「東海村原発事故 被曝治療83日の記録」NHK取材班 2002岩波書店
執筆:岩本裕(いわもとひろし)
1999年9月30日午前10時35分 JOC東海事業所内に遮蔽物のない臨界が起こる。
「最終的に大内の被曝量は二十シーベルト前後とされた。これは一般の人が一年間に浴びる限度とされる量のおよそ二万倍に相当する」
「放射線医学の知識から考えると、大内が浴びたと推定される放射線の量が致死量であることは誰の目にも明らかだった。しかし、この時点での大内は非常に元気で、どこから見ても高線量の被爆をした患者には見えなかった」
この時点で本人に事実を教えて覚悟をするチャンスを上げたかった。何も知らずにどんどん朽ちていく自分の身体を見たとき、医者や家族への疑念が湧きはしなかったか。恨みはしなかったか。「ただちに影響はない」を繰り返した国への国民の不信と同じものが。
それは確定しているものだった。元気なうちに話し合う時間が欲しかったろう。それを告げずにいることは一見優しさに見えるが「人間」としてではなく「モルモット」として扱っているようにしか見えない。もっと元気でいられる時間がありさえすれば告げることができたのか。
元気そうに見える姿が災いしたのだろう。そうする時間はどんどん失われていく。現場の人間たちもその行為の意味を見失う。
「チェルノブイリの祈り」が前年(1998)に出版されていた。
皮膚のただれ(はがれ)は素人でも予測できるから、医者たちは妹の皮膚の培養を考えなかったはずもなく、実際にそれが行われたタイミングを見るとそこまで生きるとは思っていなかったのだろう。それまでのデータでは二週間で死んでしまっていたのだから。(本人への告知を見送ったのもそのためだろう)
ただ、皮膚を早期に用意していたとしても、もう一人の亡くなった藤原さんのように、その皮膚は硬く伸縮をなくしていたかもしれない。
だが、治療の経過を見ていると、あらかじめ自分の組織を保存しておけば何とかなるのではないかという医療的な可能性は感じてしまう。それをやろうとすれば膨大な経費と時間が必要になるだろうから現実的ではない。だが、ヒットラーの支配する世界であればそういった人体実験の可能性はなかっただろうか。ああ、実はどこかで密かに行われているのではないか?また空想の世界に入ってしまう。
「放射線は目に見えない、匂いもない、普段、多くの人が危険だとは実感していない」
復興で頑張っている姿がテレビに流れる。
でも、そのたびに疑問が頭をよぎる。
「国の法律にも、防災基本計画にも、医療の支点、すなわち「命の支点」が決定的に欠けていた」
「原子力利用の安全の確保は、人命の尊重、財産と環境の保全を図ることである。なかんずく、人命の尊重は最優先されるべきであり、当然ながら被曝医療の対象として原子力施設の従事者と周辺住民等を区別するべきではない。・・・・・」
周りの住民を含むその他の被曝者のその後も知りたいものだ。
この事故には明らかに組織的な違反があり、それが事故の原因だった。そして逮捕者も出た。
福島第一原発事故は、そういったものの塊が隠れているのではないか。数年後に大量の逮捕者が出るのか。
「朽ちていった命 ―被曝治療83日間の記録―」NHK「東海村臨界事故」取材班 2006新潮文庫
「被曝治療83日間の記録」文庫化
あとがき追加補足、柳田邦男解説(転載)
柳田の言葉に「原爆被害者たちの症状・・・略・・・突如物凄いリアリティをもって見えてきた」とある。まさしくそれだろう。日本が原爆を落とされて多くの方が亡くなったと言われても、それはフィクションと区別のないリアリティを欠いたものだった。だが、こういったルポがそんな認識を変えてくれる。