小雨の朝です。
ひめちゃんとタバサねーちゃんは、堀之内の西の方を歩いてきました。
堀之内にも彼岸花がきれいに咲いてきました。
白い彼岸花も咲いてます。
ひめちゃんちの白い彼岸花(リコリス)はもうとっくに散ってます。
違う種類かな?
アチャア、ひめちゃんは久しぶりに黄色い帽子の集団を見付けました。
ひめちゃんは、いくつになっても子供が苦手です。
小学生の集団登校は、密ではなくかなり離れて歩いてます。
みんなマスクして水筒を持ってます
妻沼小島のヒマワリ畑から、牛沢橋を渡って県道142号線に出ます。
岩松(太田市岩松町)の金剛寺に寄ります。
ここには、妙蓮(みょうれん)の板碑があったというのです
太田市HPには、
この板碑が出土した岩松町の延命山地蔵院金剛寺は、岩松直國の開基と伝えられています。
比丘尼妙蓮は、岩松直國への譲状(弘安5年・1282)に見られる藤原土用王のことで、岩松氏の祖、岩松時兼の孫であると思われます。沙弥円仏は系譜は不明ですが、妙蓮の夫と推測されています。
銘文は、達筆な行書で書かれており、円仏・妙蓮夫妻が、生前極楽往生を願って、彼岸の中日に建立したものです。円仏板碑は、高さ147.5cm、幅34cm、妙蓮板碑は、高さ145cm、幅34cmで、2基とも同じ形をしています。石材は緑泥片岩(秩父青石)を使用しており、武蔵型板碑と称されているものです。
2基の板碑には、蓮華座上の月輪内に阿弥陀如来をあらわす主尊種子の「キリーク」が、また、脇侍種子として、下左方に観音菩薩をあらわす「サ」、右方に勢至菩薩をあらわす「サク」が力強く彫りこまれています。さらに脇侍種子の下には、銘文が刻まれています。種子、蓮華座、銘文等の刻法は、鎌倉時代の特長をよく表しており、形も大きく、石造美術としても優秀であるとともに、史籍の欠を補う貴重な資料です。
上野国山上の行仙上人の『念仏往生伝』には、比丘尼青蓮(しょうれん)の往生が記されています。
第卅八 比丘尼青蓮
□者上野住人也。後付夫縁。住武蔵国 。世□之隙。常読誦法花経。既満一千部了。夫夭亡後出家。其後五十九歳。自此以後。依善知識勧。一向称名。至七十三齢。夜見光明如日輪。自南方来照。其頂属疑□処。空有声□云。摂取光明。不簡所処云々。其後堅信心。然□不語外人。七十七歳之夏。五月之比始。語舎弟僧并子息尼。従同八月廿八日。老病□催。至九月七日。所悩平癒。粗得尋常。沐浴潔斎。語知識云。仏既来迎。僧問。仏在何方乎。病人指々空。又戌時四方有光明云々。或□指取数。或合掌□額念仏。至八日□時。自起居。取五色糸唱名号。毎声作礼。即十念十礼也。其後念仏三十返。如眠気止。于時建長三年九月八日。
ヒロイン比丘尼青蓮は、上野で生まれ、後に嫁いで武蔵国の住人になりました。
上野のどこで生まれたか書いてありません。
武蔵野どこに住んだかも、かいてありません。
青蓮を名乗った彼女は、どこで生まれたのでしょう?
普通に考えると、武蔵に近い上野、新田荘が思い浮かびます。
行仙上人は、世良田の長楽寺によく行ってました。
ここは、武蔵に近い武蔵に近い上野の新田荘です
青蓮、妙蓮、何となく繋がりそう
時代的には、念仏往生伝より少し後になります。
でも、念仏往生を願った人の記憶です
県道沿いの「南無延命子安○○」の文字塔から入ります。
大分前に来た事があります。
その時はたいした感動もありませんでした。
左手に御堂があります。
御堂の左に、説明板が見えます。
板碑は新田荘歴史資料館に保存されていると言うことです。
近いうちに行ってみましょう。
子安地蔵尊かな?
厨子の中にはどなたかおいでのようです。
合掌
隣には、子安地蔵尊のお姿があります。
合掌
向こうの建物が、金剛寺の本堂と言うことでしょうか?
金剛の文字がやっと見えます。
合掌
なんとなく比丘尼青蓮の記憶に逢えたような気分です
脇の道を北に行くと石田川です
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