「悲しみの子どもたち――罪と病を背負って」岡田尊司 2005集英社新書
著者は非行少年を相手にする精神科医(医療少年院)
社会が悪い。大人が悪い。ゲームが悪い。
そういう社会になったのは戦争が悪い。
忍耐力の無さ(忍耐を愚かとみなす価値観・社会)
強い自尊心(根拠のない自信)
いまの子供は希望がない?へ?
のびのび遊ばせろ?のびのびゲームしてるじゃん。
なんて揚げ足取りはいくらでも出来ますが、非行に走るメカニズムの理解には資するだろう。
価値観の押し付けは嫌だなー。
でも、暴力的な反社会的人間を減らしてくれる洗脳はどんどんやってもらいたい。子どもは悪くないとか理解してくれというのは無理だけど、人格の成り立ちと付き合い方を考える上では参考になる。(付き合いたくないけど)
タイトルの「子ども」には年齢的・肉体的には大人である人々も含むものと思いたい。そして、その「子どもたち」を救ってもらいたいものだ。
この本に答えを求めてはいけない。自ら考えるヒントにしなさいと。それでいいよね。
で、「昔は良かった」ではなく、現在を受け入れて対策を構築すべきだ。それには価値観が必要であるが、そこに求められるのは著者が批判するものである。つまり、そこに登場(誕生)するのは、著者と同じ価値観を持つ「子供たちの悲しみ」である。現在と未来において、「悲しみの子どもたち」とは彼らのことになるのだろう。
著者は自分の仕事を肯定するために、非行を生む社会のシステム認識を構成している。所々に見える迷いと後悔が、自分の仕事の価値に対する疑いをうかがわせる。それを打ち消すために言い訳は建前的になる。また、公的な立場で発言する著者としては建前的にならざるを得ない。だから、本音の部分は小説(小笠原慧)の方で発散しているのかもしれない。
更正なんて本当に可能なのだろうか。振りをしているだけなのではないか。非行少年は他の子どもたちとどこが違うのか。非行に走らない子どもたちの中にも同じような悪意やごまかしもあるはずじゃないか。それは誰もが当然知っている。そうだとすれば、精神科医のやっていることはより悪質な人格の形成であるのかもしれない。非行少年たちはある意味「正直」であり、それを更正させることはだます技術を磨かせることに過ぎないのかもしれないのだ。更正させられたことを恨んで、社会への恨みをもっと深いものにしているかもしれない。そして、ばれないようにとんでもない悪事を繰り返しているかもしれない。