家籠もりの中で、往時の任侠ビデオを観る:
GAFAに肩入れするつもりは毛頭ないものの、時代の流れなのか、Amazonのプライム会員であることをすっかり忘れていたら、何かの拍子に、ビデオや電子書籍が読み放題だと気づき、慌てて駆け込みで、このご時世であるから、山籠もりと称して、眼の衰えをカバーすべく、ラップ・トップPCを大きなモニターに接続して、たっぷり、往時の任侠映画を、ビデオで愉しむことにした。藤純子の緋牡丹博徒シリーズ、高倉健の昭和残侠伝シリーズ、池辺良や鶴田浩二の出演する任侠シリーズで、銀座の並木座で、3本立て等で、学校の授業の帰りに、友達と連れだって、60年代の後半に、よく観たものである。当時は、見終わり、映画館を出るときには、どういうわけか、鶴田浩二の影響かどうかは、分からぬが、無意識に、両手の拳を握りしめて、これは、後年、海外出張し、異国の地を歩くときにも、どういうわけか、そのスタイルが身につき、殺気をみなぎらせながら、闊歩したモノである。又、ある友人は、必ず、中指をピンと伸ばして、歩く癖をつけてしまった。50年時間が経過した今でも、その名残は、どこかに、癖として残っているのは、どうしたものだろうか?
それにしても、凜とした藤純子は、結婚して、名前が変わっても、或いは、娘の女優が有名になろうとも、藤純子は、藤純子であり、銀幕の中の緋牡丹お竜さんは、お竜さんのままである。又、武骨で、無口な高倉健は、後年の主演男優賞や助演男優賞などとは、全く無縁な、寡黙な煮えたぎるような殺気を押し殺した一匹狼的なアウトローの雰囲気である。それでも、何本か往時の作品を見終わった後の<違和感>は、一体、どこから、来るのであろうか?あの50年以上も前に抱いた<感動>とは、明らかに、異なるところの、ある種の<虚しさ>、懐かしいという感情は、余り、<沸いてこない>のは、何故なのであろうか?
どうやら、歌とか、映画とか言うものは、<その時点での時間的な、或いは、空間的な時代背景や歴史的な環境・雰囲気>、或いは、<私的な空間の概念と、何らかの感動、或いは驚きが、不可分に結びついていて>、決して、AIで再生・合成された美空ひばりには、微妙な違和感を抱き、我々がそうして感じるのと同じような、或いは、似通った感情を持つものなのかもしれない。明らかに、それは、50有余年という<時間的経過と肉体的変化・経過>や、或いは、<往時の精神状態と現在との差異>から来るところの違和感なのかもしれない。銀幕に映し出された緋牡丹お竜も、高倉健も、ポッポ屋や黄色いハンカチーフの健さんでは決してない。<賞味期限>とはよく言ったもので、時間的な経過とベストの賞味期間とは、人間の肉体・精神でも、同じことが言えようか?それは、眼も衰え、脚が萎えてくるように、それは、亡くなった両親や愛犬の介護でも、十分、認識してはいるものの、、、、、、、。いざ、自分が、そういう段階に近づきつつあるときには、<本能的に、違和感を感じる>ことになるのであろう。よく、人生最期に食べる一品とか、観たい映画はとか、無人島に持って行く本は、何だとか、謂われるが、恐らく、もう、これからは、往時の任侠映画を、何度も、<観ることはない>であろうし、あまり、<観たいとも思わない>かもしれない。絵描きの画風が若いときと、熟年期、晩年期とでは異なるように、自分の中でも、本を読み返したり、映画を見直したりすることは、なかなか、興味深いものがありそうである。本であれば、往時の棒線や付箋などで、記憶に残った部分が、探し出せるが、映像では、なかなか、難しいものである。<カミューのペスト>も、こういう状況だから、異邦人同様、読み返してみることにしようかな!新型コロナ・ウィルスの一番の特徴は、<どうしようもないくらいの倦怠感>らしいが、肉体的な倦怠感ではなくて、<長年に亘る人生の倦怠感とか、夫婦間での倦怠感>は、どうしたらよいのであろうか?女房殿からズバッと指摘されそうである。(笑)でおさまれば、宜しいが、、、、、、。