中から、結実してゆかないと、名人の域には、到底、到達しえないことが、自ずと、理解出来ようか?開口一番を努めたその弟子の鳳月も、「寿限無」を、軽妙に、演じていたが、こちらも、吉本から、落語会へ移ってきて、未だ、時間が間もないものの、将来性があるように、会員の間では、語られていた。天性の素質だけでも、落語家は、成り難く、又、練習だけでも、同じく、成り難く、やはり、天性の素質と、その後の不断の努力と勉強とのバランスなのであろうか?それにしても、新潟の蔵元での講演から、静岡での講演を経て、その日の開演前、午後六時に、到着してから、2題を噺して、更に、打ち上げの酒席にも、参加するとなると、おおいに、健康管理にも、心配が生ずるが、はてさて、どんな精神的・肉体的なケアーをしているのであろうか?気になるところでもある。又、引き続き、次回も、古典落語を聞きたくなってしまった。それにしても、人情話というものは、笑いだけではなくて、よく、内容が、練られたものである。最後になって、なある程、あの伏線は、こう云う事だったのかと、納得されるものである。それをそれとなく、軽妙に、分からないように、演じるところが、絶妙な芸なのであろうか?今後の活躍を祈って止まない。