小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

樹の枝で、鳥の巣を作るイベントにお邪魔する:

2014年09月15日 | 社会戯評
樹の枝で、鳥の巣を作るイベントにお邪魔する:
何でも、大きな樹の幹の根元に、太い枝を組み合わせて、ベースとして、そこから様々な形の鳥の巣のような小屋というか、ツリー・ハウスを作ろうとする大人の遊びである。小諸の百福センターにある気鋭のプロのデザイナーによるところの各種ツリー・ハウスとは、そのコンセプトでも、趣旨をことにするものである。枯れ枝や、伐採した枝を自在に、その長さ、曲がり具合を、活用して、シュロ縄を水につけてカットしたり、HCで売っているU字結束鉄線を使用したり、ビスで、ドリルを駆使して、枝同士を丸く、まるで鳥籠みたいに、直径3メートル程度の球体が、入り口を付属して、大きな神酒の廻りに、完成です。作り時のルールとしては、取り上げた枝は、一度取り上げたら、交換しない、使い切ること、枝を長いからと言って、ノコギリで切らないこと。大人10数人がかりで、勝手気儘に、枝枝を上下・左右・斜めに、組み合わせてゆくと、見事な鳥の巣のような球体が出来上がってくる。何とも不思議な「アート」の出来上がりである。子供では、中に入ったり、外を
木登りしてみたり、無論、外から、中は丸見えだし、中~、外は、枝越しに、鳥になったような気分になることは間違いない。鳥籠の中の小鳥の気持がよく分かろうと思われる。それにしても、存外、強度があるものである。大の大人が、よじ登っても、別に崩れるような代物でもないし、屋外だから、枯れたら、再び、作り直しをすれば良いだけである。一寸、ツリー・ハウスとは又趣きを異にしたアート感覚の大人の隠れ家のような(無論、子供には、最適であることは間違いないが、、、、、)代物である。成る程、自然のものを、そのまま、その素材の有する特性を加工することなく、そのまま、活用するような、すべて、無用のモノはないというまるで、老子の「無要の要」のような理屈であろうか?なかなか、哲学的なルールである。すべての枝は、その有するものの特徴を如何なく、活用、発揮されるべきであるという考え方であろうか?まるで、現代の今の世の中の人間を、この枝になぞらえても良さそうである。更に、作業の途中で、謂わば、「樹を見て森を見ず」にならないように、少々、離れた位置から、客観的に、全体像を眺めて修正を加えながら、作業することも、肝要であると、もうこうなると、「大人の遊び」とは思えぬほど、奥深いものがあろう。子供にも、一緒になって、考えながら、やって貰いたいものである。お勧めの一品である。

アラブ異文化に接する:

2014年09月14日 | 社会戯評
アラブ異文化に接する:
ビジネス上でのイスラム異文化との接点は、過去、個人的にも、有していたので、アラブからのモスリム観光訪問客にも、とりわけ違和感はない。しかしながら、ビジネス上では、どうしても、商売優先であるから、相手に対しても、失礼の無い範囲での会話に終始し、相手に嫌な感情を持たせないのが、最前提だったのであるが、今回は、別にそんなことを気にする必要も無い。何でも、生まれは、シリアで、育ったのは、両親がクェートに移ってきたのに伴い、そこで、教育を受けて、現在27才で、銀行に勤務していると、そして、渋谷に滞在して、東京では御嶽山に、ハイキングしたり、佐久の山村テラスハウスに、Airbnbの仲介で、小諸の読書の森に、一泊することになったらしい。次は、須坂市に行き、19日間の日本滞在を愉しむと。まずは、食事が問題である。厳格なハラルの規律に適合しないと、アルコールや豚肉、或いは、鶏肉でも、出汁に豚が使われていたりしたら、駄目なので、況んや、豚骨ラーメンなどは、全く、論外の外の外である。従って、野菜中心で、野菜の煮物や薩摩揚げや、蕎麦という具合になった。飲み物は、お茶である。ビール、発泡酒でもとんでもないところである。話は多岐に亘る。日本人の宗教観、天皇制の歴史、日本人の美意識と文化、多神教と一神教の話、仏教と神道・神仏習合・アミニズムの話とか、元寇の歴史の話や、忍者の歴史、鮨の歴史、天ぷらの歴史、わさびの効用、茶の湯の話、等…、そして、今度は、アラブ文化について、質問の雨・霰である。貴方は、スンニ派か、シーア派か、と、どうやら、スンニ派であるらしい。シリア内戦の話や、イラクのクェート侵攻の話、サダム・フセインの話、そして、コーランのお祈りの話、一日5回のお祈りと時間帯の話、日付変更線や飛行機に搭乗している時には、お祈りはどうするのか?寝坊をしてしまったら、一回スキップするのか?アラビヤ文字は、右から左へ書くが、日本は、上から下へ、或いは、左から右へ、書いたりするが、何故なのかとか、習字同様に、アラビア文字の習字、フォントは、どんなものがあるのか?スマホの写真を見せて貰い教えて貰いました。モスリムにとっては、犬の鼻は、不浄なものとするので、室内のワンちゃんは、一寸、敬遠されました。犬の方は、近寄ってくるのですが、その都度、追い払われ、ワンちゃんは、キョトンとしていました。コーランの一節を朗読して貰い、まるで、お経のような響きです。更に、アラビア音楽をスマホから、みんなで拝聴することになりました。なかなか、その響きは、印度音楽などの影響もあってなのか、驚くべき事に、日本の作曲家では、喜多郎のシルクロードが一番、好まれているそうで、確かに、メロディー・ラインが良く似ていました。又、楽器でも、琴の音色は、大変アラビア音楽の楽曲に、類似していて、とても、好きであると云っていました。それにしても、シルクロードではありませんが、文化の伝播とは、ある種、成る程と思われるときがあるものです。改めて、極東の端に位置する日本という国は、様々な文化や音楽や宗教が、シルクロードや中国・朝鮮半島、或いは、インド・東南アジア・沖縄経由で、日本に到達してきたことを改めて、気付かされました。残念乍ら、イスラム国をどう思うかとか、神風特攻隊の話と自爆テロの話に関して、討議できなかったのが、私としては、心残りで、残念な限りです。いつか又、会う機会があれば、そんな話もしてみたいと思いました。良い旅行をして、たくさんの日本人と出会い、伝統と文化と歴史とに接して、帰国して貰いたいものです。草の根の異文化交流というのは、こういうことを通じて行われなければ、外交交渉も、海外情報発信もうまく行かないのではないでしょうか?そんなことを思いました。

朝日新聞の抱える問題:

2014年09月13日 | 社会戯評
朝日新聞の抱える問題:
それにしても、家庭では、せいぜいが、新聞は、1紙のみで、余程、書籍費で、新聞購読代を経費処理出来る家でない限り、異なる新聞を読み比べられるような家は、少ないであろう。況んや、ウェッブ・ネット版が浸透し始めてくると、アナログで、紙面の文字を追うような人間は、今や、少数派に転落しているのかも知れない。或いは、新聞すらも、読まないような人間が増えつつあるのかもしれない。何とも、(原発の吉田調書)・(従軍慰安婦証言の記事)・(池上氏の掲載拒否)、どれをとっても、天下の朝日新聞のメディアとしてのブランド力も、今や、地に墜ちたと云っても、過言ではなかろう。記事自体の訂正・削除よりも、客観的な検証作業を怠ってきた自浄作用、並びに、それを時間の経過と共に、20年以上もの長きに亘って、放置してきたこと、更には、自分に都合の悪い批判に対して、一切の耳を貸さなかった権威主義の押しつけは、言論の自由と民主主義の根幹に関わることであろう事は、言を俟たない。とりわけ、従軍慰安婦の記事の取り消しは、その後の外交的な敗北と、世界的な戦時下の女性人権問題に関しての日本という国自体の品格の失墜に及ぼした影響は計り知れない。報道の責任とは、報道の影響・結果に対する責任を、免れることは出来ないであろう。この異なる3つの問題は、時系列的にも、時期が異なり、社内の検証自体も、過去の先輩に対する責任の追及ということを免れることは出来ないであろう。言論の自由を守り、無謀な権力の抑制という役割の一翼を担うべきマスコミの中で、平然として、それ自体が、権力主義化して、日常化していることの方が、空恐ろしい限りである。担当取締役の解任や社長自らの退任・責任もさることながら、言論の自由とは、改めて、如何なるものなのであろうかを、我々、読者一人一人は、問い直さなければならない。それでは、他のマス・メディアが、如何ほどのものなのであるのか?他紙の新聞社、テレビ、ラジオ、ネットも含めて、、、、、、。警察発表を鵜呑みにして、何の検証・裏付けもとることなく、只、配信するだけ、役所や官僚の数値発表を、そのまま、鵜呑みにして、提灯記事を書いて、配信すること、そして、その結果を「敗軍の将、兵を語る」などとバイプロ的な記事までも平気で、反省することなく、世に送り出すこと自体、意識の何処かで、既に、報道の精神は、死んでしまっているのかも知れない。正確に、紙背を読み抜くにたり得る心眼を、如何にして、我々は、持ち合わせることが出来るのであろうか?学校でも、家庭でも、社会でも、会社内でも、そういう地道な作業が行われているのであろうか?さもなくば、大本営発表の記事は、この事件に限らず、常に、起きうる可能性は、どんなに、詳細な検証結果が発表されようが、否定は出来ないであろう。

実質賃金は、果たして、いつになったら、上がるのか?:

2014年09月12日 | 社会戯評
実質賃金は、果たして、いつになったら、上がるのか?:
何でも、非正規社員の正社員への登用やら、限定正社員への切り替えにより、実質賃金の上昇に、良い影響が出ようなどと云う楽観的な見方が出ている。しかしながら、本当なのであろうか?よくよく考えてみれば、本来、正社員で採用すべきパイを、実質的に、この失われた20年の間に、非正規社員や派遣社員として、総賃金額を抑制しただけであって、低賃金労働政策だけでは、昨今の人手不足を補うことが出来ずに、結局、正社員へと再び、登用することで、これを埋め合わせただけの話で、決して、積極的な労働生産性の向上に伴う利潤の分配率を増加させるモノではない。しかも、成長戦略の実質的な進捗が、実感されない限り、急激な円安・ドル高の進展もあって、ますます、実質的な賃金水準の伸びは、輸入・電力コストの増加とも相俟って、相殺されつつある。更には、円安にブレたとしても、既に、日本の経済体制自体が、グローバル化の下で、急激な円高に対応する海外生産システムを構築していて、直接的な日本本国からの輸出が、金額上も数字上も、伸び悩んでいる構図が現状であろう。天候不順という要素を差し引いても、今後、個人消費性向は、秋口に向かって、どのように、推移するのであろうか?無論、来年度末に予想される消費税の10%へのアップにしても、するにしても地獄、しないも海外からの国債の利率上昇のリスクという地獄の状況になるのか?実質的な賃金上昇が伴わなければ、力強い景気の回復と安定的・持続的な維持は、不可能であろう。大都会だけの景気の回復で、地方での実感が乏しく、従って「地方創生と女性活用」を声高に叫ばなければならない現状なのであろう。どの要素をとっても、時間的な制約もあり、なかなか、思うようには、良い方向へ相互機能するまでに至っていない。冬のボーナス時期には、どのような賃金上昇が期待されるのであろうか?小手先だけの数字ではなく、実質的な数字の評価が問われるところである。アベノミクスもいよいよ、正念場に差し掛かろうとしているのだろうか?

初秋の訪れ:

2014年09月11日 | 社会戯評
初秋の訪れ:
東京では、ツクツクホウシの鳴き声を聞いたが、これは、もう、夏の終わりに当たり、既に、秋は、もうすぐそこにきている気がしたが、小諸では、桜の樹の葉が、今や、オレンジ色に、変色し始めてきていた。萩の花は、もうすっかりと、緑色の種を膨らませている。彼岸花の球根の花が、高く、空に向かって、紅色の花を咲かせる準備をし始めているし、モミジの葉は、葉先が、ややオレンジ色に変色するのも、もう時間の問題なのかも知れない。白い花を咲かせていた綿帽子の木々も、赤いオレンジ色の種を落とし始めていて、その熟した実を野鳥たちがついばんでいる。ドングリの緑色の木の実が、パラパラと音を立てながら、落ち始めている。蕎麦の白い花が、畑一面に、咲き乱れているが、これも、時間の経過と共に、やがて、黒い枯れた実をつけることになるのであろう。新蕎麦の季節が待ち遠しい。田んぼでは、稲穂が黄金色に、穂先を垂れ下げ、刈り取りを待つばかりである。久しぶりの青空は、空気が澄み渡り、気持が引き締まりそうである。秋茜の群れも、数を増しているような気がする。もう、真夏の強い日差しを遮ってくれた簾も必要なくなり、来シーズンまで、お蔵入りであろうか?チャンと干した上で、しまうタイミングを見計らっている。あんなに活躍したガラス戸の網戸も、もう、日中でも戸を閉めていないと肌寒いくらいである。日中は、蒸し暑く、まだ、車中では、真夏の様相であるが、朝晩は、すっかり、肌寒くなってきた。肌掛けだけでは、夜中は、寒くて、毛布が必要となってきた。秋のお彼岸でも過ぎれば、急速に、秋の気配が深まることは確実であろう。今年も又、残すところ、後3ヶ月しか、残っていない時節が近づこうとしている。

スポーツ観戦が続く:

2014年09月10日 | 社会戯評
スポーツ観戦が続く:
結局、いつものように、目覚まし時計をセットしたにも拘わらず、しかも、そんなに早くから起きてみていても、(ネットで、観戦しようとしたが)どうせ、3時間以上に及ぶ試合になるであろうから、8時頃からでも十分、観れるかなと予想していたが、案に相違して、何と、テレビを念の為につけたところ、試合が、終了してしまっていたのには、絶句してしまいました。ご苦労様な話です。歴史的な快挙というものは、なかなか、生では、経験できないと云うことがこれ程、痛々しく、感じられたことはありません。やはり、期待するモノではないですね。プロの解説者の云うことは、全く、持ち上げておいて、突き落とすという、いつものパターンで、困ったものである。WAOWAOだけが一人勝ちだったのでしょうか?やはり、テニスは、先手必勝のサービス・エースが、肝要なのであろうか?それとも、再び、錦織選手は、この定説を覆すにたり得る戦略と結果を、更なるトレーニングで、いずれ近いうちに、出してくれるのであろうか?お楽しみは、先延ばしにと云うところでしょうか?コメントは、プロの解説者に任せて、今回は、分析コメントは、お預けとします。誠に残念でした。早起きして、応援した人達には、ご苦労様としか、云いようがありません。

アスリートとコーチの間合い:

2014年09月09日 | 社会戯評
アスリートとコーチの間合い:
テニスは、昔、子供達や女房殿と一緒に、米国で、練習したものであるが、打ちやすい方向へ、フォア・ハンドで、球を打つにも拘わらず、案に相違して、しばしば、逆方向へ、打ち返され、それでも、一寸、手の届く範囲であれば、未だ良いのであるが、全く、箸にも棒にもかからないような球筋であると、もうこれは、一々、追いかけることはしない。その意味で、外人曰くでは、こういうプレイヤーを、ソーシアル・テニス・プレイヤーであると呼ぶそうである、、、、、、、、、。考えてみれば、プロ・テニスは、その意味で、全く逆で、相手に球を返せないように、球を打つことが、究極の目的なのであり、その為に、左右・前後に、将又、斜め目前に、或いは、斜め後ろへと下がったり、まるで、マラソンのように、球を拾いまくるわけである。勝つことの要素としては、サービスが、まず一義的には、有効な要素なのであろうか?それとも、リターンなのか?それとも、ラリーの応酬なのか?将又、スタミナなのか?否、ジュース・ジュースの応酬の中で、或いは、アドバンテージを取った瞬間に、或いは、タイ・ブレークを破るだけの技術と精神力なのであろうか?背が高いという利点、打点が高くなると云う利点、背が低いという欠点、腕が短いという欠点、歩幅が短いという欠点、球の筋を見定めるだけの予測能力なのか、筋力、走力、腕力、グリップの握力、そして、スタミナとも関係する持続力、精神的なタフネスさ、勝負強さ、サッカーではないが、一体、プロ・テニスの世界では、どんな科学的なデータが、分析されているのであろうか?サービス・エースの回数・勝率・範囲や場所、野球の投手のスピード・ガンではないが、サービスの速さとリターンの速さとか、実際に、どれ程の圧力が付加されているのか、サッカーや野球のデータ分析ではないが、どんな科学的なデータ分析と究極の対策が、コーチによって、戦略的に、寝られているのか、或いは、球の軌跡から、どういう瞬間に、前に出るのか、後ろに下がるのか、更には、ゲーム・カウントと試合全体のスタミナを考えて、敢えて、消耗しないようにするとか、戦略的に、戦術との整合性を考えて、試合の対策を練るのであろうか?それにしても、強い心・勝負心・勝負強さは、どのような中から、コーチから、アスリートの魂へ、移入されるのであろうか?ボクシングや野球やサッカーやバレーボール、等と同様に、テニスにも、何か、そうした共通する「成功の定理」が、あるのであろうか?それは、マイケル・チャンが、錦織という日本人アスリートに、嘗ての自分を映し出した結果なのであろうか?名伯楽ありて、名馬有りなのか、それとも、名馬ありて、名伯楽有りなのであろうか?もっとも、コート上の選手もさることながら、コート外でのコーチやスタッフ同士の代理戦争であるとも、云われているが、はてさて、その歴史的な瞬間の答を、朝早起きして、最初から、確認するとしようか、それとも、途中から、確認することにするか、どうしたものだろうか?もっとも、あまり、期待は禁物である。

スポーツTV観戦:

2014年09月08日 | 社会戯評
スポーツTV観戦:
失意の夏から再生の秋へと云うキャッチ・フレーズの下、何でも申請アギーレ・ジャパンが、スタートすると云うことである。それにしても、我が日本人は、過去の惨敗を総括することなく、未来志向(?)で再スタートを由とする民族なのであろうか?サプライズ召集されたなどと云う言葉は、一体、どちらの側に、みる目があるのであろうか?それとも、みる目がなかったのであろうか?後は選ばれし選手の活躍しだいではなかろうか?親善試合であるとか、理屈を捏ねないと、世界ランキング44位の国が、上位国と対戦しても、勝てる見込みは、万に一あるかどうかも分からぬ。期待していないで観ていたが、案の定、つまらぬミスが、目立って、自滅で天をとられてしまった。サッカーは、門外漢だから、今更、世界の主流のフォーメーションが、何だかんだと、途中で、変更されても、所詮勝負事は、結果が出なければ、或いは、内容が良くなければ、徐々に、危難の声を強まってくることは必至であろう。素人目にみても、どうみても、消化不良で、何か、輝かしい未来への光る希望の宝石の原石でも発見できたのであろうか?行き着く先は、後は時間の問題で、監督への采配批判が巻き起こらないことを祈るばかりである。
消化不良気味のサッカー観戦の後は、今度は、ボクシングである。村田・井上・八重樫のと登場である。村田は、自身でも反省している如く、最終的な詰めの甘さと変化をつけた打撃の試みが観られず、練習時での多彩な攻撃パターンが何故か、影を潜めて、実力を発揮しきれない、未消化な試合であろうか、もっとも、未知の領域の10Rまで試合が出来たことは、スタミナの面等で、収穫にはなったのであろうが、まだまだ、世界ランキングとしては、上には上がいて、チャンピオンへ挑戦するには、時間が必要であろうか?未だ、プロ5戦目だから、もう少し、勉強を重ねなければ、成長の伸びしろが見えず、結局先の見通しも、ぼやけてしまいそうである、それ程、期待したほどには、スッキリとした試合内容ではなかろう。もっとも、それ程、順風満帆に、誰でも、一足飛びに、飛躍できたら、この世界も、苦労はないであろうが、、、、、、、、。
天才井上は、その点、ランキング格下とは云え、観客に、魅せるボクシングをする余裕さえも見せたことは、なかなか、21才の年の割には、恐れ入ってしまう。確かに、スピードも、ステップも、上下のパンチも多彩で、挑戦者にして、ベルトを長い間巻くのではないかと言わしめるほど、プロや通好みのファイトである。これから、何回くらい防衛を果たして行くのか楽しみである。
野草魂の八重樫は、伝説の天才、プロアマ通じて、127戦、無敗の記録を有する挑戦者に対して、まずは、挑戦を受けるという事自体、そうした誇りと逃げない敢闘精神を、十分、評価してあげなければならない。ベルトに執着する亀田一族とは異なり、ひたすら、孤高のチャンプとしての意地と誇りを懸けて戦った事自体、更には、本来のアウトボクシング・スタイルを敢えて棄てて、互角に打ち合った果てに、見事、散ってしまったことは、ボクシングファンには、ある種、勝負と言う点では、残念であるが、ボクシングの哲学、ファイティング・スピリットと言う点に於いては、高く、評価されるべきものがあるであろう。小さな幼子を持ちながら、今後、再び、再起に向けて、どのように、カムバックするのかも、楽しみである。未だ、これで、終わるような柔な精神の持ち主ではないと思われる。今度は、得意のトリッキーなアウトボクシングで、チャンピオンのパンチが空を切るところが観たいものである。まだまだ、最期の花を咲かせる日が再び来ることを願ってやまない。戦って、拳を交えてこそ、初めて知る体験こそ、次回の復帰戦に生かされることになるのではないだろうか?チャンプとしての潔い心持ち・誇り、より強い相手と戦いたいという崇高な願いは、興業企画を超えて、たまには、こういう男としての我が儘を聞いてあげても、おおいに、宜しいのではないだろうか?大橋ジムの粋な計らいにも、拍手を送りたくなった。ボクシングとは、KOすることも、一種の美学であろうが、見事に、戦って散ってしまうと云うことも、それを礼賛すること、これも又、日本人のスポーツ美学には、あっても宜しいのではないだろうか?ベルトを失った事は、残念ではあるが、それ以上に、重要な何かを貰ったような気がしてならない。

「残虐性」とは、、、、を考える:

2014年09月06日 | 社会戯評
「残虐性」とは、、、、を考える:
敢えて誤解を怖れずに発言をするならば、別に、モスリム教徒に組する者でもないし、ましてや、スンニ派の過激派テロリストを擁護する立場でもない。無実の米国人ジャーナリストが斬首されるという報道が、全世界に、動画配信されたと云われているが、よくよく調べてみると、表面的には、直截な「暴力表現」と言う理由から、各種閲覧は、ほとんど「削除」されているのが現状である。しかしながら、海外サイトや、一寸、キーワードを英語で検索して見れば、容易に、Message to America, ……Beheaded,,,,,,, というタイトルが、観られるが、一体、この政治性を有するメッセージに対して、我々は、只単に、「残虐的である」という一言だけで、イスラム国のテロリストと称される人間を、同じ土俵の上で、断罪出来うるだけ、我々の側には、それなりの論理が、大義名分があるのであろうか?政治的なイデオロギーには、或いは、一神教であれ、多神教であれ、少なくとも、宗教上での排他性や残虐性・寛容性は、多かれ少なかれ、過去の歴史が示す通り、それ自身に内包・内在していることは、容易に理解出来よう。考えてみれば、つい、70年前までも、狂気の戦争の中で、むごたらしい死に方を強いられてきたものであるし、実際、そうした歴史的事実も、我々は、アウシュビッツや、ベトナム戦争当時のソンミ村虐殺でも、或いは、最近では、民族浄化に名を借りたコソボやアフリカの残虐な部族抗争を嫌と云うほど、これでもか、これでもかと、見せつけられてきたものである。(もっとも、米国西部開拓時代には、白人の頭の皮を、インディアンは剥いだものであることも想い出すが、)このメッセージ性とは、一体、何なのであろうか?これに対抗しうるアンチ・テーゼを示しうるものなのか?一方で、一種のグローバル・スタンダードな世界的な先進諸国と称する、或いは、文明史観的な常識からする、「残虐性」という理論と、方や、恐怖を醸成させるような断首という処刑手段、(北朝鮮での公開処刑ではないが、)しかも、それを全世界に配信するという試みとの間には、何が、その根底・背景で、闘われているのであろうか?マス・メディアは、或いは、何人のジャーナリストが、しっかりとそのシーンを目を閉じることなく、刮目して、動画を観て、考えているのであろうか?日本のジャーナリストからは、そういう観点からの声が、一言も聞こえてこないのには、多いに、遺憾である。流石の毒舌、ビートたけしも、常識の範囲での公式な発言は、控えざるを得ないのであろうか?子供の頃、「世界残酷物語」という映画を怖いもの見たさに、映画館で観たことがあるが、牛の首を儀式の中で、斬首するシーンであったことを想い起こす。無論、人間の首と牛の首では、比較にならぬという議論はあろうが、考えてみれば、未開のジャングルの首狩り族は、平気で、腰に、自慢げに、干からびた首を下げたり、槍の先に、掲げて持ち歩いていたことは、広く、一種のシャーマニズムやアニミズムの観点から、知られている。歴史小説の中に登場する織田信長の磔の仕方や、一向門徒への処刑の無慈悲な仕方なども、残虐極まりないものである。この「残虐性」というシンプルな言葉を境にして、我々は、今日、「こちら側」と「あちら側」は、一枚の壁を隔てて対峙することになっているわけであるが、一体、何が、対立軸にあるのであろうか?文明性と未開性、紳士と野蛮性、西洋的なクリスチャニティーと中近東的なイスラム性、正義と悪魔、等…。一体、我々は、この現実を直視することなく、イスラム国に捕虜として、囚われた日本人をどのように、考えたら良いのであろう?初めから自己責任の覚悟の足りない軽輩だから、仕方ないと云うことなのであろうか?斬首された2人の米国人ジャーナリストは、後ろ手に縛られた切断された胴体に、大量の血塗られた首だけが、ポツンと置かれている映像は、本当は、こうした自分の死に様を、(トリックでなければ)全世界に、真実・現実として公表して貰うことで、自身のジャーナリストとしての使命を、まさに、身命を賭して、訴えたかったのではないだろうか?そして、処刑人のテロリスト(と称されるイギリス人)も、恐らく、同じ地平の上に、立っているという皮肉な結果を演じていたのかも知れない。モスリムに改宗したイギリス人や外国人が、同じ同胞の外国人・異教徒を処刑するという逆説は、おおいに、皮肉である。理解や常識を遙かに超えるということでは、済まされない、無論、人間性の根源にも関わってくる問題でもあり、又、一概に、それだけでは済まされないもっと、「深淵な闇のようなもの」が、奧底には、潜んでいるように思えてならないが、「残虐性」という言葉を、もう一度、考え直して見る必要がありそうです。「恐怖による支配」は、こちら側もあちら側でも、全く、問題の解決にはならないのであろうが、依然として、恐怖を促す残虐性で、世界は蔽われることになるのか?我々は、ガンジーのような高邁な精神性に富んだ哲学の元、積極的非暴力主義(決して、どこかの積極的平和主義ではない)のようなアンチ・テーゼを対峙させることが可能なのであろうか?未だ、道筋が示されていない。くれぐれも、友人・読者の皆様には、FB上で、いいね!は、差し控えるようにお願い申し上げます。さもないと、米国には、入国できないやも知れません(?)ので、、、、、、、。

ネット不正送金、上半期18億円とは!:

2014年09月05日 | 社会戯評
ネット不正送金、上半期18億円とは!:
一体全体、日本というこの国は、オレオレ詐欺というような特殊詐欺を含めるとなると、、どのくらいの富と資産が、不正に、海外に、或いは、他人の口座に、漏洩されているのであろうか?全く、真実の実態は、分からないのではないだろうか?銀行のサイト自身に、巧みに、ウィルスを組み込まれていたら、知らない間に、自分のパソコンも感染され、それを知らずに、ネット・バンキングしていたら、これはもう、大変なことである。しかも、上半期だけでも、都市銀行だけではなくて、地方銀行や信用組合にまで、波及し始めているとは、どのように、会社の資産を防衛できるのであろうか?今更、現金取引やら、一々、窓口へ、書類と登録している印鑑を持参して、送金処理を行うほど、世の中、ゆったりしているモノではない。余程のパソコン音痴か、有り余る時間を有する年寄りのアナログ顧客でない限り、無理ではなかろうか?被害に遭った金融機関をみても、73社にも増加しており、止まるところを知らず、その被害総額にも驚かされるが、今や、悉く、ほとんどの金融機関が被害に遭っているわけで、これはもはや、国家規模でのサイバー金融攻撃としか、云えない。しかも、この内容の報道は、法人中心と云うこともあって、詳細には、報道されていない。何処に抜けたのか、誰が操作しているのか、電子的に、カネが送金されるという流れは、どのように把握されているのであろうか?どうも、釈然としないニュース報道である。信用第一という金融機関としては、まさに、悩ましい問題であろうが、実態が明らかにされることの方が、もっと、リスクが、大きくなるのかも知れない。謂わば、安全神話はとうの昔に崩れ去っており、ある種の報道管制でも何処かで、暗黙のうちに、敷かれているのかも知れない、、、、、とも、勘ぐってしまう。如何なものであろうか?

「企業30年寿命説」に思う:

2014年09月04日 | 社会戯評
「企業30年寿命説」に思う:
それにしても、一度、仕事を辞めてしまうと、再び、朝早く起きて、新幹線に乗って、一日中、車で、休み無しに、生産者のところを外国のサプライヤーと一緒に、訪問して廻ると、いくら、20数年来の付き合いであると云っても、そこは、お互いに、同じ齢を重ねて来ているので、ある意味、身体が、とりわけ、筋肉が、硬直して、乳酸が溜まって、身体も、悲鳴をあげるというものである。昔、「企業30年寿命説」というのが、若い頃、持てはやされたが、蘭の苗も、交配を重ねると、20年やら、30年の株が、あるのには、全く、ビックリさせられる。もっとも、考えてみれば、そんなに、長い間、栽培を更新し続けていても、結局、市場の希望するものを提供していられれば宜しいが、この間に、色の好みや、大きさや、販売する値段も、激変してしまったら、どうするのであろうかと、要らぬ心配をしてしまう。昔に較べて、全く、市場の好みの変化は、劇的に、短くなってきたものである。多品種・小ロットと云われて久しいものの、口で表されるよりも、もっと、現場では、さぞや大変なのであろう。実に、面白いことに、供給業者の方は、「なるべく、簡単に、良い商品が、より多く、より均一な品質で、効率よく栽培されること」を究極の目標として、ものつくりを目指してきたものの、逆に、それを使用する生産者やユーザーの方は、それでは、「差別化できなくて、生き残れない」という皮肉な状況を生み出しつつある。何とも、皮肉なことである。商品ライフ・サイクルが、短くなり、商品自体も、それぞれが、固有の進化を遂げなければ、商品の寿命も、企業の寿命も、賞味期限と一緒で、いつしか、はかなく、EXPIREしてしまうのかも知れない。何とも「皮肉な現実」を見せつけられたものである。商品が数多く、販売され、浸透するにつれて、逆説的に、テめぇの首を絞めかねないこの矛盾、逆説的に言えば、この内包する矛盾に気がつかなければ、商品は、売れないのかも知れない。時代の変遷と共に、企業もヒトも商品も、変わっていかなければならないであろうし、又、待ったなしで、その継承も、危ぶまれ始めている。既に、第二世代目から、第三世代に、移行しつつあるものの、難渋しているのが、現実である。昔、自分が若い頃に、云われていた、「企業寿命30年説」も、いまや、考えてみれば、既に、30年くらいは、有に経過しているが、、、、、、どうなることであろうか?そんな感慨を持ちながら、複雑な思いで、知多半島を後にした。

プログラマー不要のシステムが可能になるのか?:

2014年09月03日 | 社会戯評
プログラマー不要のシステムが可能になるのか?:
金融機関や会社のシステムのプログラミング用に、富士通が、新たに開発したソフトを使用すると、専門的なプログラミング言語が自動的に、日本語から、翻訳されて、システム設計の過程で、多いに、効率化されるという夢のような話である。一部のプログラマーも、不要になる可能性があるのかも知れない。そうなると、人件費の節約と工程日数も短縮化され、ひいては、コストも下がり、システム自体も安く、広く、普及される可能性が出てくるのであろうか?門外漢の私には、良く事情は飲み込めないが、そういう可能性が出てくることになるのであろうか?プログラミングの壁が少しでも低くなれば、素人でも、簡単に、言語の書き換えが可能になり、様々な可能性が開けてきそうな気がしてならない。まだまだ、初期段階だから、夢の又、夢なのかも知れないが、様々な分野で、可能性が開けてくるのかも知れない。将来的には、自分が望むこんなソフトが欲しいなとパソコンに打ち込むと、人工知能で以て、これをプログラミングソフトに、言語変換してくれて、ハイ出来上がりなどと云う具合になれば、これは楽しいかも知れない.そんな時代も、決して、現代のテクノロジーの進化では、決して、夢物語ではなくなるときが、やがて、来るかも知れませんネ。そんな風に感じました。

お薬手帳に思う:

2014年09月01日 | 社会戯評
お薬手帳に思う:
月に一度は、通い慣れたるホーム・ドクターの診療所へ、いつもの薬を取りに伺い、血圧や問診を受けるのが日課になっている。もっとも、薬局で、薬を処方して貰う度に、お薬手帳をお持ちですかと、毎回聞かれる。それにしても、今日、コンビニでも金融機関でも、ICカードやそれに準じるようなデジタル化されたカードの使用が当たり前になっているにも関わらず、どうして、診察券や保健省にリンクされたようなIC化されたカードが提供出来ないのであろうか?薬局でもPCに処方された薬の履歴を自動的に打ち込まれ、これを元に、患者の薬の処方履歴とか、病歴とかを検索・追跡できれば、手作業にも有効であろうし、利用者にとっても、一つの診察券や保険証で済むのではないかと思われるが、現実には、まだまだ、そうゆかないのはどうしたものであろうか?何とも、歯がゆいことである。一体全体、何処に問題があるのであろうか?青色申告の際の医療費控除の申請なども、自動的に、ICカードのデータから、紙に打ち出して貰えれば、一々、手作業で、エクセルに作成し直す手間暇もなくなろうにとも思うが、、、、、、。そんなに難しいシステムでもなさそうであるが、何処に障害があるのであろうか?一体このお薬手帳とは、何が目的なのであろうか?持ち歩くのには、中途半端な大きさであるし、データ記録・収集としては、全く、アナログ以外の何ものでもないし、、、、、、、、。ICカード化で、保険証などと一体化できないのであろうか?