続・黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

上野国山上・葛塚城堀之内に住んでます。ひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

念仏橋と国定秋葉神社

2022-09-22 15:20:49 | 群馬県・旧勢多郡

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、堀之内を西に出ます。

左の道から、黒柴の女の子がやって来ます。

ひめちゃんは、準備万端待っていましたけど、彼女は避けていってしましました。

残念

タバサねーちゃんは、最近年のせいか朝の目覚が遅いです。

まだ眠気が残ってるみたいです。

 

諏訪神社の向こうに、かすかに妙義山が見えます

 

諏訪神社の向こうの高台、キャベツかブロッコリーの植え付けです

今は手植えではなく、機械で植えるのかな

 

ここら辺りからタバサねーちゃん、俄然元気になります

高台の道突き当たりまで行って、南に下ります。

山上城趾公園の南を通って帰ります。

 

蕨沢川(わらびさわがわ)に架かる元町橋(もとまちばし)を渡って帰ります。

巨大な道祖神があります

 

橋供養の塔もあります。

今朝は文字がよく見えます

大雨できれいになったのかな?

 

2人の足は、当然ケンくんちに向かいます。

ケンくん、いるかな?

「タバサねーちゃんが来たわよ」の声にも反応はありません。

残念、いません。

お散歩に行ってるかな?

 

 

 

今朝通ってきた元町橋の供養塔、『赤城山』(大正6年、岩澤正作)復刻版に、気になる記述があります。

山上の石室

山上城趾の傍ら、田園中に在り。石を疊みて室となす。入口の廣六尺許、奥まで十歩許、横六七歩ありしと(上野誌)元禄四年此の石室を破潰せしものゝ中より南面なる前扉を發き其二個を以て字元町天神川に石橋を架したることあり。(今の念仏橋にして落ちて河底にあり今は土橋となる。)其後明治七年当寺の地主某其残石を佐波郡国定村秋葉神社の鳥居用材に売却したりといふ。

念仏橋の碑銘

斯此石橋全吉祥。 渡驢渡馬是平常。
本来功徳幾千萬。  子子孫孫世世昌。
元禄十四年辛巳天八月二十五日

 

この橋は念仏橋だったのです

川は天神川だったのです

永遠と思われた古墳の石を使った石橋は落ちてしまって川底にあったのを、明治7年に国定の秋葉神社の鳥居用材に売ってしまったと言うのです

 

国定の秋葉神社、検索するとあります

両毛線の踏切側で、駐車場はありません

本日、ストリートビューでよくよく路上駐車する場所を決めてから出発です

賽銭箱には、古い神社の記憶かな?

優れた彫刻の社殿があった時があるのでしょう。

2礼2拍1礼です

 

社殿の東には何様かな?

罵倒観世音と庚申塔かな?

 

社殿の裏には本殿でしょう

 

鳥居の記憶はなさそうです。

でも左程の距離ではないし、ほぼ南だし。

全くあり得ない話ではなさそうです

 

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傾いた狛犬と衝立岐大神(岩松八幡宮)

2022-09-21 20:19:14 | 石田川物語

昨日の夕方は西の空に日射しが見えたのに、今朝は泣き出しそうな空です

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、堀之内の西の方を歩いてきました。

ひめちゃんは、ズーッとどこかを見つめています

何かいるのかな?

 

田んぼ道を堀之内に戻ります。

赤と白の彼岸花が咲いています。

赤と一緒だと、白い彼岸花がいっそうきれいに見えます

 

 

 

 

尚純萩公園の後、岩松八幡宮にも足を延ばします。

八幡宮隣のいぬま公園に駐車です。

『上野国志』の記述が紹介されています。

岩松に八幡宮があり、新田義重が石清水の八幡宮を勧請したもので、その時松の小苗を採って来て植えた。それからこの地を岩松と名付けたとある。

著者・毛呂権蔵(もろごんぞう)は、隣の世良田村に住んでいました。

車だとほんの数分の所です。

 

 

公園隣の八幡宮に参拝です。

 

真っ赤な鳥居の手前に狛犬です

そういえば数年前に来た時、どちらかの狛犬が傾いていて、ちょっと心配でした。

どうなったかな?

右の狛犬さんは、傾いていません

安定しています。

 

左の狛犬さん、傾いてるかな?

やっぱり傾いています。

でも落ちないように固定してあるようです。

完全なる修復は難しいのかな?

でも、よほどのことがなければ、落ちることはなさそうです。

よかった

何らかの事情によって、このような置き方になったのでしょう。

 

 

真っ赤な元気な鳥居をくぐります。

2礼2拍1礼です。

地域の鎮守として、現役で活躍中のようです。

 

説明板があります。

やはり、「新田義重が石清水八幡宮の分霊を勧請した」とあります。

さっき行ってきた尚純萩公園の岩松尚純の子・夜叉王丸が、ここで元服したともあります

 

 

社殿の裏には、小さな社です。

もしかして、新田義貞を祀る新田神社?

岩松氏は、新田義貞ではなく、足利高氏と行動を共にしたと言うことですけど

 

 

裏から本殿です。

横(西)から本殿です。

しっかり現役です。

 

 

おや、見かけない神様です

衝立岐大神、「つきたつくなどのおおかみ」かな?

八街比許命(やちまたひこのみこと)、八街比売命(やちまたひめのみこと)もご一緒です。

 

ウィキペディアによれば、

岐の神(くなどのかみ)とは、古より牛馬守護の神、豊穣の神としてはもとより、禊、魔除け、道中安全の神として信仰されている。日本の民間信仰において、疫病・災害などをもたらす悪神・悪霊が聚楽に入るのを防ぐとされる神である。また、久那土はくなぐ、則ち交合・婚姻を意味するものという説もある。

そして、別名の一つに、衝立船戸神があります。

 

ということは、八幡宮の前の道は重要な街道だったと言うことになるようです

今は八幡宮の少し北を国道354号線(現在は格下げになって県道142号線)が走っていますけど。

八幡宮の前の道、どこから来てどこへ行くのかな?

気になります

 

さて、旧国道354号線(県道142号線)に出て帰りましょう。

コスモスの向こうに八幡宮を見ながら帰ります。

おや、シラサギもいます。

のどかな岩松の風景でした

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猫絵の殿様のご先祖・尚純萩公園

2022-09-20 13:09:49 | 石田川物語

雨の朝です

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、小やみを狙ってそこらまでのちい散歩です。

でも、やっぱり濡れてかえって、玄関でフキフキシテもらっておうちの中に入れてもらいます。

雨に濡れて帰った時のご褒美として、定着してきつつあります

おうちの中でちょっと遊んで、朝ご飯と共に自分のお部屋(サークル)に帰ります。

 

今朝は写真がありませんので、初めてレインコートを来たの獅子丸のアーカイブです。

実家に帰って約2ヶ月、2019年7月の獅子くんです。

ついでに、この頃の元気な獅子くんです。

獅子くん、大好きだよ

 

 

 

青蓮寺の説明板にあった付近の案内図です。

尚純萩公園(ひさずみはぎこうえん)が義国神社(義国公墓所)のそばになかったので心配していましたけど、一本東の道でした

 

県道142号線(旧国道354号線)を左折すると、まもなく岩松山跡です。

青蓮寺は、もとはここにあったのです。

 

すぐ北の森が尚純萩公園です。

あそこにみえる五輪塔が、岩松尚純夫妻の墓ですね。

 

入口の尾島カルタを確認です。

石に刻まれた碑もあります。

青蓮寺に尚純の自画像が残されていると言うことですから、この絵は尚純の自画像ですね。

 

尚純夫妻の墓です。

五輪塔が三基あります

 

説明板もあります。

尚純は、横瀬(由良)氏に金山城主としての座を追われ、ここに隠棲して、連歌の道に生きたのです。

そしてここには、連歌の道場として、多くの文人が訪れたのです

 

 

説明板にはありませんけれど、後にこの一族は「猫絵の殿様」として知られます

新田荘歴史資料館で、たびたび企画展が催されています。

 

2018年の企画展パンフレットがあります。

岩松氏について、

新田岩松氏は、鎌倉時代に足利義純と新田義兼の娘(新田義重の孫)との間に生まれた時兼を祖とする一族で、新田荘岩松郷に住し、新田一族の有力庶家として、その勢力を誇示しました。

新田義貞が鎌倉幕府倒幕に挙兵すると、岩松経家は足利高氏(尊氏)に組し、足利氏と行動を共にしました。新田義貞を中心とする新田本宗家が亡んだ後は、新田荘を支配し新田氏とも称しました。

戦国時代には、新田(岩松)家純は金山城を築きましたが、のち家宰横瀬氏(のちの由良氏)に実権を握られ、名目上の城主(「新田屋形」)にすぎませんでした。

 

企画展ごあいさつに、

「新田猫」とは、江戸時代に太田市下田島町に大きな屋敷を構えていた「交代寄合」格で禄高120石の旗本、新田岩松氏の歴代当主が4代にわたって描いた猫絵です。

養蚕が盛んであった上州・武州・信州では、「新田猫」は蚕の大敵であったネズミを除ける効果があったとされ、蚕室などに貼られ、蚕の神様として信仰されていました。

猫絵は岩松氏だけが描いただけでなく、浮世絵師や江戸市中を売り歩く僧侶などもいましたが、この中で、新田岩松氏の猫絵は、領主一族が持つ呪術的な性格に加え、徳川氏が先祖とした新田氏という特別な血筋を背景に、特に人気を博し、多くの猫絵が描かれました。

 

岩松氏について、簡潔にまとまっています

 

 

萩公園名残の萩です

むこうに石田川が見えます

先日、あの橋を渡りました

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御朱印はやらないんだ(岩松山青蓮寺)

2022-09-19 15:51:59 | 石田川物語

タバサねーちゃん、お出かけです。

ここのところスタンバイしても、いつも「置いてけ堀」でした

今日は、おかあさんが常広寺にお花を持っていくのに同行です

おかあさんが、郷右衛門の供養塔と六地蔵さんとお墓の3ヶ所にお花を上げてくるのを、良い子で待ちます

郷右衛門さんの供養塔の屋根は完成、六地蔵さんの屋根はもうじき完成です。

さて、お彼岸の準備が出来ました

 

あれ、今日は子猫の姿があります。

ずいぶんと大きくなりました

 

 

 

義国神社の後、石田川を確認して、青蓮寺(しょうれんじ)に向かいます。

古いながらも、しっかりした案内板です。

ただ国道354号線は格下げになって、県道142号線です。

地元のはずだけど、まだ行ったことのない所があります

そのうちに行かなくては

 

 

懐かしい風景です

でも、いちだんと古めかしくなってます。

日限地蔵尊霊場ですか。

後ろに見えるあの方でしょうか?

合掌

 

 

懐かしい楼門です

昔、尾島中学校は、この寺のすぐ西にありました。

和尚さんも、国語の先生として勤務されていました。

仁王様いちだんと劣化が進んでいるようです

 

天井画がある

天女がいる

 

楼門の裏の方が劣化がウチバなようです。

 

 

さて、本堂に参拝です。

合掌

 

日限地蔵尊の説明もあります。

多くの人が訪れた時期もあったのです。

 

本堂の奥は庫裏かな?

自転車があります。

以前来た時も、自転車でした。

奥から老人が出てきます。

「こんにちは

「何かようですか?」

「ここは御朱印でますか?」

「御朱印はやらないんだ。」

「そうですか。あのう、ここに昔K先生という方が居ませんでしたか?」

 

反応はなく、彼は草むしりを始めました。

あのときの先生は、ご存命ならば90過ぎかな?

和尚さんはちょっと若いかな

でも、自転車しか乗らない世代のようだし

 

「お邪魔しました。」

やむなく退却です

 

『念仏往生伝』に記された比丘尼青蓮、彼女は上野国のどこで生まれたか書いてありません。

武蔵国の何処に嫁いだかもわかりません。

でもここは武蔵国に近い上野国新田荘の青蓮寺です。

 

さて、もう少し付近の岩松館跡の記憶を訪ねてみましょう

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ひっそりと義国神社

2022-09-17 15:01:45 | 石田川物語

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、堀之内を西に出ます。

すっきり晴れて気持ちいいね

 

ひめちゃんは、タバサねーちゃんのおしりの匂いを嗅ごうとして叱られます

 

ごめんなさい

タバちゃんは、恋の季節が来ないの?

七海ママは、「恋の季節には、女の子同志でのっかりっこするのよ。」って、教えてくれたの

アタチは、避妊手術してあるので、恋の季節は来ないのよ

 

前方を、獅子くんのように図体の大きい黒柴が通ります

たぶん雄です。

2人は仲良く情報収集です

 

コスモスがきれいな諏訪神社前を通って、むこうの高台を歩きます。

 

 

 

 

妙蓮の板碑が出た金剛寺の脇を北上すると、義国神社(太田市岩松町)です。

9月15日に訪問です。

ひっそりしすぎていて見落としてしまいそうでした

来た事あるはずですけど、もう少し目立ったような気がします。

いきなり説明板です。

(新田氏の祖源)義国は、新田の地で没したのではないかと推測される。

とあります。

 

何とか管理されているようです

 

説明板にあった板碑はこれかな?

 

額は義国天神社です。

お賽銭投入所からお賽銭を入れて、2礼2拍1礼です

 

さて、裏へ回ってみましょう。

あれかな?

左に凝灰岩の五輪塔があります。

義国の没年があるというけれど、確認できません

 

北を見ると、石田川が見えます。

行ってみましょう

 

 

橋の上から下流を望みます。

橋の名は確認できませんでした

むむ、土手の左に見たことある風景があります

ふれあい農園です。

その向こうが、石田川式土器の出土地です。

弥生時代に東海地方から移住してきた人々が焼いたという石田川式土器、その石田川式土器が最初に出土した所です

 

上流の流れです。

豊かな水の流れです

 

さて、青蓮寺に行きましょう

 

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