小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

3位と4位の差とは?:

2014年02月10日 | 社会戯評
3位と4位の差とは?:
上村愛子選手が、又しても、表彰台を逃したという。自分が納得した滑りが出来たのであるから、仕方がないではないか?そういうと、アスリートの気持ちが分かっていないと言うことにでもなろうか?勝負事は、結局、順位を競う以上、冷徹に、端から順位の席をところてん式に、押し出されて行ってしまうわけで、フィギュア・スケートのまさに、Kiss & Cry で仕方の無いことであろう。一秒単位での鼻先の差を争い、まさに、紙一重のところで、天国と地獄を見るわけである以上、致し方のないことなのかも知れない。何分の一か、否、或いは、100分の1か、1000分の1か、ほんの僅かの差こそが、まさに、アスリートの命を争う場である以上、結果は、残念乍ら、峻厳なものでしかない。そこには、勝負の女神が、たまたま、気まぐれに、ほんの少しの幸運を、あげなかっただけのことなのかも知れない。ちょっと、順番を間違えてしまったのかも知れない。そうでも思わなければ、この悲運としか云いようのないアスリートを慰める言葉は、何処にもないであろう。一発勝負に、懸けるアスリートは、それでも、実力を遺憾なく出せるものと出せないものと、メンタルなものであるという一言で、終わらせれば、それこそ、万事、簡単なことではあろうが、なかんか、そうならないのが、人間臭くて、観ている方は、面白い。やっている本人は、人生の一瞬を燃焼し尽くすのであるから、それこそ、命がけで、大変ではあろうが、、、、、、。むしろ、こうした貴重な経験こそを、今後の指導者として役立ててもらいたいものである。ワールド・カップで、活躍できても、なかなか、オリンピックでは、金メダルというものは、難しいと云われているが、その重圧をはねのけて、実力通りに、結果を出せる人間は、本当に、ごく一握りなのであろう。それが、所謂、プロという人間なのかも知れないが、、、、、それにしても、若い頃から、長い間、ご苦労様でした。ゆっくり、夫婦2人で、仲むつまじく、しばらく、ゆっくり、休んでもらいたいものであります。一体全体、3位と4位という差とは、競技の中で、何ほどのものなのであろうか?そして、それは、彼女の人生の中で、どれ程の差が、それだけの価値があるのであるのであろうか?それとも、その差の中から、学ぶべき何かがあるとしたら、一体、それは、何なのであろうか?メダルを取り損ねた者という名誉の称号も、宜しいではないだろうか?それとも、そうではないのだろうか?観る側は、何でも、云えようが、、、、、。



官製春闘による賃上げはなるのか?:

2014年02月09日 | 社会戯評
官製春闘による賃上げはなるのか?:
新聞のコラムに掲載されていた従業員1000人以上の企業従業員の定期昇給分の春闘での賃上げは、私が、社会人として働き始めた1974年の春をピークにして、それ以来、オイルショックの狂乱物価、円高不況、阪神大震災、リーマン・ショック、東日本大震災、等と、全く、言い訳に事欠かないほど、坂道を転げ落ちるように、賃金が下がりっぱなしである。経済の好循環であるべき適正なお金の循環が、全くみられない。オレオレ詐欺の被害額とは、真逆に、下がりっぱなしで、上昇反転する気配がない。1989年の連合発足自体が、そもそも、労働運動の行き詰まりを象徴したようなもので、それ以来、非正規雇用労働者の雇用の問題や、待遇条件など賃金以前の問題が、顕在化してきてしまったし、安易に、経営者側も、諸外国とは反対に、同一労働への同一賃金の支払いを実施せずに、差別を助長する方向へと、向かって行ったのも事実であろう。それにしても、企業内組合というものも既に限界に達していようか?大企業と中小企業という二重構造に加えて、労働組合という少数の組織労働者と大多数の未組織労働者という不可思議な二重構造の中で、政府・労働・産業界の協議会なる政労和製・官製春闘という動きであるが、これは、とにかく、賃上げがされて、デフレの改善に寄与すれば、それはそれで、宜しいとでも云うのであろうか?お金は正直だから、好循環に廻れば、それなりに、経済の好転を促すことになるのであろうが、そんなことで、本当に労働運動は、果たして、良いのであろうか?私には、何とも、不可思議にしか、思われないし、それが、社会の中で、素直に、受け容れられるものなのであろうか?もっとも、賃金さえ、上がれば、とにかく、宜しいではないかという議論も、分からぬではないが、それ程、40年間も、考えてみれば、私がずっと働いていたときには、賃金は上がっていなかったと云うことである。そして、まさに、独立したときにも、一向に、景気は、良くならなかった訳であるが、その中でも、必死になって、自らの手で、自己責任で、帆に、風を受ける時期を見いだそうともがいていた訳である。しかし、独立自営の個人経営者は、それでも、自己責任で、リスクを負いながらも、自分で、報酬を決定することが出来た訳であるが、これが、組織の一員としての従業員であれば、そういうわけにもゆかぬものであることは間違いない。自分の力で、賃上げを決定できない労働者は、どうしたらよいのであろうか?何とも、景気のいい話ばかりが、先行して、本当に、労働者個々人の所にまで、お金が廻ってくるのは、いつの日になるのであろうか?



佐村河内守事件に考える:

2014年02月08日 | 社会戯評
佐村河内守事件に考える:
すっかり騙されてしまった。別にオレオレ詐欺や特殊詐欺ではない。余りの美談に騙されて、CDをつい買ってしまった。NHK肝いりの特集番組にも、見事に騙されてしまった。全く、オレオレ詐欺や特殊詐欺よりも、巧妙である。考えてみれば、曲が良い、気に入ったと言うこともさることながら、商品というものは、所詮、その背景にあるイメージや曰く因縁・故事来歴ではないが、そういうトータルなもので成立しているのであるのかも知れない。従って、贋作であっても、初めから、共作であると告知されていたら、どうであったのであろうか?どこか、何かしら、その裏には、商業主義のストーリー性が、見え隠れしないわけではない。芸術とか云うものは、一体、どういうものなのであるのか?誰が作ろうが、何と言われようが、贋作でも何でも、その人が好きだと思えば、それに越したことはないのであろうか?それとも、やはり、氏素性が、大切なのであろうか?ある曲が、商品化され、CD化され、流通段階に乗る前に、十分、販売戦略、戦術が、マーケティングも含めて、或いは、ストリー性も含めて、或いは、顔の見える商品というイメージですら、何かしら、そこには、一定の人為が、加工されることは避けがたいものなのであろう。慧眼をもって、真贋を見極めることは、もはや、容易なことではないのであろうか?原材料表示ではないが、ある種の情報を前提に、私達は、すべて、購入の前に、決断を行っているのであろう。しかも、それを疑うことなく、、、、、、。新薬のデータですら、メーカー・医師による恣意的な改竄がなされ、客観性は、担保されず、一体、我々は、何を基準にして、考えれば、判断したら良いのであろうか?マスメディアも、被害者なのであろうか?それとも、加害者、共犯者の一翼を担がされていたのであろうか?では、我々、消費者は、完全な一方的な被害者なのであろうか?ヒトを殺したわけでもなく、まあ、広い意味では、お金を詐取したことにでもなるのであろうかも知れないが、人の心に傷をつけた、或いは、被爆者・聾唖者・被災地の少女などの心を踏みにじったという行為は、まさしく、「心への犯罪行為」と言うべきものなのであろうか?しかも、それが、18年の長きに亘って、仮面の下で、生活していたとなると、、、、、、。もう一度、交響曲1番、ヒロシマを聴いてみることにしようか?どんな感情が芽生えてくるのであろうか?その事実を知る前と知った後では、、、、、、。それでも、曲自体は、変わらないと云うことなのか?それとも、、、、、?ゴーストライターもさることながら、本人自らの説明責任が不可欠であろうか?それとも、もう、そんなことは、必要性もないということなのであろうか?疑い始めると切りがないが、果たして、ベートーベンは、本当に、耳が聞こえなかったのであろうか?(バカヤロー、糞も味噌も、一緒くたにするなと言う声が、何処かから、聞こえてきました!)今や、耳が聞こえるか、聞こえないという方向に議論が向かうのも、的外れのような気がしなくはないが、、、、。



万能細胞のコペルニクス的転回に思う:

2014年02月07日 | 社会戯評
万能細胞のコペルニクス的転回に思う:
何でも、ES細胞、iPS細胞、そして、今回のSTEP細胞に、至って、我々は、改めて、「コペルニクス的転回」なる言葉を久しぶりに聞いたような気がしてならない。成る程、万能細胞という概念なるものも、こうして歴史的な経緯を眺めてみると、面白いものである。まんざら、イモリが、失った手足が、生えてくると云うことも、理論上では、人間で、不可能なことではないのかも知れない。癌細胞の突然変異説というものも、疑わしいことになるのかも知れない。細胞が有する本来の治癒能力とか、修正能力とかいうものとそれが、何かの刺激(?)我々は、何でも「ストレス」のせいにしてしまいがちであるが、その修復能力とは又、異なる「暴走」能力の解明が急がれるところである。修復と防御と変異というものは、どこかで、身妙なところで、途中までは同じであるのに、ある瞬間、何処かで、枝分かれして、癌細胞やSTEP細胞へと別れてゆくのであろうか?そうすると、ピン・ポイントでも、既存の唯一の頼りとされてきた放射線治療とか云うものも、存外、当てにならないものなのかも知れない。研究がこれからもっと進めば、究極の自分の体内で、臓器を創り出し、再生治療するということも、夢ではなくなるのかも知れない。切り取った肝臓の自然治癒を期待するのではなくて、失われた機能を再び、取り戻す根源的な再生治療も、夢物語ではなくなるのかも知れない。癌細胞化の恐れのあるiPS細胞よりも、もっと、コストが掛からずに、しかも、大量生産可能で、安全性が高いと言うことになると、これは、もう、色々な分野にも応用が拡がることであろう。もしかして、究極の若返り等というものも、夢の又夢では無くなるのかも知れない。それにしても、再生医療を目指して、全く、新しい発想で、実験に望んだ小保方さんという人間も、又、それを見守った周囲の人達も、どういうふうにすれば、こういう人材を輩出できるのであろうか?それこそ、どういうメカニズムで、人材を育成できるのであろうか?それとも、人材というものは、万能細胞と同じで、出発点は、同じでも、オギャーと生まれてきてから、ある人間は、癌細胞に、ある人間は、STAP細胞へとなってゆくのであろうか?その「刺激」という分岐点は、何なのであろうか?人生終わりに近づきつつある頃になって、何とも、厄介な課題に遭遇したものである。2010年宇宙への旅ではないが、最期に出てくる胎児のような顔は、丁度、進化を逆廻しにしたような、先祖帰りのようなものなのであろうか?あれは、映画の世界であるとも思われないような気がしてならない。それにしても、難病・再生医療による治療を待ち望んでいる患者さんは、何と多いことだろうか?薄毛や若返り、アンチ・エージング等は、後回しでも良いとしましょうか、、、、、。昔、糸川英夫が書いた「逆転の発想」という本を思いだした。本棚から引っ張り出して、読み返してみることにしようか、、、、。



今度は、ベトナム向け水産物の輸出だ!:

2014年02月06日 | 社会戯評
今度は、ベトナム向け水産物の輸出だ!:
昔、新入社員の時代、貿易の「ぼ」の字を学び始めた頃は、未だ、為替レートが、1ドル=308円の時代であったから、輸出もまだまだ、生き延びることができていた。その後急激な時代の変化と共に、その輸出の仕事も、採算が徐々に悪化し始めて、結局、アッという間に、250円、そして、その200円台すらも、あっさりと割り込み、180円に突入していった。流石に、もうこの時期になると、日本からの繊維輸出も絶えきれず、やがて、輸入へと転換せざるを得なくなり、それから、三国間貿易を含めて、長い間、繊維・食品の輸入という仕事に関わらざるを得なくなってしまった。タダ程高いモノはないと言う言葉があるが、今回も、結局、現地で、体よく、仕事の協力を依頼され、帰国してみれば、何のことはない、日本からの水産物の輸出の仕事をボランティアで、手伝う羽目になってしまった。別に、カネが絡む訳でないから、高い代償を払うわけではないのであるが、多少のストレスは、生まれようか、もっとも、生産管理手法のHACCPならぬ、ビジネスのCCPだけしっかりと、抑えていれば、怪我もすることなく、「頭の体操」程度で、協力できるものであるから、良しとしようか。ストレスが罹らない程度に、程々で、現役の人には大変申し訳ないが、それを生業にしている訳ではないから、Critical Control Pointを抑えつつ、やってみると、存外、欲がないのかどうかは分からぬが、すんなりと、コンテナ1本程度の初回の契約に持ち込める目途がつくことになったのは、驚いてしまう。先方は、現在旧正月であるから、今月末の船積み後は、本格的には、3月以降、春先から、更には、夏場の鮭の本格的な漁獲シーズンに向けての前段階での準備である。それにしても、時代は、どんどん、移り変わって行くものである。鱈や秋刀魚やホタテや鮭が、ベトナムの人達の胃袋へと吸い込まれてゆくのであるから、調理方法と食べ方をきちんと情報提供してあげれば、国内市場と変わらぬ市場に成長することは間違いなさそうである。北海道の標津や根室の地域活性化にもなることは間違いないであろう。これも年寄りのボランティアの仕事であろうか。年に数回、海外旅行と産地への旅行が、出来れば、これ又、美味しいものが食べられそうである。そんな小さなご褒美を期待しながら、年寄りの頭の体操であると思って、協力することにした次第である。草の根の日本食の普及と国内地域活性化に、微力ながらも、協力できれば、これに勝る喜びはない。



振り込み任務完了す!:

2014年02月05日 | 社会戯評
振り込み任務完了す!:
何とも、銀行のATM操作は、全く、面倒である。とりわけ、タッチ・パネル式になってからと云うもの、私の指先は、どうもこのタッチ・パネルと相性が良くないらしい。そんなこんなで、専ら、私の場合には、銀行ネット・オンライン振り込みを利用することにしている。こちらは、一々、時間を気にすることもなく、又、順番を待って並んで、長いこと立ちながら待つ必要も無い。しかも、振込先も登録しておけば、それを検索して、口座番号までも、確認出来、振り込みカードを作る必要も無いし、持ち歩くこともない。もっとも、最近では、このネット振り込みも、スポット・パスワードとか、セキューリティーをかいくぐって、預金が知らぬ間に、他の口座に、振り込まれていたりするネット詐欺が横行し始めているから、気が抜けないことも又、事実である。それにしても、銀行と信託銀行が、横並びで、店舗を構えているものだから、記帳しようとしても、銀行を間違えれば、出来るものも出来ないわけである。係員に、指摘されて、初めて、お隣の銀行へ、向かうことになった。昔は、未だ、銀行のキャッシュ・カードが、共通使用可能でなかった頃には、何度やってもお金が引き出せず、係員に食ってかかったら、慇懃無礼にも、「お客様、このカードは、当行のモノではなく、向かいの銀行のもので御座います」と言われた苦い想い出もある。従って、最近のタッチ・パネル式だけではなくて、基本的に、振り込みなどは、ATMで行う作業は、専ら、女房殿の仕事とし、私は、コンビニでの引き出し役(出し子)専門に成り下がっている。運動も兼ねて、たまに、頭の体操の必要もあってか、女房殿に依頼されて、久しぶりに、田舎のお寺の維持費の振り込みをATMで、操作することになった。まるで、小さな子供の「初めてのお使い」のようである。通帳とカードと振り込みカードと、金額を確認して、緊張の中で、ATM機械と対峙し乍ら、無事、任務遂行完了である。いやはや、PCの振り込みクリック操作に較べて、複雑である。先日は、本当に久しぶりに、お金を引き下ろしに、ATMで、操作していたら、何度やっても、金額の数字入力が、認識されない。(きっと、機械は、ヒトを見分けているのであろう)頭にきて、電話の受話器を取り、タッチ・パネルが、数字認識しません!とクレームしたら、「恐れ入りますが、空いているお隣で、お試し下さい」と慇懃無礼にも云われ、再度、同じ操作をすると見事に、問題なく、スムースに、お金が引き出せました。何とも、ストレスの罹る機械であることか??? そう言えば、現金なみに、直接、口座から、即時落ちるデビット・カードのようなものや、キャッシュ・カードのようなもの、電子マネーが、これからは、年寄りには、必要になるかも知れない。とにかく、財布の中から、小銭を出すこと自体が、そもそも、最近は、指先がうまくつかえずに、スーパーのキャッシャーでは、時間がかかり、もたつく始末である。しかもこれからは、消費税の値上げで、1円単位で、支払うとなると、もうこれは、電子マネーや、カードでの引き落としが、まさに、便利になるのであろうか?又しても、カードが、増えてしまうか?先日も、スーパーで、会員証カードを、女房殿から、借りたにも拘わらず、間違えて、似た色の家電量販店のカードを出したところ、「お客様、これは当店のカードでは御座いません」とレジのパートのお年寄りから、云われてしまった。実に、困ったものである!。これからの時代、どうなってゆくのであろうか?経費の明細内訳をカード会社に、来ていない月分を請求したら、今度は、「当該月には、お客様は、弊社のカードをお使いになられておりませんが、、、、」と云われてしまった。全く、困ったものである。WEB請求書や、明細にしても、1年分をすべて、後で、みられるわけではなくて、せいぜいが、2ヶ月か、3ヶ月程度止まりで、実に不便である。月末になると、一生懸命、ATMで、格闘している人を横目で見ると、可哀想になってしまいます。これから、ますます、歳をとってゆくとなると、どうなってしまうのでしょうか?テレビで、脳を刺激する手指先体操というのをやっていましたが、これが、実に、簡単そうでいて、難しいのには、参りました。PCの打鍵だけでは駄目でしょうか?これから先が心配になりますねぇ。一人暮らしのヒトは、どうするのでしょうか?社会の共助と自己責任と言う二文字が、頭の中で、空しく、グルグルと廻っています。



たまには、明るいニュースが一番である!:

2014年02月04日 | 社会戯評
たまには、明るいニュースが一番である!:
昔、海外出張で、初めてCNNのテレビ・ニュース・チャネルを見た時に、世界では、やたらと毎日、何と、こんなに殺し合い、いがみ合い、紛争がエンドレスに続くのかと、愕然としたことを想い出す。確かにそれが、まさしく、現実であるのかもしれないが、人間は、そんなものを毎日毎日、観ていたとしたら、神経が何処かおかしくなってしまうものである。暗いニュースばかりでは、心まで、何故か、悩ましくなってしまう。ローザンヌ国際バレー・コンクールでの日本人の快挙と云い、万能細胞発見の小保方さんの報道と云い、日本人も、まだまだ、棄てたモノではないようであると嬉しくなってしまう。若い人が、若い時から、女子ジャンプの高梨選手や、プロのスノー・ボーダーとか、どんどん、日本という国や教育の枠を越えて、世界に向けて、自分の才能を開花させていってもらいたいし、そういう機会を作って行ってもらいたいものである。もう、毎日、殺人事件や育児放棄やら、そのたびに、家族がどうだったとか、幼少期での親の育て方はどうだったとか、まぁ、そういうことも、本質的に事件解明の分析には必要ではあろうかとも、一概に否定はしないが、負のマイナス面ばかりの解析ではなくて、もっと、前向きのプラスのこうした明るい事例の分析をマスコミにも、期待したいところである。下らぬスキャンダラスなことはもうどうでも宜しいではないだろうか、もっと、日本人は、前向きに、世界に向かって、発信できるような人材の発掘、ヒトの育て方を、こうした若い人達から、是非、年寄りも含めて、同世代の人達にも、学んで貰いところである。女子なでしこも、サッカー、アイスホッケーも、宜しいではないか、リケジョも、結構、女子ジャンパーも、ボーダーも、ダンサーも、未知なる外国へ飛雄して、若い頃から、色々な各国の人達の中で、外国の言葉を学び、揉まれ、育てられ、挫折を経験し、困難に、立ち向かい、狭小な日本という小さな島国根性にとらわれることなく、もっともっと、多くの若者達が留学や、一芸でも、何でも、思い切ってトライしてもらいたいものである。そして、それを親御さん達は、どのように見守りながら、見送っていったのであろうか?或いは、幼い頃から、どのようにしてその才能を発見して、伸ばして、育てていったのであろうか?年寄りこそは、そうした若い人達の良き理解者、後援者足らねばならないであろう。それこそが、日本の再成長戦略の要めになる礎ではないだろうか?未だ、中学生や高校生であっても、十分、適切な教育と家庭教育や社会の理解と育て方で、こんなにも、大きく飛躍するとは、驚きである。毎日、非正規雇用者の暗い話題や内向きの引きこもりの話ばかりではなくて、こうした前向きの議論が、家庭でも、公の場でも、社会の中で、もっと、もっと、巻き起こって然るべきであろうし、そうしないと、本当に、日本は、浮かばれないことになろう。それにしても、自分の同い年の頃に較べると恥ずかしくなってしまう!今後、どのような大人に、育ってゆくのであろうか?どのように、世界の中で、活躍の場を見つけてゆくのであろうか、多いに楽しみである。そして、それに続く、若い同世代の人達を、どれだけ、日本という国は、生み出してゆけるのであろうか?まだまだ、棄てたものではなさそうである。今しばらくは、見続けられそうである。



節分の豆まきに涙す:

2014年02月03日 | 動物・ペット
節分の豆まきに涙す:
節分の頃になると、亡き愛犬のことをどういう訳か、想い出す。我が愛犬は、保護犬であったから、その氏素性は分からない。頭の良い愛犬であったのは確かであるが、唯一、欠点と云えば、散歩の時に、必ずと行って良いほど、拾い食いをする癖である。小さい時から、散歩の際に、道に落ちているちり紙を加えて、素早く、くしゃくしゃと噛み砕き、呑み込んでしまう。金属製のチョークひもをグイグイと引っ張っては、首に、衝撃を与えると、立ち止まり、お座りで、一旦制止するが、その後、良しというと、再び、同じように、グイグイと引っ張ってゆく。女房殿に至っては、ちり紙を引っ張り出そうとして、口に手を入れて、ガブリと噛まれたこともある。まさに、飼い犬に噛まれる始末である。そんなこんなで、長じても、この悪食は、直ることなく、私は、氏素性が分からぬから、仕方ないと、匙を投げていたものである。そんな愛犬も、節分の日だけは、特別である。どういう訳かわからぬが、戸外に投げられた炒り豆が、大好きで、地べたに、警察犬の如く、鼻先を擦りつけながら、クンクンとかぎつけては、器用にも、長い舌をペロリと伸ばしては、平気で、ボリボリと貪り喰うのである。そんな愛犬も、亡くなる昨年には、外の散歩も困難になり、結局、特別に、炒り豆を買ってきて、手から、一粒一粒づつ与えると、美味しそうに、その味を噛みしめながら、愉しんで食べていたことが想い起こされる。炒り豆の香りが良いのであろうか、それとも、大豆イソフラボンが好きなのか、よく分からぬが、そんな愛犬も、残念ながら、今年の節分には、もういない。鬼は外、福は内という掛け声を聴くにつけて、そんな想い出が、我が胸に去来する。小諸のお墓には、炒り豆を供えてみることにするか、どうしているのであろうかと、、、、、、思うと涙が滲んでくる。ラミネートに加工された写真は、気持ちよさそうに、穏やかに、眠っている。



確定申告、只今準備中!:

2014年02月02日 | 社会戯評
確定申告、只今準備中!:
現役の頃は、会社の税務関係は、皆、公認会計士や経理の担当者に任せて、必要に応じて、B/SやP/Lをファイルで、都度貰い、自分の申告も源泉徴収票などを、準備して貰っていたが、今や、現役を退いてからは、お小遣い稼ぎにしても、一応は、青色申告会での指導を受けながら、屋号での確定申告に移行することにした。これまでと違って、数字の管理を、とりわけ、経費管理と領収証の整理をきちんと行い、これを、今年からは、専用のソフトに打ち込んで、更には、PCに打ち込んだデータを使って、イータックス(電子申告)まで、試してみようかと考えることにしてみました。青色申告会での相談は、こちらは、時間があるので、何時でも良いし、詳しく、懇切丁寧に、指導してくれるので、有難い話である。会費を払っていても、これならば、これまでの分も含めて、控除が、充分と活かせそうである。それにしても、薬局の領収証も含めて、実に、ややこしいことではあるものの、一度、やってしまえば、医療費控除も、それ程、難しいことではない。もう、何十年と女房殿に、任せっきりで、確定申告を行ってきたが、いよいよ、昨年から、本格的に、自分の手で、やらなければならなくなった。考えてみれば、父も、60才を過ぎてから、パソコンを勉強し始めて、数字を打ち込んでいたことを思い出す。それにしても、税金の控除というものは、なかなか、興味深いものである。経費の分類・処理も含めて、サラリーマンでは、なかなか、こんな風に、控除やら、経費で合法的に、落とせるものではない。会社がサラリーマンの個人に代行して、税を源泉徴収するというシステムを考案した官僚は、大したものである。利便さと引き替えに、税金の還付をサラリーマンに諦めさせ、いつの間にか、課税されてとられた税金に対して、結局は、この巧妙な姑息な仕組みは、税に対するアパシーに貶められてしまう麻薬のようなものになってしまった。PCデータ申請に向かわせるために、より多くの税の控除金額を認めることで、恐らく、これからは、イータックス(電子申告)へと進んでゆくことになるのかも知れない。今年は、自分でも、早速、試してみることにするとしようか。どうなることやら、興味津々である。



機内映画、「ローン・レンジャー」を観る:

2014年02月01日 | 映画・テレビ批評
機内映画、「ローン・レンジャー」を観る:
考えてみれば、随分と、色々な映画を、海外出張の途中に、観たものである。もっとも、選択の余地が少なく限られているから、暇潰しに、或いは、読書の合間に、うたた寝も兼ねてと云った具合であるが、まあ、2時間程度を費やせることは、長旅の気休めにはなろうか、そんなことで、今回も、ビデオの機器の扱いを一応マスターしつつ、映画の題名の選択に入る。幾つかの候補の内、まぁ、この映画が、退屈しなさそうであるので、選んでみることにした。ディズニーのアニメよりは、良いだろうか?何せ、限られているから。
ジョニー・デップのカリブの海賊シリーズのコンビによる、あの往年のローンレンジャー誕生秘話という物語で、西部開拓史の勉強にもなろうというものである。なにせ、子供の頃は、白馬ならぬチャリンコに跨がって、「ハイヨー、シルバー!」と掛け声勇ましく、乗り回したものである。もっとも、時には、このチャリンコは、「少年ジェット」のオートバイにも、変身するのであったが、、、、、、、、。まあ、そういう子供時代の懐かしい想い出も、蘇ってくるというものである。話を映画に戻そう。要するに、ストリーとしては、正義感の強い少壮検事が、兄のレンジャーの死を切っ掛けにして、「法と正義」という名の下に、無法と暴力に、結局暴力に、仮面をつけて、悪霊ハンターであるコマンチ族のトントとともに、ローンレンジャーになるという経緯を、当時の時代背景を通して、コミカルなアドベンチャー活劇として描いたものである。私は、別にアメリカ史に詳しくはないが、西部開拓史を少々、この映画を観てから、もう一度学んでみたくなりました。時代背景として、南北戦争、ゲティスバーグの闘い、白人開拓者とアパッチやコマンチ族の先住民との衝突、騎兵隊という役割、当時の「法と正義」とは、大陸横断鉄道会社と株主達、金や銀の鉱物資源の価値とは、クーリーと称された中国人移民とは、西部開拓という名の下での「権利と自由」とは、或いは、平等・差別・先住民族・銃、等々、今日、考えても、これらのキーワードは、そのまま、今日のアメリカ社会を読み解く鍵であることは間違いなさそうである。
トントがいつも口にする「キモサベ」という言葉の意味が、「兄貴のほうがマシだ」と言うことも初めて知りました。又、少年だったトントが、子供の時に偶然、助けた2人の白人が、後年、一人は、大陸横断鉄道の建設に関わる悪徳資本家に、もう一人は、レンジャーの兄を殺害する悪党になり、二人が、実は、裏で、結託して、先住民族のインディアンを裏で、騎兵隊を使って、協定破りを演出させて、駆逐・排除し、その土地を合法的に略奪して、鉱物資源を西部へ送ろうとして、画策する、、、、、という時代背景である。成る程、今日でも、多かれ少なかれ、金や銀が、シェール・ガスに置き換えられ、疲弊した土地が一転して、成金となり、地下水の環境破壊が進行しつつあると云う現実、これに伴い、成金の横行と貧富の格差が、現実化しつつある。今日の法と秩序という現実は、当時、銃という力で、悪という、或いは、不法というものに対しては、暴力に対して、正義の暴力を持ってして、正義の仮面を被ろうが、何をしようが、対峙していたことが、改めて再認識されるし、当時の法と秩序は、実際に、そうした矛盾の中で、歴史的に、体系化・現実化・制度化されてきたことを改めて、思い知らされる。成る程、子供心に、チャリンコで、「ハイヨー、シルバー!」と遊んでいた私は、65才にして、初めて、ローン・レンジャーの誕生秘話とトントの幼い頃の辛い過去を垣間見た思いがした。そして、米国の目指すところの今日の「法と正義」の成り立ちの歴史を見たような気がする。「テキサス・レンジャーズ」のダルビッシュ有にも、是非、観てもらいたいものである。